今年1月に亡くなった鍋谷憲一牧師は、かつて猛烈商社マンだった。妻の受洗がきっかけとなり、会社を辞めて神学校に入学、牧師となった。自身を重ねた小説「もしキリストがサラリーマンだったら」を書いた。
棕櫚の主日。エルサレム入城に際し、イエスは弟子に命じて子ロバを持ってこさせ、それに乗ってエルサレムに入った。
想像すれば、こっけいな姿である。もっとマシな方法もあったろうと思う。けれども、それこそが自分自身を偽らない姿であり、力に頼らない生き方の表現だった。戦わないという決意の表れでもあった。そこに「柔和」さが表された。だからこそ、人々は「ホサナ!」と呼びかけたのだ。
 私たちは失敗しないよう努力する。万一の保証も考える。転ばぬ先の杖である。
子ロバの先にあったのは、人間の努力に先立って導かれる神さまの計画だった。
あれこれと画策しないで良いのだ。イエスのように、ありのままの自分を抱いて神さまに従うこと。この「真実」に生きたいと思う。

<メッセージ全文>

 今年1月、鍋谷憲一という牧師が70才で亡くなりました。鍋谷牧師と面識はありません。牧師としての路線もちょっと違いました。残念ながらお友だちではありません。でも彼の経歴が気になって、書かれた本を読んだことがあります。

 10年ほど前になりますが、阪急コミュニケーションズから「もしキリストがサラリーマンだったら」という本が出されました。そしてちょっと売れました。作者の鍋谷憲一さんは、三井物産のやり手猛烈社員でした。月間残業時間が180時間というような、今だと完全ブラックの経験も持っていました。

 海外の駐在も長く、順調に上へのステップを踏み進めていたのです。しかしジャカルタに勤務していた時に、奥さんが現地の教会に通い始め、受洗されるのです。その影響で少しずつ教会に出入りするようになり、帰国した後、早期退職制度に応じて退社され、神学校に入学して、54歳で牧師になりました。東京の根津教会という下町の小さな教会で牧会し、15年務めて1月に召されたのでした。

 この本は鍋谷牧師がかつて猛烈サラリーマンだった頃の数々の体験を元に、10の小説の形を取ってメッセージが書かれてあります。とりわけ最後の10章はまさに鍋谷牧自身の告白そのものを描いた小説となっています。

 主人公・江藤真之介は自他共に認める有能な商社マンです。色々な幸運にも恵まれますが、その幸運を上手につかんで本人の努力もうまずたゆまず、同期のリーダーの一人として出世コースを歩んでおりました。今で言う勝ち組でした。

しかし、本当のところ幾つかの小さなつまづきやひっかかりがあって、必ずしも自分の人生すべてに満足していたのではなかったのです。特に自分より下だと思っていた同期の上野が先に課長になった事へ、疑問と不満が渦巻いておりました。華々しい活躍を演じる江藤に比べて、上野の働きはいかにも地味で地道だったのです。

そんな折、奥さんが教会に通うようになり、遂に受洗します。それをきっかけにそれまで固く抱いていた信念が揺らぐのです。そのところを少し紹介します。

 『彼のそれまでの人生観というのはこうである。-人間の幸福は、死の瞬間において、自分の人生に満足できることにある。死に際して後悔の少ない人生が幸福な死であり、同時に幸福な生である。人生における後悔は、全部積み上げられてゆくから、人生途上における後悔を如何に少なく、小さくするかが重要である。

 人間は誰でも、人生の中で幾つもの岐路にぶつかる。岐路に立つたびにAを選ぶかBを選ぶか迷わざるを得ない。この迷いの中で、どれだけたくさん悩むかが勝負である。たくさん悩んだ結果の失敗に対する後悔のほうが、悩みもせず選択してしまった結果の失敗より小さいはずだからである。

 しかし幾ら悩んでも、自分の未来を予測できる訳ではないので、最後の決断は「自分にとって良かれかし」という「祈り」に近いものによって導かれる。だから自分の人生を支配する、何か絶対的なる存在は肯定する。つまり信仰は肯定して良い。でもその絶対的なる存在は、個人個人によって異なる存在であれば良いのであって、それが社会的に共通のものである必然性は認めない。つまり宗教などは要らない。

 真之介はこの人生観を、大学生時代の友人たちとの議論によって持つようになった。実際、就職先を選ぶ場合も、この相手と結婚するかどうかの場合も、大きな仕事の場合も、この基準によって生きて来たと言えるだろう。』

 こうあるのです。恐らく鍋谷牧師自身がそう思って生きて来た時代の素直な振り返りだろうと思われます。けれどその固い信念が、実のところあくせくしながら過していることや、奥さんの受洗によってぶれて来ました。

それで、『しかし、最近は100悩んだ結果の失敗に対する後悔も、50悩んだ結果の失敗に対する後悔も、直感に従っただけの失敗に対する後悔も、その後悔の深さに変りはないのではないかと、感じ始めていたのである。加えて、人間が人生の岐路における選択に際して悩むということそのものも、所詮は本人のわずかばかりの経験によって悩んでいるに過ぎないのであって、正しい判断基準にはとてもなり得ないほどに狭いものなのではなかろうかとも、思い始めていた。』

と変わってゆくのです。そうして江藤真之介はジャカルタ勤務から本社へ戻って一月もたたないうちにルーマニア勤務を命じられた折、それを断れば出世コースも絶たれると分かっていても、祈りのうちに転勤を断る決断をなすのでした。

さて、長いレントが今週で終わろうとしています。多分多くの人が、イエスのようには苦難を忍ぶことはとてもできなかったという思いを抱かれているだろうと思います。かくいう私自身がそうです。たった40日、何か一つのことを我慢するということさえも難しいのです。それはまさしく弱さの故ですが、同時にそれはやっぱり自らの頑なさの故でもあると思うのです。

バブルが去ったあと、勝ち組になるために、凄まじい粉飾を重ね続けた企業が幾つも明らかとなりました。更に時が経ちましたが、あれほどまでではなくても、同じような虚飾や偽りが相変わらず満ちています。と言うより、今だけでなく一部の話でもなく、これまでもずっと人間の歴史は「偽り」の歴史ではなかったかと思うのです。

イエスが40日、荒れ野において戦った相手とは、この「偽り」だったと感じます。悪魔から提示されたものは、おしなべて自分自身を捨て、或いは自分を粉飾して偽って大きくなろうとすることへの誘惑でした。どれもこれもつい手を伸ばしてしまいそうな偽りへの誘いばかりでした。しかしイエスは、ことごとくそれを蹴りました。偽らず、飾らず自分の人生を生きてゆこうと決意し、選択しました。それこそが神さまの願われる道であったのでした。

蹴りました、と今言いました。様々なに誘惑に打ち勝った、という意味ではありません。イエスはそれらと戦わないことを決めたのです。戦うということは、同じ土俵に上がることです。イエスであれば、そうであっても勝ったのかもしれません。でも悪魔の力は想像外に強く、しぶとい。イエスはそれを十分知っていたので、同じようにそれと戦うということをしなかったのではないか、そう思います。

そしてさあ、宣教の旅が終わりに近づいて、いよいよエルサレムに入城する時がやって来ました。この時に、イエスは弟子に命じて子ろばを持ってこさせ、それに乗って町に入られたのです。

それは何度想像しても、こっけいな姿です。子ろばであれば、またがったら両足がつくような状態だったでしょう。だから横座りしたのだと想像して描かれた入城の絵があります。とても堂々たる入城ではありません。暴れん坊将軍のように、金銀の刺繍の馬具に飾られた白馬に颯爽とまたいで入城を果たす方が、どう考えてもかっこいい。それが子ロバに自分のみすぼらしい上着をかぶせて、乗るというより、幼子がまだ漕げなくて三輪車を引きずってゆくがごとくの、何とも冴えない姿でした。三度の予告を経て与えられたその光景に、弟子たちの表情も青ざめていたことでしょう。

けれども、それこそがイエスの真実でした。ありのままの姿でした。だからこそ4つの福音書は、すべてこの何ともおかしみを感じるイエスのエルサレム入城を記録したのです。その子ろばの先に見えていたのは、イエスを導かれる神様の確たる杖だったからでしょう。そこにこそ真の平安が満ちておりました。

そもそもエルサレムに入城する前から、イエスを捕らえる情報は行き渡っており、殺される可能性、危険性は際立って見えていました。戦わないと決めたイエスは、それに対しても同じ決断を下したのです。抗わない。力には頼らない。

ちなみに、日本国憲法は、本当にすぐれた平和憲法だと思います。特に九条です。あの文言があり、あの文言さえ守るなら、日本は世界のどの国に対しても攻撃したりしない国であるはずで、本来どのような武力・軍事力を持つより強い平安を持っているのです。

小説の中で、江藤真之介は、ルーマニア転勤を断る決断を下しましたが、なお感謝の祈りを捧げました。もう少し丁寧に、その決断に至る葛藤を描けば良かったと思いますけど、それは勝ち組でも負け組みでもない、失敗やつまづきを無用に恐れない、一人の人間として誠実な生き方を選択した結果だったと受け取っています。同じようにそこに満たされる不思議な平安がイエスを包んでいたと想像します。

今日のテキストの平行記事で、マタイは「見よ、お前の王がお前のところにおいでになる。柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ロバに乗って」との平和のメシアを予告するゼカリヤ書の言葉を用いています。この柔和な救い主の姿をイエスは確かに選んだのです。イエス自身が柔和だったというだけでなく、力に頼らず、戦わず、自分のありのままをさらけ出して生きる、その姿が柔和であったのです。それは誰をも受け入れる広さと深さを示しました。

だからこそ、その不思議な平安に満たされた柔和なイエスを見て、群衆たちは「ホサナ」と叫んで出迎えまし。ホサナとは、救って下さいという意味ですが、いつの日か救って下さいということではなく、今すぐ救って下さいという強いニュアンスを含んだ言葉です。

 たとえどんな努力をし、多くの持ち物を手に入れたとして、それが本人とその人生からかけ離れた偽り、飾りであれば、きっとすべてが空しいのです。また力に頼んで無理をするなら、つまづきは見えているのです。いさかいや争いを産むからです。それが嫌で人は失敗しないよう知恵を重ねます。万一に備えて保険もかけます。

でもイエスの、子ロバの先に待っていたのは、失敗しても大丈夫という神さまからの安心、平安の力でした。子ロバに象徴される、この世的にはみすぼらしく、頼りなく、価値のないように見えるものでも、それが本人を偽らず、飾らず、等身大で生かすものなら、神様の目から見て美しいのです。それを真実と言います。子ロバの先に、真実という名の十字架と復活の出来事が備えられました。

天の神さま、転ばぬ先の杖と言います。それは失敗しないためのこの世的な保障を指します。でもイエスは偽らず飾らず誠実に生きることを持って、真の平安を示して下さいました。私たちもそれに預かり、それに導かれて生きたいと思います。顧みて下さい。