「贈る言葉」
牧師 横山順一

 先月二日、京都の某ホテルで、今年も同志社大学神学部予餞会(よせんかい)が開かれた。
私は同信会財務委員長として、卒業生にお祝いの支度金を渡す重大な任務があって出席している。

昔は現金を手渡しした時代もあったが、その晩使い果たす強者がいて、為替に変えられ、今年から口座振り込みとなって、目録を渡すこととなった。
 もしかしたら今時「予餞会」などとは、古いかもしれない。予餞会という単語を知らない人もいることだろう。
 「餞」とは「はなむけ」という意味で、予(あらかじ)め、はなむけする会、簡単に言えば卒業生を送る会である。

 今年は、川上侑さんら十名が巣立って行った。いつも送る言葉で悩み、歌う一曲で迷うが、こう挨拶した。
 「君たちは、昨日までは神学部の後輩だった。今日からはライバルだ。
 ライバルは、英語に転じてから競争相手という意味合いが強まったが、原語ラテン語のリバリスは、もともと、同じ小川の水を使う者という意味。
 同じ信仰を持つ者としてライバル。この小川をお互いもっと大きな川にして行こう」

そして新島襄の「庭上の一寒梅」の歌を歌った。これを知らない人が増えてショックだったが。
新島が旅先で倒れ、養生していた神奈川・大磯の宿の庭に咲いた一輪の寒梅を見た。これから春に向け多くの花々が咲く先駆けとして、力むでもなく争うでもなく、風雪に耐えてたんたんと開花した寒梅に心動かされて一句を残したのだった。これが遺句となった。

思い起こせば三十年近く前、私も予餞会で送り出された。その時、当時の神学部長N先生は、
「君たちのことを、何一つ信用していない。」
と、衝撃の言葉で切り出され、
やや間を置いて、
「だが、君たちの背後におられる方を信じている」
と結ばれた。生涯忘れ得ぬ贈る言葉となった。

 学生YMCAの友だったS君(今は名古屋工業大の教授)からも素敵な言葉をもらった。
「聖は聖に非(あら)ず、聖は‘遊’なり」
 以来、この言葉をずっと胸に抱えて来た。

 予餞会で配布される資料には、欠席者も含めて、同窓からの多くの贈る言葉が掲載される。
 近年は、イラスト入りのものも増えて時代を感じる。私は、S君からの言葉を毎年記す。

 心のこもった言葉の数々は、新卒生のみならず、もはや立派なおっさんとなった私たちをも鼓舞する貴重な励ましだ。
 今年のそれに、京都のK牧師が「なんの苦労もなく楽なことばかりでありますように」と書いていた。
 思わず声に出して笑ってしまった。知らない人には不謹慎な言葉かもしれない。だが、同じ小川の水を飲むライバルには、非常に分かるユーモアに富んだ「祈り」なのだ。ぼちぼちいこか!