上映中の、実話に基づく映画「ペンタゴン ペーパーズ」から、真実の報道の力を知らされる。
 テキストはトマスとイエスの会話。双子という意味の名前から想像されるものがある。ヨハネ福音書に記された他の文章から、彼の印象は、何かをつぶやかずにはおれない人に思われる。
 見なければ、触らなければ信じられない、とトマスは言った。いかにも現実主義で信仰薄い者かのようだ。
 だが、イエスはそんな疑いを持つトマスを受け入れた。疑いを持つことは悪いことではないのだ。復活の中身を問うたのだ。
 「見ずに信じる者は幸い」とイエスは語ったが、それは疑いを持たないということではなかろう。むしろ、疑いを許さず、絶対性を振りかざす時、人はおかしくなってゆく。例え信仰の世界であっても。琉球新報記者の告白に励まされる。
 トマスは、結局、見ること・触るなしにイエスを信じた。疑いからの出発だったが、そこから確かに信じる者(解放された者)とされた。
 疑問をぶつこと、叫びをあげることは真に明日へ向うために大切な作業である。

<メッセージ全文> 
 今、「ペンタゴン・ペーパーズ」と言う映画が上映中です。実話に基づく映画で、監督はスティーヴン・スピルバーグ。主演はメリル・ストリープとトム・ハンクス。時代は1971年のことでした。

簡単にまとめると、ベトナム戦争は負けると分かっていたのに、国民をだまし続行して来たことをまとめた文書が政府によって密かに作成されていました。まさしく国家機密文書です。それを入手したニューヨーク・タイムズは、新聞発行寸前で政府にばれて、発行差し止めをくらうのです。二番手で情報を入手したワシントン・ポストが、ニクソン政権からの圧力を押しのけて発行し、裁判でも勝訴します。マスメディアが真実の報道をしないでどうする、という信念を、女性社主と編集主幹が貫き通した出来事でした。どこかの新聞には耳の痛い話ではないかと思います。ワシントン・ポストは今も、権力に対峙する新聞なのでトランプ大統領からは嫌われていて、出入り禁止とか言われているようです。

 さて、今朝与えられたテキストは、実は先週の林美恩宣教師のメッセージと同じ個所でした。決して意図的にそうしたのではありません。偶然です。復活したイエスが、弟子の一人のトマスに出会った時の出来事です。このトマスとはアラム語で双子という意味です。24節に、ディディモと呼ばれるトマスとありますが、ディディモもギリシャ語で双子という意味です。

ちなみに、機関車トーマスのトマスです。短縮形で言うとトム。トム・クルーズのトムです。トム・ハンクスのトムです。先週お邪魔した、飛騨高山教会の大塚牧師が飼っている犬の名前もトムでした。
それはともかく、本当に双子だったのか、それとも象徴的な意味合いなのか、よく分かりません。ただ記録されている彼の行動から推し量って、大変現実的な人であることが想像されます。また双子はしばしば相手に左右されると聞きます。同じ喜怒哀楽を伴うこともあるし、その正反対のこともあります。トマスもまた相手によって随分と違う反応を示した人でした。ちょっと変な奴かもしれません。

 ヨハネ福音書11章にラザロが死んだ時のトマスの言葉が記されていますが、ラザロのところへ行こうというイエスの呼びかけに、「私たちも行って、ラザロと一緒に死のうではないか」と答えたことが描かれています。奇妙な返答だと思います。また14章では、「心を騒がせるな、神を信じなさい」と語ったイエスに、「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしてその道を知ることができるでしょう」と応答したトマスが記されています。ちょっとした疑問でも抱いた以上、何かをつぶやかずにはおれない人だったでしょうか。

 そして今日のテキストですが、24節に12弟子のうち、彼一人がイエスが来られた時、彼らと一緒にいなかった、とあるのです。これはまた意味深な表現です。何かよんどころのない事情でそこにいなかったというより、敢えて離れていたとも思わせる記述のように思えます。しかも、イエスと出会った他の弟子たちの「私たちは主を見た」という証言に対して、「あの方の手にクギの跡を見、この指をクギ跡に入れてみなければ、またこの手をそのわき腹に入れて見なければ、私は決して信じない」と答えたのです。次第に、疑り深い、性格悪そうな人物のように思えてきます。

 ところが、このトマスに対して、イエスは直接声をかけたのです。今度は皆と共にトマスもおりました。戸には、みな鍵がかけられていたと26節にあるので、当局を恐れて隠れ閉じ篭っていたものと推測されます。そのさ中に、イエスは姿を表し、わざわざ一人トマスに向って「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私のわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と直に言葉をかけたのでした。トマスが口にしていたことへの、そっくりそのままの応答ですが、そこにはトマスへの不満や叱責は何も感じられません。怒りもありません。感じられるのは、全く隠し事のない、心を広げ、招かれる主(あるじ)の姿勢です。ここで何か細工があったり、特別な条件が示されたりしたら、かえって怪しい。隠し事の世界にはまってしまうところでした。

 そう、トマスは本当に現実主義者だったのでしょう。ですから、復活を信じないといより、復活とは何か?ということについて考えあぐねていたのではないかと思うのです。イエスが復活したという、その復活は、もしかして全然別の人間への復活なのかどうか、もしそうならそれは自分にとってちょっと違うと疑念を抱いたのではないか、そんな気がします。

 それを察知したからこそ、イエスは「見なさい、触りなさい」と返答した。それは別の人間ではない、知っている変わりない私自身なのだ、という意味が込められていました。このイエスの陰のない、裏のない言葉にトマスは今度は全く素直に信じたのです。「私の主、私の神よ」と答えたと28節にあります。自分でもそれまでそう言い、イエスからも「見なさい、触れてみなさい」と言われたのに、結局見ることも、触ることもなしに信じたのです。それはやっぱりちょっと変なのでしょうか?変ではないと思います。

 このトマスの態度は、よく考えれば当たり前のことなのです。見なければ、触らなければ信じられない、自分の答えを出すことができない、まずはそう判断する方が、周囲に引きずられて思わず、本意ではないことを語ったり、無理やり信じ込んだりするより、ずっと現実的であるあるのです。むしろ、見ず、触りもしなかった他の弟子たちの方が能天気に近いのかもしれません。

 信仰は、私たちそれぞれの苦労を、残念ながらなくしてくれるわけではないのです。そうではなく、信仰は私たちに苦労を乗り越えさせるものであって、トマスはその事を一つ一つ目の前に起こる事を通して、疑問をぶつけ、叫びをあげ、つぶやきながら確認していたのだ、そう思うのです。

 イエスの復活の出来事は、十字架の出来事と相伴って、一言で言えば「罪の赦し」の宣言であったと言えます。この罪の赦しというギリシャ語の原語は、もちろん赦すという意味を持っていますが、同時に「解き放つ、解放する」という意味も持っているのです。

 私たちは信仰生活の態度において、疑うことは基本的に許されないこと、恐れ多いことではないかとどこかで思っています。言うなれば疑いは罪であると。でも実は、そのような絶対性を振りかざす事こそ、人を人でなくしてしまうのです。これは絶対だ、と声高に言うことほど、人を解放するどころか、閉じ込め、精神的につぶしてしまうのです。当時の律法がまさにそうでした。もちろん、どのような思想であっても、哲学であっても、イデオロギーであっても同じです。それどころか、宗教の礼拝や礼典ですら絶対と言い張る時に、人を殺してしまうのです。

 神戸マスクワイアのTさんから、次のメールをいただきました。それは琉球新報の文化部の記者をなさっている、塚崎昇平さんの文章です。琉球新報と言えば、沖縄タイムスと並んで、地元に密着し、権力に抗う新聞として知られています。だから政権側の方には嫌われたりします。その塚崎昇平記者の、「ネット右翼でした」沖縄に暮らし、記者になって思うこと、と題された文章を紹介します。

 「学生時代、私は「ネット右翼」だった。辺野古や高江で米軍基地建設に反対して座り込む人々に、ネット上の言説を根拠に「反日勢力」とレッテルを貼った。琉球新報など、権力にあらがう人々を伝える報道には、自分なりの国家論を振りかざして反論した。持論がネット上で賛同されるのを見て、悦に入っていた。

 考えが変わり始めたのは、友人と訪ねた辺野古や高江の現場を目の当たりにしてからだ。座り込む人たちに、自分の意見をぶつけたが、「君は間違っている」とぴしゃりと言われた。対話を重ねるうちに、抗議を続ける動機に「生活を守る」という意識と、沖縄戦の記憶が流れていることに気づいた。ネット上の情報だけを信じていた自身の浅はかさを痛感した。

 その後も戦後史を学ぶにつれ、辺野古新基地建設に対して強い疑問が生まれた。「自分も意思表示したい」。そう思うようになり、新基地建設に抗議する県民大会に足を運んだ。家族連れら、様々な人が集まった様子を見て、「反対運動はお金をもらった人々」というネット上のデマが現実離れしていると感じた。その中で「より多くの人に現場を知らせたい」と思い始め、記者を志望することにした。」

教育担当記者となった今も、辺野古取材班に加わっている。4月からは北部報道部に配属となる。ゲートに座り込む市民を取材する機会も多くなる。「ネット右翼」だったかつての私のような人たちに、どうすれば現場の状況を理解してもらえるか、考え続けている。

こういう文章です。何か、嬉しくて力が沸いて来ます。疑いはかえって本当に信じるための出発点かもしれません。トマスはそこから信じる者とされて行きました。疑いを通してイエスに招かれ、解き放たれて行ったのです。信仰の世界でも、ガマンして耐えるより、まずは疑問をぶつこと、叫ぶことはとても大切なことです。明日のために。明日に向って、ぶて!

神様、復活の信仰をありがとうございます。自明の理として受け入れるのではなく、確かなものとするための作業をなしながら、信仰を深め、そこにおいて更に成長する者として下さい。