人間の体で最大の器官は、従来何もないと思われていた「間質」だという。
「第一次大戦中、切れた通信線を修復したまま、砲火で死んだ兵士の絵は、キリスト者たちがキリストの成し遂げられた働きについて信じていることを図示している。」ハンター(英神学者)
テキストは「私はぶどうの木、あなたがたはその」枝である」の有名な聖句。浪花教会からは、これまで関西労伝に多大な支えをいただいている。それは「間に立って取り結ぶ」働き。どの関係においても大切な働きである。
福本年雄さんは、演劇経験がないのに、自腹で劇場を立て、関西の小劇団を懸命に支えて来られた。頼まれもしないのに、割って入る形。
イエスもまさにそうだ。割って入るには相当の洞察力や理解がないと難しい。かつて、取り結ぶことの大切さと大変さを経験したが、イエスこそは羊飼いとして、羊と羊を取り結ぶ役割を命をかけてそれをなした。
人と人、神と人との関係を取り結んだイエスが、「私につながっていなさい」と呼びかけた。それはイエス自身が、あなたとコンビを組むという決意でもあった。弟子たちもイエスとつながる豊かさを感じただろう。そこに多様な家族模様が生まれて行った。私たちもその絆を強く固めたい。

<メッセージ全文>
皆さん、人間の器官の中でもっとも大きいものは何かお分かりでしょうか?脳とか肝臓とか思い浮かぶものがあると思いますが、これまでは体重の約16%を占める「皮膚」というのが定説でした。

「器官」をどう定義するかにもよるのですが、アメリカの学者が最近、新説を提唱したそうです。従来、何もない単なる空間と思われて来た、器官と器官の間にある「間質」。ここを高性能の内視顕微鏡で調べると、独自の組織、液体、細胞で満たされた生命活動の現場であることが分かったというのです。そしてこの間質こそは、体重の20%を占める最大の器官だというのです。間をつなぐものこそが、最も基本だった訳です。

スコットランドの神学者、A.M..ハンターという人が次のような文章を書いています。
「第一次世界戦争の折に、カテリック陣地に描き残された有名な絵がある。その絵には、一人の通信兵が無人地帯で死んで横たわっている姿が描かれている。彼は砲火によって破壊された通信線を修理するために派遣されたのである。彼はそこで死んで冷たく横たわっている、が、しかし、彼はその使命を全うした。なぜなら、彼は硬直した手の中で、切れていた通信線の両端をしっかり握り締めているからである。その絵の下には「開通」throughと一言書かれている。

これはキリスト者たちがキリストの成し遂げられた働きについて信じていることの、図示である。罪は神と人との接続を切断した。キリストはその死によって、神と人との間の切断された交わりを回復したのである。」

残念ながら、私はハンターが紹介しているその絵を見たことがありません。戦争を美化するつもりはありませんし、兵士の死は空しいと思っています。でも、命がけで通信線をつなぐ使命を果たした兵士の姿、そこに救い主の働きを重ねて見たハンターの思いは受け取ることができます。

今朝与えられたテキストは、有名なイエスの言葉でした。「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。」

つなぐということで、私は浪花教会や代々の牧師の働きのことを思い起こします。浪花教会にしても、前任の村山牧師、現在の山口牧師も、様々な働きをしておられる一方で、場所として、役割として浪花教会を提供し続けて下さっています。関西労働者伝道委員会は、いつも浪花教会を会場としてお借りしています。お借りしていますが、一度として、会場費を支払ったことがありません。甘えていると言えばその通りなんですが、関西労伝の内情からして、とてもお金がありませんので、それをよく知っておられる教会からも牧師からも、要求されたことはありません。

場所的に便利ということはもちろんありますが、関西労伝道の働きは、村山牧師の更に前の三好牧師の代からずっと、支えて来ていただいているのです。この浪花教会の支えがなければ、関西労伝の働きはできない、と言っても過言ではないでしょう。

それは間に立って、取り結ぶという働きだと思います。多分、どのような人間関係、どのような組織であっても、この間に入って取り結ぶという働き、それを担って下さる方や組織がなかったら、何事も上手く運ばないのではないか、そう思います。

さて、大阪に福本年雄という人がいます。心斎橋でビルを経営しながら、そのビルの最上階に自腹を切り、自宅を改築して100人入ればいっぱいという「ウィングフィールド」という名の小劇場を作りました。自分自身はまったく演劇経験のない福本さんでしたが、一人の演劇プロデューサーと出会ったのがきっかけで、関西の小劇団を支援しようと決意して、必死で支援して来た方です。

裕福だったからできたのではありません。経営はいつも綱渡り、ご自身はアルコール依存症と闘いながらの、満身創痍と言っていいような形での支援でした。相撲のタニマチとはちょっと違うのです。敢えて言えば、頼まれもしないのに割って入るというのに近いと思います。

客観的に見れば、ボロボロになってまで、そこまでしなくてもいいのに、という状況に何度も陥りながら、けれど彼を支えたのは「自分にない才能に触れるのがうれしいから」というたった一つの理由でした。こうしてウィングフィールドから更に新たなアート、模様が生まれてゆくことになったのです。

私は、この福本さんの足跡を思う時、イエスの生き様を改めて思わずにはおれません。自分を羊飼いとしてなぞらえたイエスは、良い羊飼いは、羊のために命を捨てると語りました。それは一体何のためであったか。

それこそ、間に立って、取り結ぶ為であったと思うのです。それも頼まれもしないのに、割って入るという形であったのです。割って入ると一言で言いますが、これほど大変な事はないのです。いっときの義憤や熱情にかられて、つい立ち入ったことが、かえって問題を大きくしてしまうことは、よくあることです。よほど双方を知り、何が一番大切かをしっかり踏まえていないと、間に立って、取り結ぶことなどできないのです。

かつて会堂建築を巡って、ある信徒と別の信徒の間で、いさかいが起りました。それ自体は、小さな意見の衝突に過ぎなかったのですが、この衝突までに溜まっていた不満やストレスが背景にありました。

当時まだまだ未熟だった私は、そのいさかいを目の当たりにしても、牧師として、さてどうして良いか分からず、ただ心配し、おろおろするばかりでした。そこへ一人の役員をしている信徒から電話が入りました。「先生、今からすぐに二人を訪ねましょう。ここは早急に間を取り結ばねばなりません。私もご一緒しますから」という内容でした。そうして直ちに彼と共に二人を尋ね、話を聞き、互いを取り持ったのです。結果的に、それは見事上手く行きました。もし放っておいたなら、ますます不満がたまって、最悪の状態になっていたでしょう。素晴らしく適宜にかなった行動を、一人の信徒が手助けして下さいました。二人の間柄、それまでの経緯、そして課題が起きた時の必要な対処、これらを十分に知っておられたこの方の手助けがなかったら、大変な事になっていました。でも間に入る力のお陰で、以前より広い家族模様が生まれたのでした。

羊飼いとして、羊飼いが羊と羊飼いとの関係を考えることは言うまでもなく当然のことです。けれども、羊と羊の間に立って両者を取り結ぶことは、もっと大変でもっと必要なことであるのです。イエスは命をかけて、そこに立ちました。頼まれもしないのに割って入り、そして事実、命を失いました。しかし、それ故に再び命を得たのです。

そのイエスが「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である」と語りました。先ず最初に「わたしはまことのぶどうの木、私の父は農夫である」と語り始めています。まことのぶどうの木とは、本物のぶどうの木、という意味です。本物とは、偽りではないということではなくて、実際の、現にあるという意味合いです。つまりイエスは、当時の農夫たちが育てていた通りの普通のぶどうの木をご自分になぞらえられたのです。良い実をたくさんならそうとするなら、悪い枝は早い段階に処置せねばなりません。そのことによって、より一層良い実を得ることができるのです。そのぶどう作りの現実の風景が、イエスの例えを聞いた弟子たちにはすぐに、そして豊かに想像できたでしょう。

余談ですが、このたとえは、イスラエルであったからこそで、もしイエスが日本に生まれていた、例えば「私は桜の木」と語られたに違いないと思っています。桜切る馬鹿と言われるように、枝を切ったらおしまいだからです。
それはともかく、イエスは大変分かり易いたとえで、自分と人々との関係を表したのです。それは繰り返して申しますが、人と人の間、そして神と人との間を取り結ぶためでした。ただ自分自身との関係だけを語ったののではなく、更に広がりを持つ、人と神との関係について語られたのです。そこから一層広がる家族模様、人間模様を夢見てのことでした。

福本さんの人生から、繋がることの素晴らしさを教えられます。彼は自分自身が役者でも何でもありません。しかし演劇に関わること、育てることは、役者でなくてもできるのです。否、むしろそうでないからこそできることがあるのです。自分で何でも出来なくて良いのです。繋がるとは、心に関わる言葉であって、すべて直接的にくっついているということを意味しません。

イエスは「私に繋がっていなさい」と弟子たちに声かけました。それは、イエス自身があなたとつながる、あなたとコンビになりますよ、タッグを組みますよという招きの言葉でもありました。

残念ながら、この訣別説教を忘れて、一旦は逃げ出し、自ら切った弟子たちでした。けれども、彼らが切ったつながりを、イエスは十字架にかかり、復活して、再びつなげたのです。その時に、イエスと繋がることの豊かさが弟子たち一人一人に実感されたことでしょう。

つながって、つなげられて更に実を結ぶ生き方をイエスは勧めます。あなたとコンビに!そこから生まれる新たな家族模様。その展開を心して見つめたいのです。

天の神様、私たちイエスとつながっていたいと思います。そのところで、人は立場や意見が違っても、他者、隣人とつながることができます。そして神様と深く結ばれるのだと信じます。どうか、この絆を固くして下さい。