「奥飛騨慕情」
牧師 横山順一

 岐阜県は、面積では都道府県ランキングで第七位、十二位の兵庫県のおよそ一・三倍ある。人口は約二百万人。

濃尾平野のある南側が美濃、北アルプスを含む山岳地帯が飛騨だ。
高山まで鉄道が開通したのが、一九三四年(昭和九年)だった。

高山本線と言っても、単線なので、上下線入れ違いの時間があったりして、名古屋からだと特急で二時間二十分はかかる。

日本三名湯の一つで知られる下呂からは、本当に山ばかりだ。その下呂までが一時間四十分。残り四十分、高山まで長く感じられるのは景色のせいだろう。

高山に入る手前で二千メートルほどの「宮トンネル」に入るが、そこを境に、川は日本海へ流れ出て行く。

北米スカンジナビア・アライアンス・ミッションが横浜に宣教師十五名を展開したのが一八九一年(明治二十四年)のことだった。

四年後、そのうちの一人、まだ二十歳だった女性アンナ・ダニエルソンが高山にやってきた。
ほぼ徒歩で来たという。鉄道はもちろんない時代、あの急峻な峠道の数々を思えば、想像を絶する。

しかも到着するや、宿でつまづくのだった。怪しまれ、誰も家を貸さないのだ。
ようやく得た住居にも、しばしば石つぶてや雪玉が投げ込まれたという。

それでも英語塾を開き、日曜学校を開始し、懸命に伝道を続けて四年。遂に断念して帰国後、すぐに召天した。二十五歳だった。

高山での伝道は、困難を極めた。それでも受洗志願者が与えられたのは奇跡のような出来事だった。

そのうちの一人は十八歳の女性だったが、家族の大反対を受けたばかりか、飛騨から出て行くよう命じられ、極寒の野麦峠を歩いて横浜に逃げたそうだ。

映画で知られるようになった野麦峠は、高山市と長野県松本市との県境に位置する標高千七百メートルの難所である。

その後何人もの宣教師がやって来ては挫折を繰り返し、戦後になって父親が同盟基督教団の伝道所を開設した。それを引継ぎ、日本基督教団の飛騨高山教会としたのが、大塚信明牧師だ。
創立五十周年記念礼拝に招かれ、大塚牧師から飛騨の伝道史を聞かされた私は、うつむいて泣いた。。筆舌に尽くしがたい伝道の闘いに身震いした。

その高山は今、世界中の外国人観光客であふれ、賑やかである。
街もそうだが、私自身が行き帰りの高山本線で実感した。車両のほとんどが外国人。それも例えばブラジルからの団体客だったりする。

列車内に飛び交う言語は、だからポルトガル語だったり、フランス語だったりだ。韓国・中国語ももちろんあったけど、意外に英語が少ないのだった。

 青い目の外国人が珍しいというより疎ましく、キリスト教が嫌われて、伝道につまづいたダニエルソンさん。今の高山を見たら、驚きの余り、言葉も出ないだろう。
 ブームがいつまで続くか知らないが、「世界が近づいて」いるのは間違いない。