自分を受け入れられない状態は、つらい。まさに闇だ。
日の丸・君が代の強制に反対して、処分された教師たちのドキュメント「私を生きる」。いじめや嫌がらせに自分を見失いそうにされて行く。無力さのただ中にあって、しかし「自分」が「自分」でなくなったら終わり、との思いで何とか踏みとどまる姿に胸が熱くなる。
仮庵の祭りは、収穫感謝の祭りであると同時に、水の祭りでもあった。シロアムの池から祭司が水を汲み、祭壇にささげる。そのクライマックスの折、「乾いている人は誰でも、わたしのところに来て飲みなさい」と大声で語ったイエス。
きらびやかな祭りの陰に隠された多くの人たちがいた。形式的な祭りは、闇が見えない闇であった。
イエスは旧約聖書を用いて、「その人の内から生きた水が川のように流れ出るようになる」と宣言した。無力さに苛まれていた人たち自身が、そうではない、と転換される瞬間だった。彼らの闇の、実にすぐとなりに希望が置かれたのだ。あなたを生きよ、と。 感謝!

<メッセージ全文>
自分の能力を超える事をうっかり引き受けてしまって、期待され託された事に充分応えることができなかったりする時があります。それで、あ~、自分は力が足りんな、まことにもって情けないな~、と落ち込んでしまう。そういうことがありませんか?

私など、顔も態度もでかいんですけど、実のところコンプレックスの塊です。あまりの無能力さに、自分が嫌になってしまうことが、しばしばあります。でも牧師なので、そういう時の言い訳をすぐ考えてしまいます。そういうことをしてはいけないんですけど、都合良く聖句に頼って、神さまのせいにするのです。

例えば、釜ヶ崎公民権運動のリーダーを務めていますが、なかなか満足行くだけの働きができません。そういう時、アモス書の5章を思い起こすのです。24節に「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ」とあります。有名な言葉ですが、自分の足らずを神さまのせいにしてしまうのです。そんなに言うなら、神さま、あんたがそうしてや。俺には無理。そう自分に思い込ませて乗り切るのです。

能力もそうですが、自分で自分を受け入れられないことがあるとしたら、それはホントつらいことです。力がないと落ちこんでしまう時、もしそこに他者からの批判や攻撃が加わったりしたら、どんなにひどい精神状態になるでしょうか。まさに闇ですね。闇と言う字は、門の中に音と書きます。音を閉じ込める訳です。つまり、言いたいことが言えなくされる、自由に生きられない状態、それが「闇」であるのです。

「私を生きる」というDVDがあります。東京都教育委員会はもう10数年近く前に、都の公立学校教員に対して、国歌・国旗への起立・斉唱を義務付け、指導を強化しました。大阪も同じですが、東京は当時石原都知事になってすぐのことでした。さすがは橋本さんの師匠、大阪よりずっと早くこんなことを始めていました。

「私を生きる」は、そういう環境の中で、それぞれの人生の背景をもって、どうしてもそれに従えなかった3人の先生たちの姿を撮ったドキュメントです。全員紹介できませんが、一人はわが日本基督教団の信徒でもある佐藤美和子さん。音楽教師として、君が代のピアノ伴奏を校長から指示されましたが、自分の信条としてどうしても受け入れられず、拒否を貫きました。

もう一人は、度重なる処分にも関わらず、日の丸に起立しなかった根津公子さん。既に退職されています。根津さんは、自分のおじいさんから聞いた戦争体験と、自分が学んだ戦争記録のギャップに衝撃を受け、家庭科の教員として最も大事な生活観を大切にする教員を目指しました。

佐藤さんも同じですが、ひとたび教育委員会の指導が入り、校長からの職務命令が出されると、それまで拒否していた仲間がどんどん減って行く、ばかりか様々なところからの嫌がらせやイジメを受けるようになるのです。

このDVDの中にもはっきり写っています。根津さんを支援する人たちが根津さんの勤務先の学校の校門前で、支援を呼びかけるチラシを配っているところへ、何人かの学校関係と思われる人たちがやって来て、いきなり「やめろ!」と怒鳴るのです。

本来チラシを配る自由があります。にも関わらず、「それは自由をはき違えている。」国旗・国歌に忠誠を尽くすのは、当たり前。自分で判断できない子どもたちに強制して教えるのは当然のこと。それができない奴は、日本人じゃない。出て行け!」、そういう主張を大声で繰り返すのです。ほとんどヘイトスピーチです。「あなたがそう思われるのは、もちろん自由。でも反対する自由もある。」精一杯反論する根津さんたちに「あかん、何言うても分からん奴と話してもダメ」と吐き捨てるように言って姿を消すのでした。

生徒やPTAからも目を背けられ、学校内で孤立を深めて行く根津さんや佐藤さん。二人とも証言されました。「もう死のうかと何度も思った。そしたら楽になれるから」。君が代で立たなかった、君が代を歌わなかった、たったそれだけのことで教員としての資質のすべてを否定され、処分を受ける。仲間はいない。絶望感にさいなまれるだろうことは想像に難くありません。

けれども、ぎりぎりのところでそれを思い留めたのは、嵐のような誹謗中傷にも関わらず、それで諦めたら「私が私ではなくなる」という思いからであったのです。すなわち、無力さに打ちひしがれる闇のただ中にあって、しかしそうではないという声がどこからか聞こえて来て、弱さの中で立つことができるようにされた、ということだったのです。

今朝のテキスト、イエスは「乾いている人は誰でも、私の所に来て飲みなさい」と人々に語られたとありました。それも「大声で言われた」と記されていました。この時、祭りが最も盛大に祝われる終わりの日だったと37節にあります。
これは仮庵の祭りでした。ユダヤの人々にとって大きなお祭りです。このお祭りの最終日、神殿から祭司が都の南に位置するシロアムの池まで行って、水を汲むことになっていました。神殿から池までは15分くらいかかるそうです。恐らく、伴の者も引き連れて、うやうやしく水を汲みに行ったことでしょう。そしてそれを持ち帰って神殿の祭壇にささげたのです。

エルサレムは標高800メートルのがけの上に円盤状に作られた町です。敵から身を守る要塞としては適していますが、一方で、水がないことが最大の弱点でした。旧約のヒゼキヤ王の時代に、地下に水脈を発見し、そこから水路を引いてシロアムの池を作ったのです。それで幸い水への危機が無くなり、同時に感謝を表すこととなりました。仮庵の祭りは、本来収穫感謝のお祭りでしたが、そういう訳で水に感謝するお祭りにもなって行きました。そこにはイスラエルの民がエジプトを脱出した、あの紅海の奇跡の出来事も覚えるという意味も含まれていたでしょう。

祭司がシロアムの池から水を汲んで、神殿に捧げた後、人々は祭司の後に従って神殿の回りを7回回るという習わしも定められていました。こういう儀式というのは、ユダヤ教に限らず、日本の諸宗教でも同じように様々決まりがあります。そこに込められた思いはもちろんある訳ですが、しかししばしば形式的になり、儀式だけがいかにも重々しくなされることが少なくありません。儀式を行うことが特権にすらなって行きます。

ともかく、そういう「水のお祭り」のクライマックスの時に、イエスは大声で人々に「乾いている人は誰でも、私のところに来て飲みなさい」と呼びかけたのでした。或る意味、神殿の儀式を拒否するかのような、とんでもない発言をなした訳です。儀式を行う側からすれば、仰天であり、怒りを覚える言葉だったと思います。

イエスは意に介さず、更に「私を信じる者は、聖書に書いてあるとおり」と言葉を続けました。聖書に書いてあるとおり、とは、では一体どこの箇所かということなんですが、残念ながらよく分かっていません。多分イザヤ書58章の11節ではないか、と言われています。そこを読むと「主は常にあなたを導き、焼けつく地であなたの渇きを癒し、骨に力を与えて下さる。あなたは潤された園、水の枯れない泉となる」とあります。

このイザヤ書58章は、いわゆる第2イザヤと呼ばれる預言書の箇所ですが、バビロニアに捕囚となって半世紀、希望が全く見えないで、精神的にボロボロになっていたであろう捕囚の民たちへ向けて語られた神さまの励ましの言葉です。

当時誰もが自分の無力さに打ちひしがれていたことでしょう。どうにもならない現実の厳しさに、或いは世を呪い、また自分の存在感すら持てないでいた時に、「あなたは潤された園、水の枯れない泉となる」という慰めが捕囚の民に与えられたのでした。

イエスも同じことを語ったのです。見かけだけは盛大な水の祭りが行われておりました。でもそこには乾いた人が大勢おりました。お祭りに隠れて、そこから見えない人、見えなくされている人が大勢おりました。まぶしく輝く祭りであったでしょう。しかし、闇が見えないという闇に覆われておりました。そこには実は神さまの示す正義や愛がありませんでした。

そんなところで、自分自身の存在感を失い、無力さに包まれている人たちに、イエスは語りかけたのです。「その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と。神さまから見る時、例え人からどのように見え、この世からどのように思われている人であっても、決して存在がないのでもなく、力がないのでもない。神さまは、その人自身を用いられ、どこか特別な人ではなく、どの人の中からも水が川のようになって流れ出る存在である、真に生きる人となる、ということを力強く語られたのでした。押し黙らされてはならない、神さまの正義と愛は偽りではない、と言う強い思いがあったことです。

現代も同じです。闇そのものが見えない、見えにくい時代です。闇などないかのような錯覚にも捕らわれます。そういう闇の中で、ひそやかに呻吟している人たちがいる。無力さに包まれて弱っている数えきれない人たち。その傍らにイエスは立つのでしょう。そしてその人自身が、生きた水が川のように流れ出る存在として用い、認め、もう一度立ち上がらせられるのです。もうアカン、何も見えないと思われた闇の隣に、希望が置かれました。

天の神さま、あなたは私たちに生きよ、と優しく、また力強く語りかけて下さいます。私たちの足らなさを責められません。そしてその欠けを補って下さいます。感謝です。どうかこれからも、そのように導いて下さい。