両親をどう呼ぶか、様々だ。連続ドラマ「半分、青い」の主人公は「お母さんと呼んだら?」と言われ、「おかあちゃんがいい」と答える。
「天の父」と祈ることがあるが、それは神を男性化してしまう可能性をはらむ。だが、イエスは「アッバ、父」と呼びかけた。何故だろう。
年齢差のある両親。早くに亡くなったと思われるヨセフに対し、長男として甘える訳にはゆかなかったイエスを思う。切なさが多分にあったか。余裕を与えられたい願望が、神を「アッバ(父ちゃん)」と呼ぶことにつながったのか。
神を味方につけたかったパウロにとって、神は恐れ多い天上の存在だったに違いない。だからこそ、律法を懸命に守り、自ら神の味方として生きて来たのだ。
思いがけず与えられたイエスとの出会いは、神へのイメージを衝撃的に変えた。神をアッバと 呼ぶ発想は、およそパウロにはなかった(他の人々も)。
片耳が聞こえないハンディを負う朝ドラマの主人公は、それを感じさせないで天真爛漫に育つ。彼女を支える家族や仲間がいたからだ。
神が下さる赦しと余裕、そして生きる仲間があれば、人生も世界も半分どころか半分以上青い(素敵な世界)であるに違いない。感謝!


<メッセージ全文>
私たちがお祈りをする時、神さまへの呼びかけとして、「在天の父」、「天のお父様」というような言葉を用いることがよくあります。そうすると、神さまって男性なんですか?っていう疑問がそこに生まれます。それはないでしょうっていうことで、最近は敢えて両方を使って「父母なる神さま」とか、すべてはぶいて「天の神さま」と言ったりもします。何が正しいというような問題ではないのですが、確かに「父なる神さま」では、余計なイメージを植え付けることになりかねないかもしれません。

今、NHKの連続ドラマで、「半分、青い」が放映中です。主人公は漫画家を目指す岐阜出身の女の子「すずめ」。彼女は小学生の時に病気で左耳が聞こえなくなるというハンディを負います。或る日見た空は、半分は曇っていて、半分は晴れているという不思議な空でした。恐らく、片耳が聞こえなくても、なお人生は大丈夫、と言う希望が、「半分、青い」というタイトルに込められているのだと思っています。

実際、天真爛漫に育って行く主人公なのですが、小学生の或る時、母親から言われるんです。「すずめももう大きくなったんだから、いつまでもおかあちゃんじゃなくて、おかあさんって呼んだら?」。そうかもしれないとあれこれ考えた末に、すずめは答えるのです。「わたしはやっぱりおかあちゃんがいいや!」。

このシーンを見ていて、私も小学校に入った頃のことを思い出しました。その頃私も両親から同じことを言われたんです。ただし、それは問いかけではなく、有無を言わさぬ命令でした。「あんたももう小学生なんだから、これからはお父さん、お母さんと呼びなさい!」その日からそうさせられました。正直に言えば、何かかしこまった気がして、慣れるのにしばらくかかりました。小学生だろうが、お父ちゃん・お母ちゃんと呼ぶ友だちもたくさんいましたので、なおさらでした。

親の呼び方はそれぞれあると思います。私の子どもの頃は、パパ・ママと呼ぶ人はごく少数で、「きどっちゃって」と陰でからかわれていました。「大草原の小さな家」というドラマに影響されて、子どもにとうさん・かあさんと呼ばせる人もいました。そのまんま父~とか母~と呼ぶ人もいます。子連れ狼という時代劇では、大五郎は「ちゃん!」と呼んでいました。皆さんは、いかがでしょうか?

さて、我らがイエスは両親のことをどう呼んでいたのでしょうか。残念ながら、そのような記事は聖書にありませんので、推測する他ありません。神学的な考察ではなくて、ただ単純な想像です。特にこれから話すことは、あくまでも横山個人の想像です。

イエスの両親であるヨセフとマリア。伝えられる伝承では、二人は相当年齢差のある夫婦でした。正しい人だったと記されているヨセフは、結婚の当初から相応に年齢のいった人だったと思われます。たったそれだけで断定できることではないのですが、私はヨセフはきちんとした呼ばせ方をしていたのではないか、そう思うのです。

大工であったという父ヨセフ。初めての子どもは、うれしかったでしょうが、残念ながら自分の子どもではありませんでした。もちろん、だからと言って無責任な子育てや教育をしたとは思われません。母マリアともども、きっと愛情をもって育てたことでしょう。

しかしイエスの後に、妹弟が与えられて行く訳です。一般的なことで言えば、最初の子どもより、かけるエネルギーが減って行くのが常です。子育てに慣れてくるということもあるでしょうし、親が、ヨセフ自身が更に年老いてゆくということもあったでしょう。つまり、後の子どもほど対応が甘くなりがちになる。

比べてその分、長男・第一子は厳しくというか細かに育てられるということはあると思うのです。更にはヨセフは早い段階で聖書から記録が消えます。これは亡くなったと考えるのが自然です。であれば、イエスは父なき後の一家の、それも決して裕福ではない家庭の長男として大黒柱として懸命に立って生きただろうと思われるのです。

でも彼だって父に対し甘えてみたかったでしょう。が、現実が許しませんでした。甘えるというのは、ただ単純に甘えるということだけでなく、余裕を与えられるということを意味するのです。例えば頼れる父がおれば、仕事で失敗をしてはならないという緊張から心を休ませることもできるでしょうし、実際失敗した時にかけてもらうアドヴァイスや慰めもあることでしょう。それがないところでは、一人必死に立たねばなりません。本当は自分に余裕がなくても、後に続く妹弟たちのためにも余裕あるフリすら求められる訳です。それはしんどいし、寂しいことでしょう。しかももし、成長過程のどこかでヨセフが実の父親ではないことを知ったとしたら、知っていたとしたら、なおさら切ない思いが募ったに違いないのです。

イエスは、神さまのことを「アッバ、父」と呼びました。当時は圧倒的な男性社会だったことは事実です。それが影響したでしょうか。それよりも、早くに父を亡くしたイエスには、神さまは心に余裕を与えてくれる父親という願望や期待が深く重ね合わさったのではないか、私はそう想像するのです。

ユダヤ教のみならず、当時他の地域で信じられた宗教が幾つもありました。女神という場合もありました。ギリシャ神話やローマ神話では、人間そのもののような神がたくさん描かれました。しかし、だからと言って、それらの神を「アッバ」と呼んだ人はいなかったのです。

アッバとは、幼児語なのです。お父さんではなく、お父ちゃん、とーたん、という呼びかけなのです。ファーザーではなく、ダッド、ダディです。時に厳格な父親、暴力おやじもいますけど、幼児にげんこつを見舞う父親はまずおりません。失敗を許し、余裕を与えてくれる父ちゃん、それがイエスの神像となったのです。

そしてこの呼びかけは、衝撃でした。あり得ない、聞いたことのない驚愕、ショッキングな呼びかけでした。神は厳格であり、私たちには手の届かないところにいます限りなく遠い方、簡単に近寄れる存在ではない。それが常識でした。ましてやパウロにとっては。

パウロは自他共に認める極めて熱心なユダヤ主義者であり、律法の信奉者だったのです。何とかして神に認められたい、義とされ受け入れられたい。非常に強い思いがあり、実現しようと懸命に律法を追求したのです。律法を守れないことは、神の救い、祝福からもれることを意味します。つまり失敗は絶対に許されないのです。いつも気を張って、失敗しないよう歩んで来たはずです。それが神の要求だと信じていたことでしょう。

もしかしたら家庭環境に恵まれない、友達も少なかったかもしれないパウロにとって、神さまは自分を味方してくれる強大な存在で、敬うというよりも徹底的に恐れの存在としてありました。神さまを味方につけたいと願いつつ、自分が神の味方になろうとやっきになって律法を守ったのです。

ところが、思いがけず出会ったイエスは、パウロには恐れ多いその神をアッバ、父ちゃんと呼んだのです。パウロのどこにもなかった発想でした。呼びかけ自体にも度肝を抜かされましたが、それ以上に、赦し、余裕を与える神の存在を知らされて動転したのです。実際、彼は律法主義を追求するあまり、キリスト者を迫害して回る者でした。それなのに赦されたのです。彼が後悔し、反省したからではありません。何も悔い改めないうちに、一方的に赦されたのです。

失敗してはならぬと、ギリギリの思いで生きて来たパウロの心に風穴が空きました。自分のことだけで必死だった人に、他者・隣人のことを思う余裕が与えられました。神のことをアッバと呼んだイエスのように、自分もまたそのようにして生きよう、そんな喜びの決意が与えられたのです。

連続ドラマ「半分、青い」では、ハンディキャップをほとんど感じさせないで生きる主人公が描かれています。それには本人のキャラクターもあるでしょうし、努力もあるかもしれません。でもそれだけではなく、周囲の温かい励ましや支えがいつもあるのです。それこそが主人公を自由に生かすのです。

障がいは生きて行く上で、何かと不自由を与えられるものです。障がいがない人を基準に作られた環境がほとんどですから。その環境は変えましょう。でもドラマでは、ハンディをハンディとしない生き方が描かれます。半分聞けなくても、半分青い空を見ることができます。でも励ましや支えがあるなら、半分どころか、半分以上青い世界を見ることができるのです。

パウロも体に何かしらハンディを負った人でした。だから余計頑張ろうとしたのかもしれません。それが心にまで影響しました。でも神さまをアッバと呼ぶ人と出会って、心に余裕を与えられました。失敗しても赦されるのだ。人生は、世界は半分以上青いのだ、素敵な世界なのだ、そう知ったのです。私たちも、そうでありたいと思います。

天の神さま、いつも私たちを受け入れて下さり、感謝します。その感謝の思いをもって、あなたに素直に従う者とならせて下さい。