「泣けてきて途中までしか読めぬ記事」の通りの虐待死事件。自分を脇に置いて、他者には枠をはめるかのような状況に満ちる現代。
パウロ(サウロ)の最初の伝道記録。キプロス島に、魔術師バルイエスと総督パウルスがいた。バルイエスは都合の良い預言をパウルスに呈する偽預言者だったが、パウルスはそれを受け入れていた。
サウロがパウルスに呼ばれた時、自らの立場が危うくなるのを恐れたバルイエスが妨害した。
サウロは「悪魔の子」と厳しい叱責をなしたが、そこには目が見えなくされた自分自身の体験が含まれていた。自力で頑張っていた自負によって立った頃があった。
実はこの叱責は、バルイエスではなく、パウルスにかけられたものだったろう。自分で考え、判断するために、真に誰に聞くべきか、と。
吉野源三郎「君たちはどう生きるか」は80年
経った今も、誠実に考えて生きる生き方を問うて、色あせない。
僕たちはどう生きるか?を聖書からイエスから問われる。何か立派な行いが求められるのではない。この時からパウロと呼ばれるようになったサウロは、後に「たゆまず善を行いましょう」(ガラテヤ6:9)と呼びかけた。善とは、命を愛する生き方に他ならない。


<メッセージ全文>

東京目黒区で5歳の女の子が3月に虐待死した事件は、悲しくて痛くて、本当につらい事件でした。新聞の川柳に「泣けてきて途中までしか読めぬ記事」というのがありましたが、全くその通りです。凶悪事件に慣れているはずの警視庁捜査一課の課長が、女の子の残した文章を読んで泣いたといいます。

「もうおねがい ゆるしてください きのうぜんぜんできてなかったこと これまでまいにちやってきたことをなおします」こんなことを5歳の子どもに書かせる親って、一体何なのだろうと思います。

事件については、徹底的に背景を追求してもらいたいと念願しますが、私たちは私たちで、これが一部の人が起こした特殊な事件と片付けるのではなく、今の社会状況の中で共に考えたいと思うのです。

政治にしても経済にしても、不正が相続いています。隠蔽であったり、改ざんであったり、しかし余りにも不正に満ちている割には、だからこそ当たり前、そんなものだという許容が暗にあるように感じるのです。ただし、その一方で、末端というか一般の人たちに強いられている様々な法律や取り決めのルールは、どんどん複雑に、どんどん強められているように思えてなりません。

それをあんたが言うか?って思わされることが最近多いです。偉そうにして、ちっとも相手のことを考えない人が、上から目線で道徳を説いたりすることが、どれほど多いか実感します。先日も、「ゆとり教育の結果、アホばっかりになった」と、とある居酒屋の飲み会の場所で、部下たちにとうとうと話しているでっぷりおじさんがいました。

聞かされるほうはたまったものではありません。でも上に反論もできない。黙って耐えて聞くしかない訳です。市民デモ兵庫のメンバーが、ヘイトスピーチに反対しながら、自分の父親が朝鮮人差別をずっとして来た人で、その影響を長く受けて、呪縛から未だに解放されていない、とメールに書いていました。この父親のなしたこと、実に罪深いことです。子育てでも、指導でもありません。

今日は、サウロと呼ばれていた人が、パウロと呼ばれるようになって行く、最初の伝道開始の出来事を読みました。キプロス島での出来事でした。そこにバルイエスという魔術師がおりました。バルイエスとは、イエスの子という意味の名前で、偽預言者ともあります。イエスという名前はよくあった名前で、特別なものではないのですが、この状況においては名前からして胡散臭い感じがします。8節に出てくる魔術師エリマとは同一人物です。

このバルイエスと、キプロス島を管轄していた地方総督セルギウス・パウルスという人物が交際していた、とありました。パウルスは賢明な人物とわざわざ書かれています。、どういった意味で賢明だったのでしょうか。賢明という訳されているスィネトスというギリシャ語は、理解力がある、とか、洞察力があるという意味の単語です。政治家と偽預言者が交際していた、というところが、そもそも怪しい気がするのですけど、恐らくは自分の現状では、出入りしていた魔術師を適当に利用しておいたほうが賢明という判断があったのでしょうか。ある方は地方総督ではなく、「お代官」と訳したほうが良いと書いていました。

恐らく、バルイエスのほうは、パウルスの仕事に協力して、様々都合の良い預言をしていたことでしょう。パウルスは基本的にそれを受け入れ、黙って従っていたのだと思われます。バルイエスは、今でいうところの政策ブレーンのような立場だったのです。

しかしパウルスには正直、疑いや躊躇があったのかもしれません。ですからキプロスにやって来たサウロの情報を得るや、招いて話を聞こうとしました。そこに同席したバルイエスは、それではまずい、自分の立場が危うくなるので、きっとあれこれ物申して邪魔しようとしたものと推測します。

その事態を目の当たりにしたサウロは非常に厳しい言葉で臨みました。魔術師をにらみついて言ったと9節にあります。その言葉、ちょっと読みます。「ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう。」

悪魔の子、ですよ。本当に厳しい。厳しいのですが、最後の「お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう」という言葉、これを聞かされた直接の相手は、言うまでもない魔術師です。そして魔術師は、たちまち目がかすんできて、すっかり見えなくなり、歩き回りながら、だれか手を引いてくれる人を探した、という11節の記述を読む時、それはサウロ自身に起こされたあの見えなくなった三日間の出来事そのものではないか、その体験が背景にあって語られたことと感じるのです。

サウロこそは、律法に従い、ユダヤ主義に立って、これしかない、こうであらねばならないという努力の道をかつて一生懸命歩んだ人でした。それこそが信仰から与えられた神の道だと信じていましたから、やっかいでした。自分だけで済まず他者にその価値観を押し付けて、自分と同じでないと許さなかった人でした。しかし、目が見えなくされてみて、頑なだった己を顧み、自力で立っていると自負していた誤りをつぶさに振り返りました。手を引いて、真実の道へ導いて下さる方が誰か、そしてその必要を切に知ったのです。

ですから、この厳しい叱責は、魔術師に対して語っている形を取りながら、実は総督パウルスに向けて語られた言葉であったと思われます。賢明な、とありましたが、パウルスの実態は、自分に取り入り、都合の良い言葉でくすぐるバルイエスの操り人形でしかありませんでした。自分の目で見よ、自分の頭で考えよ、そして真に聞くべき方は誰かを選べ、サウロはそうパウルスに迫ったのです。上手に立ち回ろうとするかつての自分をパウルスの中に見たからです。そうしてこの頃から、彼はサウロではなく、パウロと呼ばれるようになりました。パウルスについては、「総督はこの出来事を見て、主の教えに非常に驚き、信仰に入った」と12節に記されています。今までまるで自分自身が神かのように振る舞って来たバルイエスが、誰かをすがってうろうろ歩き回る姿をつぶさに見て、思うところ大であったのでしょう。

大学生の時に、吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」を読んで、心揺さぶられる思いがしました。自分で考えることの大切さを教えられました。あれから30年以上が過ぎました。今、漫画「君たちはどう生きるか」が売れています。200万部を突破したといいます。漫画バージョンで読み直しました。びっくりしました。80年も前に書かれた文章ですが、ちっとも色あせていません。むしろ、この時代になっても当時と変わらない、政治を筆頭とする不誠実な世の中にあって、それに迎合することなく心を保ち、誠実に考えて生きることがどんなに求められているかを知らされました。心が新たにされる思いでした。

褒められた喜びというのは、「ちゃんと見ていてもらった」という喜びでもあった、という言葉を別のところで聞きました。「君たちはどう生きるか」は、中学生のコペル君が、父親代わりである叔父さんに見守られ、適切なアドヴァイスをもらって、失敗を重ねながらも、なすべきことを発見してゆく物語です。叔父さんは、いつも適度な距離を保ちつつ、甥っ子であるコペル君のことをちゃんと見つめ、褒めるべきことを誉めてあげる人であるのです。こういう導き手がいることは、実に幸いです。

さて、私たちはどうでしょうか?君たちはどう生きるか、と吉野源三郎は問いかけました。私たちはどう生きるか、僕たちはどう生きるか、聖書を通し、イエスを通して問いかけられているように思います。不誠実な時代の只中、かつてより圧倒的におびただしい情報が、私たちを揺さぶります。それでも頑張って自分で立ちたい、立たねばならないと思っていますが、見えているようで見えていない、見ているつもりで見誤ることの多い暗闇の渦中の私たちであるでしょう。

でも信仰は、何か特別立派なことを自分の力でなす、行いの道行ではないのです。導いて下さるのは誰か。私たちが年を老い、70歳であろうと、80歳であろうと、たとえ何歳になろうと心を新たにして覚えたいのは、命を愛すること、ただ一つです。パウロはガラテヤの信徒への手紙の中で、「たゆまず善を行いましょう」(6:9)と呼びかけています。行いのことを指していません。パウロは繰り返し「霊の導きに従って歩みなさい」と語っています。善とは、命を愛することです。その善ひとすじの道を、神に導かれ、霊に導かれ、イエスと共に歩んで行きましょう。

天の神さま、どうか私たちの心をあなたの清さによって保って下さい。命を愛する生き方をさせて下さい。もし間違ったら、ただちに直すことができますように。