一人前になるために、「繰り返す」「反復する」能力が求められる。が、時としてそれは大事なものを見失う元にもなる。これぐらいのこととあざけり、分かったつもりになる心の緩み。見つめるべきことを見ない欠け。
舟の中で、パンを備えてなかった事で弟子たちは騒ぎ、議論となった。イエスはいつになく厳しい口調で彼らを叱責した。「まだ、悟らないのか」と。更には「ファリサイ派とヘロデのパン種に注意するよう」命令した。誰に支えられて生きているか。
ガラテヤで「割礼」を求める人々に、パウロは、パン種に気をつけるよう手紙を書き送っている。
直前にファリサイ派から「しるし」を求められたばかりだった。5000人の人々、4000人の人々へ食べ物を与えられた出来事もほんの少し前の事だった。が、またぞろパンがないことで慌てる弟子たち。人間の努力だけを思う、まさに繰り返しの心の緩み。
一番大事なものを腐らすもの、重なって更につぶすものへの厳しい注意がイエスからなされた。弱い人間に繰り返されたのは、神であり、救い主であるイエス。その、悲痛な愛の思いやりを学ばねばと思う。
フットプリントの詩。イエスこそは繰り返す弟子たち(人間たち)の愚かさにも関わらず、彼らを負われた。パンとは実にイエス自身だった。

<メッセージ全文>
今日は、繰り返すということについて考えたいと思います。私たちにとって、繰り返しの能力、反復する能力は大事なものです。例えば、学校から帰って1時間、机の前に座ってその日の復習をすること。これを毎日繰り返す、反復することができたら、どんなに良いでしょうか、きっと誰でもそう思います。

一方、仮に朝、7時に起きるとします。8時15分に家を出るまで1時間15分の中で、手早く着替え、洗面し、食事を取り、新聞に目を通し、持ち物を整える。この流れを日々繰り返す事ができないなら、逆にどうでしょう?こういう日常性のリズムを守れない人は、将来を心配されることでしょう。

で、例えばこういう場面を想像するんです。なかなか7時に起きられない子どもがいます。すぐ起きない上に、だらだら着替えをし、時にはテレビを付けっ放してのんびりご飯です。出かけるのにもう残り時間がほとんどなくなっていても、洗面には何分もかけて、遅刻ぎりぎりに出て行く姿を見たとしたら。きっと、いらだちますね。しかもそれがほぼ毎日であれば、どういたしましょうか。

つい、何べん言うたらできるんや。と怒鳴ることになるでしょう。正直に言うと、私もよく母親に言われていました。「どうしてこんなことくらいができん?そんなんじゃ駄目。」「だから、お母さんが口を酸っぱくして言うてるでしょう!」まさに繰り返しです。定められたことを普通に繰り返してできるよう、その能力を何とか身につけてもらいたいと願って、親は繰り返し怒鳴る訳です。或いは余裕を持って行動できる人になって欲しいとも思う訳です。ちゃんと準備をして、5分前には到着している、それが社会の常識・大人のしるし、そうできる人に育てたいと誰でも思うのです。だからついモノ申します。うざいと思われようが。それは決して間違っていません。ただ子どもは子どもで思っています。うるさいわ。ほんまはできるんじゃ。よくそんな同じことを言えるな、おかんの奴。

ところが、きちんと備えたいと願う心が、時として大事な事を見失う素になることもあるのです。私は毎朝5時に起きて、散歩をし、体操し、素振りを500回。そのあと書道をしてから朝食、これを何十年も続けて来ました、と自慢する人がいました。それはそれで確かに立派なんですが、その人が自分の理想を実行するために、陰で支えている人を忘れているんです。知らず知らずのうちに迷惑もかけている。実はお連れ合いまで早起きを強いられ、望まれる時間に合わせて食事の準備をしなければならない。旦那は自分のリズムを作るので精いっぱいで食事の手伝いなど考えた事もない。何十年と同じ事を続けて来られたのは、本当は奥さんの支えあってこそだった。そんなことがあるのです。

さて今日のテキストは、懲りない弟子たちをイエスが叱責した箇所でした。繰り返しの話です。何が懲りないかと言って、14節の記述がすべてを表しています。「弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、船の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。」

恐らく、このことで不安が募り、焦り、誰の責任か、言い争いが起こったのだと推測します。この世的な価値観で言うなら、それは当然の事でした。次の伝道地に向かうのに、なぜ大切な食糧を準備していなかったのか。当たり前の備えがなされないのは、いかにも欠けがある、そう思われても仕方ないことです。単純に腹が減っては戦ができませんから、腹を立てた弟子もいたでしょうし、食事の担当は誰だったのか、責任を追及した弟子もいたでしょう。

ところが、この弟子たちの態度をイエスは厳しく叱ったのです。食事の備えをしていなかったことへではありません。普通ならリーダーたるイエスこそが一番に準備不足を指摘するところでしたが、そうではなかったのです。イエスは言いました。『まだ、分らないのか、悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。』本当にきつい叱責です。その上、最後も「まだ悟らないのか」で終わっています。まるで「そんなんじゃ、駄目」と朝から深いため息を母親につかれて、もう世の終わり、心が暗くなった時のような結びです。

8章の冒頭には、4000人の給食の出来事が記されています。また、6章には5000人への給食の出来事が記されています。いずれもパンがわずかしかなくて弟子たちは困り果てた。けれどもイエスがそれらを増やし、必要を満たしたという有名な出来事でした。そんな素晴らしい出来事、記憶に深く刻まれたはずの出来事があったのに、それも大昔ではなく、つい最近起こされた出来事であったのに、弟子たちはそれを忘れて、今舟の中にパンが一つしかないことで不安を覚え、議論していたのでした。困った時は大丈夫、何も心配しなくてもイエスが奇跡の力を発揮してくれる。それを忘れたという話ではありません。当然せねばならない人間の務めはある訳ですが、その務めを果たせないこと、人間の努力だけを要求する弟子たちのあり様をイエスは叱ったのです。あなたたちは誰によって支えられ、生きているのか、まだ悟らないのか。

懲りないと言うか、繰り返される愚かさと言うのか、しかしこれが人間の姿である訳ですから、悲しくなってしまいます。この弟子たちに対してイエスはまっさきに「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められたと15節にあります。戒められたと訳されているところは、原文によれば『命令した』とあります。パンがないことで直ちに不安となり、慌てふためいて議論を始めてしまう弟子たちでしたが、ただパンを備えていないこと・備えられていないこと、食事に関する事だけに留まらない問題が含まれていたのです。自分で生きていると勘違いし、うぬぼれ、心が緩むつまづきです。それを互いに非難し合うことの見苦しさです。

パン種はパン粉を膨らませるために大切なものではありますが、時には腐敗させてしまうものです。今日のテキストの一つ前の段落では、ファリサイ派の人々がやってきて、天からのしるしを求めたことが書かれています。見えることだけを要求する私たちです。しかし、そのしるしに期待する限り、実は何一つ与えられない事をイエスは語っています。人間の努力によって救われるのではない、生きているのではないということです。

かつてガラテヤの教会で、やっぱり信仰者にとっては割礼が必要なのだと言う人々が出て来ました。その時パウロは彼らにこう手紙を書き送りました。ガラテヤの信徒への手紙5章7節からを読みます。
「あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったい誰が邪魔をして真理に従わせないようにさせたのですか。このような誘いは、あなたがたを召しだしておられる方からのものではありません。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。あなたがたが決して別な考えを持つ事はないと、私は主をよりどころとしてあなたがたを信頼しています。あなたがたを惑わす者は、誰であろうと裁きを受けます。兄弟たち、この私が、今なお割礼を述べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか?そのような事を述べ伝えれば、十字架のつまづきもなくなっていたことでしょう。あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい。」

これもまた大変に厳しい表現で、割礼が必要だとする人々に対する怒りをぶつけています。そして6節で「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」と語るのです。イエスから教わったのは、人間の努力で救われるのではないということでした。それなのに割礼の有無を言い出すならば、それはそれに留まらず結局律法全体に及び、律法を守ることが信仰という事になって行くに違いない。信仰全体が腐ってしまう。人自身が腐ってしまう。また忘れて繰り返し、まだ悟れないのか。だから、パウロもパン種の表現を用いてそれへの注意を促したのです。膨らませたように見えて、実は腐ってしまうことがあるのだと。

弟子たちのみならず人間の実相を見て、イエスこそは全くそう思ったことでしょう。ファリサイ派の人々は本来律法と伝統を守ってイスラエルに忠実であろうとする人々でした。一方ヘロデ派の人々はローマの支配を認め、その権力にすりよって自分たちの地位を確保したいと考えた人々でした。この二つの派閥は本来相容れないものでした。けれども両者イエスが邪魔だという共通の利害関係から手を結んだのです。悪しきパン種のおぞましさが何倍にも膨らまされ、やがて十字架刑という結末を迎えます。これと同じことが、昔も今もあらゆる世界に満ちています。だからこそ、イエスはまさに叫びのように、「まだ悟らないのか」と弟子たちに語りかけたのでした。

つらい記事を紹介します。佐賀県の女の子の出来事です。
「フィリピン人の母をもつ小学6年生は、母に来てほしくなくて学校行事の案内を渡さずいた。なぜか当日姿を見せた母に向って彼女は「何で来たと!恥ずかしい!」と叫ぶ。高校生になってこの時の母親の後ろ姿を思い出し「ごめんなさい」と嗚咽する。子どもが初めて負った深い社会的な傷。これに限らず日本社会は今もこうした酷薄な地肌をさらし続けている。」

フィリピン人の母を持つことが恥ずかしいと思わせる日本社会が厳然とあるのです。一方、日本最高!とか言ってサッカー見て酔っているのです。人のことを指摘しているのではありません。私もその一員ということです。

振り返って見れば、何度言われても大切な事を見つめ得ない弱く貧しい弟子たちに、繰り返し繰り返し真理の言葉をかけ続けられたのは、イエスその方だったとよく分かります。本当に弱く情けないです。聖書は神からの言葉の記録書であると同時に、愚かな人間の告白書でもあります。旧約聖書を読むと、そこでも神さまに従わない愚かなイスラエルの民たちに、繰り返し繰り返し声をかけ続けられたのは他ならぬ神であった事を教えられます。真実の意味で「繰り返し」を大切になさったのは、神であり、イエスでした。

イエスが弟子たちに問われた言葉をもう一度確認したいと思います。19節「私が5000人に5つのパンを裂いた時、集めたパンの屑でいっぱいになったかごは、幾つあったか」。20節「7つのパンを4000人に裂いた時には、集めたパンの屑でいっぱいになったかごは、幾つあったか」

イエスがパンを増やし、それぞれ5000人の人々、4000人の人々の空腹を満たしました。しかしここでイエスが問うたのは、その食事内容のことではなく、皆が食べた後集められたパンの屑、それがいっぱいになったかごの数でした。すなわち、イエスが起こした出来事は、必要を満たしたばかりか、余りさえもが出るほどの出来事だった。人間の努力ではなく、それほどの神の愛のうちに私たちが生かされているということでした。

今フットプリント、足跡という詩を思い起こします。マーガレット・パワーズというアメリカの女性が作った有名な詩です。
「あしあと」
ある夜、私は夢を見た。私は、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。
一つは私のあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
私は砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
私の人生でいちばんつらく、悲しいときだった。
このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ね
した。「主よ。私があなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道にお
いて私とともに歩み、私と語り合ってくださると約束されました。
それなのに、私の人生の一番辛いとき、一人のあしあとしかなかったのです。
一番あなたを必要としたときに、
あなたがなぜ私を捨てられたのか、私にはわかりません」
主はささやかれた。
「私の大切な子よ。私はあなたを愛している。
あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。
あしあとが一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていた。」

イエスは「まだ悟らないのか」と弟子たちに唸るように問いかけました。繰り返し忘れてしまう弟子たちでした。それはもちろん私たち自身の姿です。けれども、イエスはなおきっとこう言われるのでしょう。「そんなお前たちを私は背負う」と。
舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった、と14節にありました。その一つのパンとはイエスのことではなかったか。実際イエスは「私は命のパンである」と再三語りました。この救い主に一切を委ねたいと思います。

天の神さま、私たちのパンは、あなたの一人子イエスです。すべて必要を満たして下さいます。繰り返し招いて下さいます。どうか、この愛に聞き従う者とならせて下さい。