強制や監視は自由も喜びも奪う。そんな事例がたくさんある。
盲人が癒された出来事。「つば」をつけたイエスの行為は、どこか「おかしみ」を感じる。
人々に連れて来られた盲人。望みまで代弁された背景を想像する。行き過ぎた親切?が盲人の自立を奪っていたかもしれない。
イエスは、わざわざ彼を村の外へ連れ出した。更に「村へ帰らない」ように告げて帰した。
盲人を縛る何事かがあったのだろうか?
癒された盲人が最初に見たものは、木のように見える、歩いている人だった。本来、動かないものが動いている光景を彼は見た。まさしく世界、ふしぎ発見である。
それを知ることこそが、生かされている者の喜びであるのか。動かないものが、立ち、歩く。人は外(神)からエネルギーを与えられ、立ち、歩くようになる。
盲人はそれを奪われていたのではないか。それが見えるように癒された。そして自分自身が動く者へと変えられた。
生かされている根源を知ると、きっと吹く風の色まで見えるだろう。その信仰の不思議を味わいたい。


<メッセージ全文>
もう何年か前になりますが、中国のウイグル自治区で多数派の漢に対して、様々な格差に苦しむ少数派のウイグル族が立ち上がり、各地で衝突が起きたことがありました。覚えておられる方もいると思います。たくさんの死者が出ましたし、その時連行されて以来消息不明になったままの人も少なくありません。中国当局は、当時暴動を力づくで抑え込みにかかったのですが、例えば区都には町のあちこちに計4万台もの防犯カメラが取り付けられました。また24時間体制で軍が町をしらみつぶしに巡回しました。そうやって見た目には人々の暮らしは落ち着きを取り戻しました。けれども、テレビ報道で記者が質問しても、人々は何も起こらなかったかのように、事件について一切語らないのでした。箝口令が敷かれたか、それとも下手にしゃべるとたちまちビデオに撮られるのでそれを恐れたのか、いずれにしても明らかに恐怖政治だと思いました。

さて、今日与えられたテキストは、そんな暗い話題と違って、福音書の中でも数少ない「面白い」箇所です。もちろん、面白いというのは興味深いという意味ですけれども、この出来事には「おかしみ」さえも感じるのです。

イエスのところに一人の盲人が連れて来られました。イエスは彼を癒し、見えるようにした、いわゆる奇跡物語の一つです。何がおかしいかと言って、まずはイエスがこの盲人の目につばをつけられた、ということです。一つ前の7章に耳が聞こえず舌の回らない人を癒された出来事が記されていて、その時もイエスはその病人の耳に指を入れ、つばをつけて舌に触れられたとありました。いずれにしても現代の感覚では何だかばっちい話です。イエスのつばには病気を癒す何か特殊な効能があったのでしょうか?そうは思えない訳です。この行為自体が何かしらおかしみを覚えます。とりわけ今日の箇所では、私は「眉唾」という言葉が思い出されてならないのです。

この盲人がどういう事情を抱えていたかは定かではありません。目が見えなくなったのは病気なのか、事故なのか何も記されてはいません。たえだ、短い記述の中から想像させられることが多々あるのです。

人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、と22節にあります。彼は見えない訳ですから、それは当然のことでしょう。しかし、不思議な事が書かれているのです。人々が彼を代弁しているのです。「触れていただきたい」と。触れていただければ治るという期待があったのでしょう。彼らは盲人を心配し、もしかしたら親切でそうしたのかもしれません。けれども、7章の舌が回らない人とは違うのです。この人は語れない訳ではない。話せない訳ではない、にも関わらず、人々が彼を代弁している。それは何なんだろうと思います。

それに応えたイエスは、この盲人の手を取って、村の外へ連れ出し、という行動に続いて行きます。人々がわざわざ連れてきたこの人を、もう一度村の外へ連れ出したというのです。イエスの振るった奇跡の力は、いつも基本的に一対一の関係の中でなされました。出会いもなく、一度に複数の人々に対して何かが起こされるというような奇跡は、あの給食の出来事以外にはないのです。イエスは出会った目の前の人との生きた交わり、関わりの中で癒しの力を振るったのです。その意味では、この度の出来事も同じです。

でも、そのためにわざわざ村の外へ連れて出ただけでなく、癒され無事に見えるようにされたこの人に向かって、26節「この村に入ってはいけない」と命じているのです。無論そこには、奇跡の業について軽々しく伝えてはならないといういつもの思いが込められていたでしょう。イエスは他の人々にも幾度もそう命じています。その上で癒された人がこれまで生きて来た場所へ戻すのです。でもここでは、奇跡の業について語ってはならないとは言われず、村に入ってはいけないと言われたのです。似ているようですが、何か違った緊迫感を感じます。

一つの想像をします。この盲人は自分では行動が自由にならないのですから、人々が連れて来たのです。しかし、彼は子どもではないのです。確かに視力において大きな障碍を持ってはいますが、そして生活において不自由を味わってはいますが、しかし本来自立した一人の人間であるのです。にも拘らず表向き親切という理由で、彼の本来の思いを奪ってしまっていとしたら、その親切の裏側にあるものは何かと想像するのです。

そしてもう一つの想像をします。面白いという意味で、今一つ関心を引くのは、癒されている途中の盲人の言葉です。「何か見えるか」とのイエスの問いかけに、24節「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります」と答えています。そのまま受け取れば良いことなんでしょうけど、面白い表現です。木のようですが、とあるところから、この人が生まれつきの盲人ではないと分かります。かつては見えていた、だから木を知っていたのです。

けれども木は動きません。イエスに癒されて、歩いている人が目に入った、その姿が木のように見えた、木のように歩いていると返答したのです。本来動くことのないものが、歩いている。そう無意識に答えたに違いないのですが、大変興味深い返答だと思います。世界ふしぎ発見です。

私はこの盲人が見えなくなったのは、ただ物理的に視力を失ったということに留まらなかったと想像します。恐怖です。イエスも後に逮捕された時、目隠しをされ殴られ、唾をはきかけられたと記されています。見えなくして恐怖を煽るのです。盲人が生活していたこの村で、一体何が起こったのか分かりません。ただ何かしらの出来事があり、強制の力が振るわれ、次第に口を閉ざすしかなくなってゆくような、厳しい状態が彼を包んだのではないか。その期間が長ければ長いほど、ただ見えないということだけでなくて、自由に語る事を奪われ、人間的な心を失い、周囲に合わせ、閉ざして生きて来たのかもしれない、そう想像するのです。

こうであるべき。一つの規範が強いられる時、或いは一つの規範を洗脳されたかのように抱える時、そうでないもの、周囲の他のものは目に入らなくなります。すなわち見えなくなるのです。そしてそこからは「泣いたり、笑ったり」することがなくなって行きます。ウイグル自治区の人々のインタビューに答える態度は、びっくりするくらい無表情でした。言葉を飲み込み、感情を押し殺すしかないと、そうなります。

木になるしかない、黙って何も言わず、動かず、心を押し殺している他はない、そうせざるを得ないような何事かがあった。そして今も続いているとしたら、せっかく見えるようになっても、そこに戻る意味はありません。イエスは「村に入ってはいけない」と言われました。

盲人が癒されて見た者は、本来動くはずのない木が歩いているということでした。動くことのない物が力を与えられた時に立ち、歩き、動くのです。人は誰でもそうされて生きるのです。生きるとは、外からエネルギーが入り、流れ出るのです。エネルギーを与えられ、力を入れられ、立つことができる。親切からであろうと、何か強制であろうと、エネルギーを奪われると立てなくなります。見えなくなるからです。この盲人が不便を囲って来たのは事実ですが、視力がないこと以上に、一人の人間としての扱いを受けず、この世の縄目に縛られ続けて来たのだとしたら。

今日の出来事の舞台はガリラヤ湖北部の街ベトサイダだったと書かれています。奇跡が行われたのに悔い改めなかった不信仰な町の代表としてイエス自身がコラジンとともに挙げた町です。マタイ、ルカ福音書に2度記されている場所です。イエス自身には後に唾をはかれ、目隠しされて殴られるという理不尽な未来が待っていて、悲しくなります。

でもイエスがつばをつけて癒した、その行為がいよいよ頑ななこの世の縄目を切りほどく、奥深いユーモアを湛えた行為に思えて来るのです。生きるとは、例え足りなくても自分で見て、立つことです。足りないところは補ってもらいますが、自分でできる事、したい事はもちろん自分でなすのです。他者ではなく、どうしても自分自身でやらねばならない事もあるのです。盲人はその生きる根源が見えるように癒されたのだと思います。

信仰生活もすべて同じ。神様から力を与えられ、自分の足で立ち、歩み行く時、初めて楽しいのです。その時、きっと体に吹く風の色さえ見えるようになることでしょう。信仰の世界ふしぎ発見です。イエスはその後押しをする人であるのでしょう。

天の神様、一人ひとりに必要な力を与え、欠けを補い、それぞれが喜びを持って自分の足で歩けるよう導いて下さい。