聖書には誤りもあるし、時代背景が違うことは覚えておきたいこと。カナダ合同教会の信仰告白に学ぶものは大きい。
イエスが山から下りて見ると、病を癒せない残った弟子たちと、律法学者を始めとする群集の間で議論が起こっていた。結局人間の力に頼る愚かさの露呈。
イエスは深く嘆き、彼らを厳しく叱責した。彼らは「神様の力を信頼すること」を忘れていた。
悪霊に取りつかれた息子の父親もまたその一人。イエスは「できればと言うのか」と強く迫った。それに押されて父親は「信じます。信仰のない私を救って下さい」と叫んだ。
信仰は合理的に説明できるもの、自力で決断するものではない。説明できないのに決断を迫られる、この矛盾こそが信仰である。イエスからの問いかけに、何も持たない自分を忘れて思わず叫んでしまうこと、これぞ誤りなき規範である。
それだから信仰は「こだま」だと表現する人もいる。私たちもこれらのことを時に忘れてはいまいか。
命をかけられたのは救い主イエスだ。私たちではない。このイエスを与えて下さった神様への信頼を渇望する生き方が示されている。ぞっこん、イエス。み前に一人で立つ。あらよ、手前一丁の思いで従いたい。


<メッセージ全文>
最初にカナダ合同教会の信仰告白文を紹介します。
英語では、We are not aloneという題が付けられています。

「わたしたちは一人ではありません。
わたしたちは神の世界に生きています。
わたしたちは 世界を創造され、その創造のみ業を続けられている神を信じます。
この世と和解し、新しくされるために、イエスにおいてこの世においでになり、言葉を肉体とされた神を信じます。
聖霊によってわたしたちや他の人々に働かれている神を信じます。
わたしたちは神を信頼します。
わたしたちはコミュニティとなるように招かれています。
神が、いま、ここにおられることを祝い、神に造られたものとして互いを尊重し、他者を愛し、他者に仕え、
正義を求め、悪に抵抗するために、
十字架に釘けられ、復活されたイエスを、
わたしたちの裁きでもあり、希望でもあるイエスを宣べ伝えるために。
わたしたちの生と死、そして死を超えた生において、
神はわたしたちと共におられます。
わたしたちは一人ではありません。神に感謝します。」

こういう素敵な文章です。心素直に告白できます。いいなぁと思います。
それに比べて、私たち日本基督教団の信仰告白は、ため息が出てしまいます。東神戸教会では全然使いませんが、毎週礼拝で告白している教会も少なくありません。ちょっと最初の文言を読んでみます。

「我らは信じ、かつ告白す。旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、基督を証し、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典なり。されば聖書は聖霊によりて、神につき、救いにつきて、全き知識を我らに与うる神のことばにして、信仰と生活との誤りなき規範なり。」

いかにも文語体の信仰告白だなと感じますね。そして告白と言うより、一点の曇りもない、いかにも自信に満ちた主張、宣言のように感じてしまいます。聖書が信仰と生活との誤りなき規範なり、という文言それ自体に反論はしませんけども、現実に聖書には訳においてしばしば誤りがあります。また書かれている内容においても、当時の時代背景と現代では著しい違いがあって、今では通用しないことも多々あります。それが事実です。その事をしっかり押さえず、やみくもに聖書だからすべて正しくて真実だと言い張ることはできないと思うのです。

さて今朝与えられたテキスト。イエスがペトロら3人の弟子だけを連れて山に登られていた留守の間、ふもとに残った他の弟子たちのところに、霊に取りつかれた子どもを癒して欲しいと、一人の父親がやってきました。しかし、弟子たちには癒すことができなかったので、たちまち父親だけでなく、その様子を不審に思った大勢の群集たちと議論になったのでした。

中でも律法学者たちはイエスがいないうちにしっかり揚げ足を取ろうと考えたのでしょう。山から下りて来たイエスが見たものは、残った弟子たちが群集に取り囲まれ、とりわけ律法学者たちに詰め寄られて浮足立って右往左往している有様でした。

一体どういうことか議論の中身を聞かれたイエスは、他には例がないくらい嘆かれ、怒りをあらわにされました。律法学者たちにはもちろんですが、弟子たちに対しても、群集たちに対しても、そして肝心のこの父親に対してさえも厳しく迫られたのです。

19節「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたとともにいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。」23節「できれば、と言うのか。信じる者には何でもできる」これらの言葉には深い嘆きが込められ、またすさまじい剣幕が感じられます。
かつて旧約の時代に、エジプトから脱出したイスラエルの民たちが繰り返し指導者モーセを裏切ったことを思い起こします。特にシナイ山で神様から十戒を与えられ山から下りて来たモーセが見たものは、金の子牛を作ってどんちゃん騒ぎをしていた民たちの誠に情けない姿でした。

それから時代が移っても何も変わりません。目の前に明らかなもの、しるしを見ない限り、納得できず満足できない弱さを人は常に抱えています。どんなに救われたという経験を持っても、すぐ忘れます。残った弟子たちがそうでした。本来彼らには癒しの力が既に与えられていたはずでした。マルコ6章に記されているように、悪霊を追い出す力や病気を癒す力が与えられ、その上で派遣されていたはずでした。けれども今、別の3人だけが山へのお供として選ばれたことへの不満や不平がきっとあり、逆に取り残されて主(あるじ)のいない不安が彼らを包んでおりました。一方で、癒して欲しいと依頼され、主のいないうちに功績を立てておきたいという密かな欲望にも包まれていたことでしょう。任せてくれ、自分には十分その力がある。つまり弟子たちは、自分の力にのみ頼っておりました。

ところが、癒せなかったのです。イエスは弟子たちを派遣するに当たって、癒しの業を行うための大事な秘訣を教えていたはずでした。しかし弟子たちはすっかり忘れていました。相当にあせったことでしょう。それで「どうして今回は霊を追い出せなかったか」そうイエスに問うたのです。イエスはこう答えました。29節「この種のものは、祈りによらなければ、決して追い出す事はできないのだ」。
ここにまさに答えがありました。祈りとは何でしょうか?色々な表現ができますが、今日は特に「神様の力への信頼」と表現する以外にないと思います。弟子たちからは神様の力への信頼が失われていたのです。自分自身の力、人間の力により頼んでいたに違いありません。ですから何も癒すことができなかったのです。

それは弟子たちだけではありません。悪霊に取りつかれた息子の父親も、イエスに対して「おできになるなら助けて下さい」と願いました。弟子が何もできなかったのを目の当たりにしたのですから、無理もないのですが、彼もまた神様の力への信頼を失いかけておりました。
それだから「できればと言うのか」とイエスは火のような勢いで父親に迫ったのです。その剣幕に押されて彼はすぐに叫びました。「信じます!信仰のない私をお助け下さい」と。

この父親の返答こそが、私たちの信仰の誤りなき規範であると思うのです。「信じますと言いながら、信仰のない私を」と続ける返答。そして息子ではなく自分を助けて下さいという願い。一切が矛盾していました。
信仰とはつくづく矛盾だと思わずにはおれません。でも本来こういうものなのです。つまり信仰とはこうこうですと、明らかに説明できないものなのです。信仰がない、にも関わらず信じるのです。そしてそれは他の誰でもない自分自身の問題であるのです。例え息子であろうと、そこにひっかけては向き合えないのです。

例えば、「ほんまに信じるか?」、信仰を問うことが脅迫のようになってはなりませんが、信仰は思わず叫ぶものかもしれません。火の玉のようなイエスから迫られた時、父親は思わず叫びました。「信じます、信仰のない私をお助け下さい!」

しばしば信仰とは賭けだと言います。決断とも言います。でもその賭けは無鉄砲な賭けではなく、熟慮のない不合理な決断であってもならないと言います。しかし今日のテキストの父親の態度。イエスに迫られ即座に信じますと叫びましたけれど、そこに熟慮があったとは思われません。信仰が立派だったのでもなく、彼が素直な良い性格だったということでもありません。

繰り返しますが、信仰はもともと矛盾したもの、そもそも矛盾をはらんだもので、そうであってもイエスから「信じるか?」と問われた時に、自分にはもはやこれしかないので思わず「信じます」と叫ぶしかない、叫ぶことしかできない。その答えを絞り出す事、それが信仰なのです。信仰があるから信じるのではなく、ないのに信じると叫ぶのです。ですから信仰とは神様の呼びかけへの「こだま」だと表現する人もいるのです。その矛盾のこだまを聞き取り、受け入れて下さる方がイエスです。私は、そこにキリスト教信仰の最大の根幹があると思っています。

もう救われたと思い、或いは既に十分信仰生活を送って来たのだからということで、或いはまた現実の日常生活の中で、どんなに願っても取り立てて特別な何事も起きない、その平凡さの中で、いつの間にかそんなもんだと分かった気になってしまう。そうやって実は神様の力へ信頼することを忘れてしまってはいないか?思わず叫ぶことがすっかりなくなってはいまいか?そう自らに問いかけます。

詩編119篇にこういう言葉があります。「私は口を大きく開き、渇望しています。あなたの戒めを慕い求めます」。今日私たち、改めて確認します。信仰は私たち自身が決断したもの、説明できるものではありません。神様が結んで下さったものです。それも足りない私たちを拾い上げ、結んで下さったのです。しるしばかりを求めるこの世の生活の中で、神様への渇望を願う新しい生き方として与えて下さいました。信仰がないのに、信じると叫ぶ生き方です。

命をかけたのは私たちではありません。一人子イエスです。あなたたちの人生にやっぱり信仰は必要なのだということを一人子イエスが命をかけて迫った、その救い主を下さった神様に、ぞっこんです。委ねますと言いたい。もとより何も持たない私たちです。自分一人、裸一貫、手前一丁でみ前に立つのです。
信じます!と心のうちに叫ぶことを大事にしたいと思います。

天の神様、時に応じてどうぞ私たちに迫って下さい。自分やこの世のことばかり目を奪われがちで、それでいて自信のない姿勢を、あなたの方向に向かせ、生きる希望へと変えて下さいますように。