恋人から自分がどのくらい愛されているか示されるように、神の愛の大きさを表現することができるだろうか。
テキストは「一つの体、多くの部分」の箇所。分かりやすいが、書かれている内容に驚かされる。パウロは、弱さの必要を説く。それが配慮を産み、全体となると。
荒井献著「キリスト教の再定義」の冒頭に、秋田・大曲教会の長老だった「安藤仁一郎(にいちろう)」の生涯が書かれている。
行き詰まり、死を決意した安藤は、たまたま教会に立ち寄り、牧師からの「本当にすべてを赦されていることを知った人間は、自らの死を選ぶことをしないであろう」という言葉に憑かれ、以後自由の根拠を探り続けることになる。
神の愛の偉大さを語り得る言葉はないだろう。神の大きな愛のうちに生かされていること―きっとそれは心に感じ取るものでしかない。
それ故パウロは「つながり続ける」大切さを語ったのだ。彼自身が感じ取ったからだ。イエス自身が「つながれ」と語ったのだ。
安藤のように、パウロのように、私たちも神の大きな愛の中に赦され生かされている―その気配をイエスとつながって感じ取れたらと願う。
<メッセージ全文>
安っぽい恋愛ドラマの中で、例えば次のような恋人たちの会話が交わされるとしましょう。
「ねえねえ、私のこと、愛している?」
「当たり前だよ、愛しているよ!」
「それって、どのくらい?」
「もう、こんなだよ。」
「え~、それくらいなの?」
「いや、もっとだよ。こ~んなだよ。」
「え~、そうなの?まだそれくらいなの?」
「もう、どんなにしても足りないくらい、こ~んなだよ。」
「うれしい!」
って、傍で聞いていると、段々怒りが沸いて来て、「え~加減にせえよ!」って怒鳴りたくなるような会話、もはや漫才です。
さて、今朝与えられたテキストは、パウロの有名な箇所の一つです。「一つの体、多くの部分」という小見出しがつけられています。もうその小見出しの通り、体が様々な部分から成り立って一つとされているように、私たち人間の世界も同じなのだ、ということをパウロが切々と説いた箇所です。
しかもその場合、体のすべての部分が何も問題ないという前提ではなく、必ずどこかに問題を抱えているということが前提とされています。肉体にとげを持っていたと言われるパウロです。それが何だったか特定されませんが、何かしらかなり大きな課題を抱えていたパウロならではの文章だと思います。
「わたしたちは、体の中でほかよりも格好が悪いと思われる部分を覆って、もっと格好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。」という23節の言葉には、誰も否定しようのない現実が指摘されています。
でも、もちろん、「誰でもそういう部分を持っていて、みんなそこそこ影の努力をしながら生きているのだから、大丈夫」というような、よく言われる主張なのではありません。パウロは「見栄えのよい部分には、そうする必要はありません」と現状を肯定した上で、見栄えをよくしたいと密かな願望を持っていることを超えて、「神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。」と続けるのです。見栄えのよい部分をいっそう目立たたせる引き立て役として、見劣りする部分が置かれたというのではなく、逆に見劣りする部分をいっそう引き立たせて体を組み立て、そのお陰で体に分裂が起らず、各部分が互いに配慮し合っている、というのです。「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」と22節にあるように、むしろ弱い部分があってこそ、互いの配慮が生まれバランスが取れた全体であると言うのです。
その内容に驚かされますが、ここはパウロの他の文書に比べると、実に分かりやすい文章です。そして敢えて言えば、「君にどんな欠点があったって、大丈夫。僕は全部ひっくるめて君を愛しているよ。」と言わんばかりの、ちょっと恥ずかしい恋人のセリフのようでもあるのです。
ここまで書いたパウロには、どんな課題があり、苦しみがあったのでしょうか。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」との26節の言葉は、私たちが具体的に何か躓いた時に、非常に慰めとなることでしょう。例えば、たった1本の歯が痛んでも、何もできなくなる私たちです。でもパウロは、だから弱い部分を強くして頑張って乗り越えて生きて行きましょう、と人生を鼓舞しているのではないのです。隠したい、忘れ去りたいような弱さとつながっていることの大事さを、自らを省みながら書き連ねているのです。
この春、荒井献先生が「キリスト教の再定義のために」という本を出されました。青山学院や東大で長く教えられ、恵泉女学園大学の学長を務められた荒井先生の、信仰の集大成のような本です。
その最初に収録されているのが、「福音と世界」という月刊誌1958年の7月号に掲載された「安藤仁一郎(にいちろう)」と題された文章です。
原文に元号が使われていたのでそのままに紹介します。ここでは主人公を安藤と呼ばせていただきます。昭和25年7月25日、秋田県の神代(じんだい)という村で、柏林開拓組合の組合員とその家族全員79名が洗礼を受けると言う出来事が起こりました。
柏林開拓組合というのは、満州に開拓に行き、戦後秋田に戻って来た人たちで構成されたグループでした。集団で洗礼を受けるという出来事の是非はともかくとして、日本の農村の地でどうしてそんな劇的なことが起ったのか、その出来事を導いた人が、大曲教会の長老として教会を支えた安藤仁一郎という人の生きざまにあった、そのことを荒井先生は書いたのです。
安藤が村人を引いて昭和14年満州に開拓に出発し、大変な環境の中で皆を守り指導し、終戦によって致し方なく故郷に帰って来たのです。大変な辛苦がありましたが、無事に帰って来た人たちが、昭和22年に病死した安藤の後を引き継いで洗礼を受けたのでした。
安藤は有名な人物ではありません。明治29年、貧しい小作農家に生まれた人で、当時の状況の中で小学校だけを出て、直ちに農業に就いた人でした。働いても働いても地主の搾取にあう生活、社会の矛盾に疑問を抱き、大正時代に生まれた農民運動に身を投じるようになるのです。
そして労農党という結社が組織されます。が、当局の迫害にあって、中央から逃げて来た党員を安藤がかくまうのです。でも当局や地主の圧力に耐えかねた部落の人たちは安藤を村八分にしてしまいます。安藤がキリスト教と出会い、求道生活を5年続け、昭和5年に34歳で洗礼を受けることになった前段の下りをそのまま紹介します。
『官憲の圧迫と地主の圧力に堪えかねていた部落民は、目先の利益に縛られて、彼らのために苦しい運動を続けてきたはずの安藤を村八分にする。彼は党員と部落民の間に挟まれてハタと困った。党員をかくまい続ければ、村が潰される。村を立てれば、党員に対して裏切り者となる。この困惑はやがて絶望へと変わってゆく。―俺は結局誰をも愛しえないのだ。殺されても愛と信念を全うする勇気を持たないのだ。
大正も終わった秋の一夜、安藤は悄然と部落を出た。彼は密に自ら死を選ぼうと決意したのである。
死地に赴くために、安藤は大曲の街を通る。その時、ふと彼の目にとまったのが「大曲日本基督教会」という字の書きつけた提灯であった。冥途の土産にヤソの話でも聞いてやれ、と思った彼は、何の気なしに教会の敷地を跨いで驚いた。教会とは名ばかりの六畳一間きりの下宿屋にすぎなかった。ともかくここで安藤は、ちょうどその頃赴任したばかりの青年牧師と相対した。昭和元年11月の夜半。彼は初めのうち、この青くさいヤソ坊主に何が分かるかと昂然と構えていたのだが、知らず知らずのうちに牧師の言葉と人格にひきつけられ、結局、彼のこれまで歩んできた道と、自分のこれから遂行しようとする目的まで打ち明けてしまった。その直後に、牧師が語った言葉が安藤の一生を支配したのである。
「人間は愛することも生きることもできない。にもかかわらず、愛も生も人間には赦されている。否、人間にはすべてを赦されている。しかし、本当にすべてを赦されていることを知った人間は、自らの死を選ぶことをしないであろう」。
安藤はこの言葉に憑かれたという。これ以降、彼は、すべてを赦す自由の根拠を探り続けることになる。』
このように綴られています。この後の安藤の歩みを今日は紹介する時間がありません。
安藤に向って語った青年牧師の言葉が、適切だったかどうか、よく分かりません。ただ安藤のみならず、私にとっても衝撃だったのです。「本当にすべてを赦されていることを知った人間は、自らの死を選ぶことをしないであろう。」
苦しみの果てに選択肢を持てず自死してしまう人がいる中で、余り分かったふうなことを語るつもりはありません。でも、私はこの言葉から、「お前は神の愛の大きさを知っているのか?」と鋭く問われたような気がしました。もしどれくらいだ?と尋ねられたとして、最初に言いました恋人たちの会話のようにではありませんが、「これくらい」などと語る一辺のものも持ち得ていないと思ったのです。というよりもそれは不可能なのでしょう。
本当に赦されているということをつゆほどに知りもせず、一部の聞きかじりで神を語って来たのではないか。自分に問う者です。安藤ほどの切羽詰まった状況ではないにしても、随分とたくさんの失敗やつまづきを重ねて来ました。こんな年齢になっても、なお、です。そしてその度に、こんな自分って何なのやろ。時には生きていて良いのか、とまで自問するのです。忘れたい、切って捨ててしまいたいと思わずにはいられない赤面の体験があります。実際、つながりを切ってしまいさえすれば、少なくとも人間関係でのつまづきはないのです。起こらないのです。でもどんなに願っても時既に遅し。大きな失態を犯して、ああもう皆と合わせる顔がない。死んでしまいたい、というような落ち込んだ経験をきっと皆さんもお持ちではないでしょうか。
安藤がそうでした。失態ではありませんでしたが、にっちもさっちも行かない状況に追い込まれた挙句、死ぬしかないと思い詰めたのです。しかし、思いがけず、牧師の言葉に立ち止められました。それは、神の赦しが何たるか諦めず分かるまで頑張ろう、という事ではありませんでした。赦されて与えられる自由の根拠を探るということでした。そうして神につながって行くのです。否、つなげられて行ったのです。
パウロは、例え弱い部分を持とうとも、体が一つのものとして与えられているように、「つながり続ける」ことを語ったのでした。もしかしたら自ら切ってしまった痛恨の思い出があったのかもしれません。イエス自身が語りました。「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である」と。「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」「つながれ」、そう続けました。
安藤が自由の根拠を探りつつ、教会の長老として、満州開拓団の一団長として、また帰国してからも開拓団のリーダーとして、歩み続けたのは、常に全体を考えた上での道のりでした。つながることは、安藤が一人で考え発見した答えではなかったでしょう。全体を考えながら、皆とつながりながら安藤は自分自身が、神さまの大きな愛のうちに生かされている、ただその一点をきっと感じ取ったのだと信じます。わたしも、あなたたちも既にそうなのだ、神さまの大きな愛のうちに生かされているのだ、パウロもそう感じ取ったに違いありません。ただならぬ気配です。もしかしたら、私たちもこの大きな神さまの愛の中に赦され生かされているかもしれない。そんな気配を、イエスとつながって感じ取れたらと心から願います。
天の神さま、感じ取る心を与えて下さい。そしてもし感じ取れたなら、感謝のうちに、自分のことだけでなく、みんなのことを考えて生きる道を備えて下さい。