某新聞悩み欄の回答者、上野千鶴子先生は「幸福とは自己満足」と言い切る。
信徒Fさん。何をやっても上手く行かなかったが、50歳を過ぎ「人の目を気にせずやりたいことをやる」と決心し、実行に移し、生き生きとされている。
イエスのところに子どもたちが来た。恐らくは母親に連れられて。
それを拒んだ弟子たちをイエスは厳しく叱責された。「彼らの邪魔をするな」と。
弟子たちには、不安と焦りがあったに違いない。残り少ない時間の中で、自分たちも含め、祝福を優先されるべき対象があると考えたのだ。
だがそれこそは、傲慢であり、その算段こそイエスの最も嫌うものだった。子どもたちは何も持っていない。親に無理やり連れて来られたに過ぎない存在。その「何もない」ことをイエスは認め、祝福したのだった。
故・渡辺和子さんは、自分を愛するよう勧めを述べた。それは自分を大切にして受け入れることだ、と。
それぞれ一人一人にその一番の方法がしかるべく示される。それを知ることが、恵みであり、祝福なのだ。イエスは出会った子どもたちからそれを受け取った。

<メッセージ全文>
上野千鶴子さんが新聞の相談コーナーへ出した返答で、忘れられないものがあります。40代の主婦の方からの相談がでした。この女性、人生の成功について、20年以上考え続けて来たそうです。様々な学校に通い、勉強を重ね、懸命に努力して来ました。それなのにどうも満足が得られず、体力も衰えて来て、ついにこう思われたのです。「勉強を一生続けても、結局自己満足なのではないでしょうか」

これに対して、上野さんは、この女性が本当に望んでいる成功について明確に答えた後で、こう書かれました。「はい、お説の通り、幸福とは自己満足です。ささやかな自己満足の量をできるだけ増やしましょう。自分の満足とはおのれのみが知る。それで何が悪い、と開き直るところから、あなたの人生が始まります。40代はそのために遅すぎることはありません。」

最近急に思い出したのですが、以前いた教会に、更に以前いた教会の一人の信徒が、突然、遊びに来てくれたことがありました。私より3つ上の方です。Fさんと言います。若い頃、様々な仕事をしました。奥さんのお父さんの経営する会社に勤めました。学習塾を開いたこともありました。たこ焼き屋をやったこともあります。Fさんはたいへん誠実な人で、一生懸命なんですが、どこが悪いのか、どれもうまくゆかないのです。何度も落ち込んでしまう。悪循環です。いつも自信を持てなくて、少し後に引いておりました。

ところが、10年ぶりに会ったFさんは誠実さはそのままでしたが、ちょっと変わっていました。髪を染めていました。赤い400ccのバイクでやって来ました。サングラスもかけていたので、すぐには分かりませんでした。最近で言うところの、ちょい悪オヤジなんですが、何だかカッコいいんですね。

彼は言いました。「50過ぎてあと残りの人生考えたら、もう人の目はどうでも良くなったんですよ。誰に何を言われようが、自分のしたい事をしたらいいんだって気づきました。」

それでタバコをやめてお金を貯めてバイクを買ったというんです。ウインドサーフィンを始め、勉強して株もやっていると。いやはや、その様変わりに驚かされました。けど、Fさん、まさしく幸福とは自己満足であるという世界を楽しんでおられました。

自分の人生を肯定し、受け入れることが大切だということです。この世的価値観や、人の目を気にしすぎると、自分の立ち位置がぶれたり、分からなくなったりします。それはもちろん、神様の望まれることではないでしょう。

さて、イエスのところへ人々が子どもを連れて来ました。13節です。触れていただくため、とあります。人々と書かれてはいますが、それは恐らく大半が女性、つまり母親たちであったろうと思われます。触れていただくとは、一つにはイエスから祝福してもらうという意味があったでしょう。そしてもう一つには、何か課題を抱えていて、癒していただくという意味もあったでしょう。祭司でもなんでもない、ただ近頃評判の人物という以外に、人々がイエスについて知っている事などなかったはずです。あったのは皆が皆、それぞれに事情を抱え、切羽詰まった思いを負い、どうにかして欲しいという期待感でした。期待をかけ、切望感に満ちてそこへやって来たのでした。

ところがそれを弟子たちがとめ、叱ったのでした。そして途端にイエスの怒り爆発となりました。14節に「憤り」とあります。激しく怒ったということです。ここまでの表現箇所はそう多くありません。憤り、「子どもたちを私のところに来させなさい。妨げてはならない」そう語りました。岩波書店版聖書では、「子どもたちを私のところに来るままにさせておけ。彼らの邪魔をするな。」と訳されています。邪魔をするな、と。

なぜ弟子たちは子どもたち・母親たちを拒んだのでしょうか?それこそ相手が子どもだったからです。或いは女性であったからです。自分たちの仕事は成人の男子に対して優先されるという思い上がりがあったのでしょうか。或いは主になり代わって、忙しい主人を思いやったという勘違いもあったでしょう。

何しろ、祝福や癒しを注ぐべき相手はまだまだゴマンといる。弟子である自分たちだってその対象のはずなのです。この出来事までに、イエスは既に二回、十字架の受難予告をなしていました。弟子たちには表現しがたい不安が募っていました。イエスから頂く恵みの残り時間が少なくなっているかもしれない、そういう焦りもあったかもしれません。そうであれば、自分たちを超えて、子ども・母親たちが先にされることは、明らかに邪魔であり、妨げであったのです。選ばれた自分たちこそ優先されるべきであって、早いうちに将来の保証を得たい算段が働いたのは、ある意味無理もありませんでした。

けれども、そういう算段こそがイエスのもっとも嫌う事でした。それこそは神の力を愚弄することであり、妨げることだったのです。計り知れない神様の計画を、弟子たちは狭い人間の了見で邪魔しました。

振り返れば、イエスはむしろ算段のない、正常ではない言動こそを受け止め、信仰として認められて来たのでした。例えば、屋根を壊してまでつり降ろされた中風の患者の出来事。密かにイエスの衣に触った長血の女性。衣服を脱ぎ去って踊った盲人などなど。彼らに優先されるべき何かがあったでしょうか?取り立てて立派な信仰や行動があった訳ではなく、かえって地位や財産などない、見捨てられたような人々でした。敢えて言えば、何も持っていない人たちでした。
何もないけれど、ぶしつけ・無礼と思えるほどひたすらにイエスにすがろうとしてやってきた人々でした。

このところに連れて来られた子どもたちもそうだったのです。子どもたちにとって、イエス本人への関心など何もなかったでしょう。何者と知っている訳もなく、期待もありませんでした。自分から申し出たのでもなく、親に無理やり連れられ、何の算段もなくそこへ来たに過ぎないのでした。祝福や癒しを豊かにいただいて、将来に備えたいなどと思うはずもありませんでした。或いは未来さえ望むべくもない場合も多々あったでしょう。つまり子どもたちは何も持っていなかった。そしてイエスは、何も持っていないことを捉えて子どもたちを祝福したのです。

私たち、誰でも幸せでありたい、幸せになりたいと願います。そのために、なるべく努力してそのための条件を整えようとやっきになります。無論、何かしら誇れるもの、胸を張れるものを身につけることは、確かに生きてゆく上での強みではあります。

しかし、この世の基準に合わせようとして余りにも多くのものを得ようとしたり、溜め込んでしまうのです。しかもそれで満足できない。頑張ったはずなのに時には見返りがなく自己肯定が出来なくなって、壊れてしまうこともあります。信仰の世界ですら、それがある。何かと条件を定め、救いの規定を増やしてゆくのです。

故・渡辺和子さん。生前、「現代人が忘れたもの」と題するお話しの中で、その一つが「自分を愛すること」というものでした。自分の人生を肯定すること。そのために、みてくればかりのきれいさを求めるのではなく、美しい自分を目指すこと。例えば、「ほほえみ」を忘れてはならないのです、と言われました。不機嫌な顔をすることは、環境破壊だとまで断言されました。

今朝のテキストでイエスは明らかに示されました。救われるために何もいらないのです。自分のもとに何も持たず、持ちえず、打算も計算もなく連れて来られた子どもたちをイエスは抱き上げ、祝福しました。その時、イエスはきっととびきりの笑顔を湛えていたことでしょう。怖い顔で祝福したはずはありません。偉そうに何かを語ることもしませんでした。今目の前で出会うそれぞれの子ども、それぞれの人に、それぞれの仕方で一番があります。それは人に打ち勝つ一番、自慢の一番ではなく、自分を受け入れる一番の方法であることでしょう。自分を愛し、人生を受け入れて生きてゆくこと。そのためにむしろ何もないことが大事で、それを喜んでイエスは子どもたちへの祝福としました。

「自分の人生を決めた年齢と同じ年齢の子に届く言葉をもちえなかったら、何の書き手か」と俳人で京都教育大の名誉教授である坪内稔典さんが言いました。酪農学園大学でキリスト教学を教えている高橋優子先生は、キリスト教を何も知らない学生たちと向き合うために一生懸命漫画を読んで出会いに備えておられます。そして「負うた子に教えられる」と言われるのです。それぞれ出会いに対する誠実な努力をなさっておられます。
ですからもう一度言います。自分を愛し、人生を受け入れて生きること。それを与え、認めて下さることが恐らく神様の仕事です。そしてそれを知り、受けることが神様からの恵みであり、祝福であるのです。間違っても、昔の自分を語り、今を算段して出会いの豊かさを邪魔することがないよう願って止みません。

天の神様、あなたが下さった私たちの命、そして人生を、あなたが認めて下さるように、私たち自身も認め、受け入れることができますよう導いて下さい。主が幼子を祝福されたように、私たちもあなたの恵みと祝福の中に置かれていることを感謝しつつ歩めますように。