「君の心が戦争を起こす」(羽仁五郎著)より、情報を鵜呑みせず、自分で考えることの大切さを教えられる。
故・森毅さんが語った言葉も、視線移動という意味において、相通じるものがあった。
カファルナウムへ戻る道すがら、弟子たちは誰が一番偉いかを論じ合った。故郷へ戻る気楽さが、落とし穴となった。
イエスは「一番先になりたい者は、すべての人の後ろになり、すべての者に仕える者となれ」と厳しい言葉と戒めを語った。
到底できそうにない命令であったが、実はそこにイエス自身の決意が深く込められた愛の言葉だったのだ。リルケの詩のごとく、事実イエスは、最も下で皆を受け止めて生きた。
上へ、自分のみから、下から、みんなを、への視線移動の勧めをイエスは語った。それは神自身が私たちに合わせて変化された姿を示す。
人は自分の力では変われないが、神さまの変化に応えて変わることができる。五所川原教会の一老信徒の証しにもそれが表されている。
互いに平和に過ごせとイエスは言った。望むなら戦いは終わるのだ。下から見ること、みんなを見ること、そこから。
<メッセージ全文>
今日の平和聖日に当たって、「君の心が戦争を起こす」という古い本をもう一度読んで見ました。ちなみにこれは鳥取大学の時の友人I君が、1983年の24歳の私の誕生日に彼がプレゼントしてくれた本です。
著者の羽仁五郎さんは、この本を1982年暮れに出版し、1983年6月に亡くなりましたので、言わば遺作となった本でした。もう36年も前の本ですが、再読して、現代にも十分通用する、ちっとも古くない本だと感じました。
「余りにもたくさんの情報があるけれど、何かの意図をもって流される情報も決して少なくない。そういうものが多数を占めると、人はたやすくそれを受け入れてしまう。先の大戦もそうで、どこかでおかしいと思いながら皆が流されてしまった。残念ながらその教訓が生かされていない。では、どうしたら良いのか」
これがこの本の内容です。まさに現代そのものです。で、戦争をふせぐための8つの方法が示されていて、全部は紹介できませんが、トップに挙げられているのが、新聞をよく読む事。その際赤鉛筆と青鉛筆を用意して、未来につながる記事には赤線、未来を妨げる記事には青線を引いて、一か月ごとに切り抜き、整理するよう勧められています。
これはなかなか大変な作業なので、いつもできることではないのですが、例えば夏休みの間だけでもやってみれば、確かに羽仁さんが言われるように、「今日の世界なり日本なりがどういう方向に動いているかが、自分で判断できるようになる」ことでしょう。要はだまくらかしの情報を鵜呑みにしないで、自分の目と耳、そして頭で考えようと言う事なのです。これを、心理学用語で視線移動と言うそうです。
羽仁さんとはちょっと畑が違いますが、元京大教授で数学者の森毅(もり・つよし)さんは生前、ユーモアあふれる痛快な言葉の数々を語られました。忘れていない人も少なくないと思います。「新しいことを始めるには優等生だけではダメ。突拍子もないことを言い出すのは、大抵はスカタンですわ」「ええ加減が面白い」「賢から教わるのはアホでもできる。アホから教わるのがほんまの賢や」「ぼちぼちいこか」というような、ほっとする愉快な発言を繰り返し続けられました。講義の出席を取らないことでも有名でした。これは森毅流の視線移動であったと思います。
さて、今朝与えられたテキストは誠に厳しいイエスの言葉でした。もし、片方の手、片方の足、があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。片方の目があなたをつまづかせるなら、えぐり出しなさい。ゾクッとするぐらい、怖い言葉ではないでしょうか。一体、どうしてイエスはこのような厳しい言葉を語ったのでしょうか?
それを知るには少しテキストを遡って探る必要があります。同じ9章の30節を見ると、「一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った」とあり、33節には「一行はカファルナウムに来た」とあります。ガリラヤとは主(あるじ)イエスを含め、弟子の多くの出身地でした。中でもペトロらガリラヤ湖の漁師たちの家はカファルナウムにあった訳です。家に着いてから、と続けられているその家とは、恐らくペトロの家ではなかったかと思われます。
厳しい伝道旅行は、常に緊張を強いられることの連続だったでしょう。見知らぬ土地に赴くという、ただそれだけで身構えてしまうその緊迫感と違って、ここカファルナウムは彼らのテリトリーです。自分たちの家に落ち着けるという非常に気分的、精神的に楽な道行であったのです。
けれども、そこに落とし穴が待っておりました。緊張が解け、つかの間本来の自分を取り戻せる時間であったからこそ、まさに彼ら本来の素顔が露呈されたのです。イエスは、家に帰る途上で弟子たちが何を話していたかをしっかりと聞いていました。弟子たちは自分たちのうち誰が一番偉いかという議論をしていたのです。故郷に戻る道行で、いずれふるさとに錦を飾るために、少しでも地位を得ておきたいというよこしまな願望が、議論を起こさせました。だから何を議論していたか、と主(あるじ)から問われた彼らは、返事をすることができず黙りこんでしまうしかありませんでした。
弟子たちの沈黙を見たイエスは、皆を集めて言ったのです。「一番先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者となりなさい。」
これは今日のテキストよりも衝撃の言葉でした。弟子たちは、皆が皆、一番先になりたかった訳です。一番先と言うことは、言い換えれば自分だけということでもあります。上を目指し、我先に歩む生き方です。そんな生き方と正反対、上へのみ向けられていた視線を下へと移動すること、また自分のみに向けていた視線をみんなへと移動すること、イエスが命じたことはまさしく視線の移動なのでした。
リルケという詩人が「秋」という詩を書いています。夏真っ盛りのようですが、暦の上では明後日火曜日がもう立秋です。
木の葉が散る、遠くから落ちてくるように。
天で遥かな庭々がすがれてでもいくように、
いなむ身振りで、木の葉が散る。
そして夜には思い地球が落ちる。
すべての星から離れ、孤独の中へ。
私たちすべてが落ちる。この手が落ちる。
そして他の人を見よ、すべてに落下がある。
けれども「一人の方」がいて、この落下を
限りなく優しく両の手に受け止める。
秋という題で、リルケはイエスのことを証ししました。
或る牧師はこう書いています。「何よりもまず、上になろうとする自分がイエスに拒否されていること以上に、下にある自分がイエスの視線の中にあり、位置を与えられ、支えられていることを知り、「ありがとうございます」と感謝すべきではないだろうか。」
本当にそう思います。もっとも移動しなければならないことは、自分だけのことを考えながら、なお自分は見られていないという視線から、そのような自分であっても神にイエスに見ていただいているという視線ではないかと思うのです。イエスの語った言葉は本当に厳しいものでしたが、しかしそれはただ厳しい命令や戒めを語ったものではなく、自分自身が最も下になる決意の基に語られた愛の言葉であったのです。事実誰よりも下になり、ついには十字架にかかった方が、私たちの救い主であるのです。
すべての人の後になり、すべての人に仕える人であった方が命じました。「自分自身のうちに塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい」と。自分自身で考え、違う者への視線を持つこと。これを見過ごす時、怠る時、確かに私たちの心が戦争を起こすのでしょう。
頑なな私たちは、なかなか自分自身で変わることはできません。一番下になることなど到底無理なことに思われます。けれども、だからこそ神様が自身の視線を移動され、変わられたのです。一人子をこの世に与えるという形で。この神様の変化に応えて人は初めて変わることができるようにされます。
私の尊敬する小笠原亮一先生がかつて牧会された青森・五所川原教会で、こんな出来事がありました。先生の残された文章から紹介します。この地方ではお母さんのことをアッバと呼びます。
「幼い時に母を亡くした80歳の老会員が、祈祷会で、イエスが父を求めて「アッバ」と呼んだと聞いて、「アッバ」【母の方言】と呼びたかった幼い自分を思い起こし、驚くべき告白をした。
中国の戦場で3人の中国兵を斬ったが、実は農民であった可能性がある、と。同席していた人々は驚いた。中国からニューギニアへと転戦し、生還した元陸軍曹長から長年戦争の話を聞いてきたが、このことは初めてだ。恐らく彼は戦後誰にも語ることのできなかった罪に悩み、キリスト教を求めたのであろう。しかし彼が、自分の斬った中国人に幼い子がいて、亡き母を呼んだ幼い自分と同じように父を求めて叫んだ可能性があると思い至った時、彼の心は破れて、もはや黙し続けることができなかったのである。
ようやく園庭の雪が消えた4月の終わり、80歳の彼が、子どもたちや保育士さんたちに見守られながら、木に登り梯子に登って、園庭の大木のこずえと、園舎の屋根の上の煙突の支柱の間に綱を張り渡し、こいのぼりがひるがえった。強い風におなかをいっぱいに膨らませ、日の光に鱗をきらめかせ、空を力強く泳ぎ回る。鯉は生きている。私はあの忘れていた風、生命の風、聖霊の風を思い起こした。
かつてあの呪いの風に追い立てられて軍人として中国に渡った、この地方の多くの人々がサハリンや満州に渡ったのだが、その老人が、今、父を呼ぶイエスの生命の風に包まれて、幼子の心で、日本や中国の子どもと共に父を呼んでいる。彼は間もなく保育園のクリスマスでサンタクロースになる。」
戦いを望む人はまずおりません。そもそも人生は戦いなどではないのです。森毅先生流に言うなら、「ぼちぼちいこか」でちょうど良いのです。神様を通し、イエスを通して視線を移動すること。あなたが望むなら、私たちが望むなら、戦いは終わるのです。必ず。下から見ること、みんなを見ること。そこから始めましょう。
天の神様、私たちはあなたから平和の器として招かれ、用いられます。どうぞ託された業をしっかり担うことができますよう、お導き下さい。下から上を仰ぐことこそが信仰だと知りました。その道を確かに歩ませて下さい。