私が暮らした京都府立医科大学YMCAの寮の名簿に中川智正君の名前がある。先月死刑が執行されたオウム真理教の中川君である。
 彼は6年生の時、YMCAの会報に臨床実習で出会った上顎癌の患者さんのことを書いた。
「こんな苦痛に満ちた一生の存在。また患者さんの生命のため、顔面の一部の摘除を勧めざるを得ない医者。すべてがどうしようもなく悲しかった。」
 彼はこの後しばらくしてオウム真理教に入信した。今日の「闇の両手、光の片手―中川智正君について」という題は、江里昭彦さんという俳句作家の文章からそのまま借りた。
 京都府立医科大学学生課の職員だった江里さんは言う。「どこか野暮ったさの匂う誠実なひととなりは、接するものにお湯のような温かみを伝える魅力を備えていた。思うにオウム真理教に飲み込まれてからの彼は、闇の両手にしっかり捕捉され、両手を通じて悪のエネルギーを注がれてきた。それなのに、光の世界にいるわれわれを、光は片手でしか支えてくれないのだ。廃墟となった中川君にも心は残っている。その心に、救いと癒しの光の両手が届くだろうか。」

<メッセージ全文>
この教会の礼拝に昨年の6月に初めて参加してから1年2か月あまり経ちました。

私は幼稚園が岡本、小学校が御影ですが、6年生の夏休みに東京に転校し、中学、高校、予備校が東京で、1974年に京都府立医科大学に入学しました。入学と同時に京都府立医科大学YMCAの橘井寮という学生寮に住むことになりました。

京都府立医科大学YMCAの名簿を見ると、一番上に日本の新生児医療の先駆けとなったパルモア病院の三宅廉先生の名前があり、3分の2くらいのところに私の名前があります。私の名前のすぐ上には寮で一緒に暮らし、今は映画監督や大阪芸大教授をしている大森一樹さんの名前があります。大森さんは、「ヒポクラテスたち」「ゴジラVSビオランテ」「津軽百年食堂」などの映画を監督しました。「ヒポクラテスたち」は、京都の洛北医科大学の鴨川寮にすむ医学生たちの青春を描いた映画です。洛北医科大学のモデルは京都府立医科大学で、鴨川寮のモデルはYMCA橘井寮です。映画には野口英世ではなく野口英雄という新入生が出てきますが、野口君のモデルは私だそうです。野口君は、寮の先輩たちが、大学で教わる医学は患者や医療被害者の側に立っていないと批判しながら、翌日には黙って授業を受けているのはおかしいと、先輩たちと大げんかをしました。そして寮を出ていき、そのまま大学に戻ってきませんでした。モデルになった私の方は、2年くらい東京で社会運動に関わったりしたのち、結局、大学に戻って医者になり、今は京都府立医科大学YMCAの理事長もしていてます。

今日は、京都府立医科大学YMCAの名簿の上から5分の4くらいのところに名前のある中川智正君の話をしたいと思います。中川君はオウム真理教の幹部で、坂本弁護士の1歳のお子さんを含む25人を殺した罪で先月死刑が執行されました。中川君は私の8年後に京都府立医科大学に入学し、3年生の時に私と同じYMCA橘井寮に住むことになりました。私は1年くらいで寮を出たので一緒に暮らしたことはありません。中川君は私もしていた車椅子の障害者のボランティア活動をしたり、柔道部のキャプテンをしたり、学園祭の実行委員長を務めるなどしました。

中川君が6年生の時、京都府立医科大学YMCAの会報に載せた文章をお読みします。「先日、臨床実習の折、上顎癌の患者さんを見た。数十年前右の眼球を含む広範な上顎骨の摘除を受けたが、最近再発をきたして入院しているという。そのおじいさんが回診の先生や自分たち臨床実習の学生にまで手をふるわせながら合掌するのである。一言も喋らず、ただ、白衣の者を拝むのである。ある友人に言わせるとその時の自分は患者さんに対して嫌そうな顔をしていたのだそうだ。自分にはそのつもりはなかったのだが、回りから見たらそう見えたのかもしれない。患者さんもそう自分を見ていた可能性があるのでその点は反省したが、自分は決して嫌な感情を持っていたわけではない。面倒臭くって反論しなかったが自分はただ悲しかったのだ。こんな苦痛に満ちた一生の存在。また患者さんの生命のため、顔面の一部の摘除を勧めざるを得ない医者。無言の合掌の中の叫び。自分はこの人に何をしてあげられるのだろう、すべてがどうしようもなく悲しかった。」中川君はこの後しばらくしてオウム真理教に入信します。

中川君は大学卒業後に、私と同じ公衆衛生学教室に入局し、その関連病院で研修医となりました。私は教室の催しには参加しなかったので、中川君と出会うことはありませんでした。私は大学卒業後に、当時から往診をする病院として知られていた京都の堀川病院で研修を始めました。3年間の研修ののち、消化器病の専門的な研修をするため、大学から指定されたのが、のちに中川君が研修医となる病院でした。しかし、いつまでたっても正式の辞令がおりません。公衆衛生学の助教授に呼ばれて、私が2年間東京で関わっていた運動のために辞令がおりないと教えられました。その頃、京都府立医科大学には絶対教授になれない助教授が何人かいて、公衆衛生学の助教授もその一人でした。これらの助教授たちは京都府立医科大学紛争の時に助手講師会に加わって、学生達と一緒に教授会と闘った人達でした。公衆衛生学教室の助教授は私に、権力は一度逆らった人間は一生許さないのだと自分自身の境遇に照らして言いました。助教授は私に、その病院以外ならどこでも好きなところで働けるようにすると言ってくれて、当時、消化器内視鏡では日本のトップクラスだった京都の赤十字病院に行くことになりました。もしこの時その病院に勤めていたら、あとから研修医としてやってきた中川君を教える立場になったはずですが、ここでも中川君と出会うことはありませんでした。

中川君は研修医になって1年半たったところで麻原彰晃に呼び出され、「おまえは医師でありながら敗北感に打ちひしがれている、それを乗り越えることができるのが宗教的な医療である、オウム真理教は近く付属病院をつくるから早く出家しなさい」と言われて出家したと聞きました。

私が京都の赤十字病院で8年ほど働いた頃、大阪の淀川キリスト教病院から京都府立医科大学に、医者を送ってほしいと依頼があり、公衆衛生学教室からは私が派遣されることになりました。私は中学生の頃から教会に通っていたのですが、バプテスマは受けていませんでした。この時、自分の意思でなく大学の人事でキリスト教病院に行くことになったのも神様の計画かなと思い、淀川キリスト教病院に行って1年後に、バプテスト連盟京都教会でバプテスマをうけました。

オウム真理教のおこした事件が明らかになった時、病院の何人かの同僚に、自分たちも中川君とは紙一重のところにいて、中川君と同じようになったかもしれないねと言いました。わたしは相手が当然うなずくと思っていたのですが、何か危ないものを見る様な顔をされてしまいました。

本日の「 闇の両手、光の片手-中川智正君について 」という題は、江里昭彦さんという俳句作家が、1995年に「路上」という冊子に書いた文章の題をそのまま借りました。江里さんは中川君が大学生だった頃は、大学に学生課職員として勤めていました。江里さんの書いた文章を抜粋して紹介します。「オウム真理教の他の被告には鋭い反感を覚える私である。にもかかわらず、中川君に対してだけは「なぜ君がこんなことをしたのだ」と嘆く気持ちはあっても、憎悪と非難の感情が芽生えることはない。かかる奇妙な状態を作り出した原因ははっきりしている。私が学生時代の中川智正君を表面的であれ知っているからであり、しかも彼は好い印象を残しているからだ。大学には隣接して附属病院が建っている。病院にしょっちゅう出入りするうちに私の病気観は大きく変化した。病気は個人の生活史を強く反映するという認識をもつようになった。ならば、医者が患者に接したとき、病を癒そうとする者は人体の生理と病理だけを扱うのではなく、患者の心理や生活・境遇にも考慮のまなざしを向ける必要がある。中川智正君は私の期待にかなう人物の様に思えた。中川君は勉学のかたわら学園祭の活動にもかかわり実行委員長として医大最大のイベントを取り仕切っている。世話好きという性格に加えて、強い義務感と奉仕精神がなければ務まらないのが委員長と言うポストだ。そうした経験を積んだ者は授業一本槍の学生とはひと味もふた味も違ったお医者さんになってくれるだろう。あかぬけたシティ-ボ-イとは評しにくいが、どこか野暮ったさの匂う誠実なひととなりは、接するものにお湯のような温かみを伝える魅力を備えていた。私にとって中川智正問題は不可解で不気味、そして深刻な何かである。中川君が凶悪犯罪を重ねるうえでエネルギ-を与え続けたのが破壊の衝動や暴力への嗜好であるのなら、それは我々の内部にも等しく潜んでいるものだ。だとすると、真に恐怖に値するのはそうしたエネルギ-が人体をやすやすと動かしうる特異な環境が出現したことだろう。現在の中川智正君は廃墟である。彼は社会と人命に損害を与えたばかりでなく、自分の可能性の一切をも破壊してしまった。学生時代の彼を知る私は、将来を期待された有為の青年の想像を絶する意外な末路を目の当たりにして、立ちすくむばかりだ。そして私を繰り返し揺さぶるのは「ひとは過つために生まれてくるのか」という問いである。思うにオウム真理教に飲み込まれてからの彼は、闇の両手にしっかり捕捉され、両手を通じて悪のエネルギ-を注がれてきた。それなのに、光の世界にいるわれわれを、光は片手でしか支えてくれないのだ。廃墟となった中川君にも心は残っている。その心に、救いと癒しの光の両手が届くだろうか。」

江里さんは、中川君の死刑が確定するまで面会を繰り返していましたが、死刑確定後は面会ができなくなるため、ジャム・セッションという名前の俳句同人誌を創刊しました。ジャム・セッションとは事前にアレンジせずにおこなうジャズの即興演奏のことで、同人は江里さんと中川君のふたりだけ、その記事はインタ-ネットで読むこともできます。今年6月に入稿された第13号は、中川君の死刑執行後に発刊されました。そこには「古里を通過して」と題した中川君の19の俳句が載っています。彼は今年の3月に東京拘置所から護送車で古里の岡山を通過して広島拘置所に移されました。14号は来年の1月、15号は来年の7月6日=中川君が死刑を執行された日にあわせて発行され、それで江里さんと中川君とのジャム・セッションは終了します。

天の神様。中川君と最後まで交流をもった江里さんは、中川君は闇の両手にしっかり捕捉され、両手を通じて悪のエネルギ-を注がれてきた、それなのに、光の世界にいるわれわれを、光は片手でしか支えてくれないのだと言いました。今日読んだ「ヨハネによる福音書 1章4節-5節」には「言葉のうちに命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」とあります。私たちすべての者に、救いと癒しの光の両手が届きますように。主イエスキリストのみ名によって祈ります。