猛暑が続いた今夏。もはや「異常」が「普通」となった感がある。異常と正常の境目を、私たちは区別しきれるか。
エルサレムの神殿は、入ってすぐが「婦人の庭」。その婦人の庭の左右に大理石の回廊があり、13個の献金容器が備えられていた。
お金持ちが投げ入れると派手な音がする。その陰に隠れるように貧しいやもめが献金した。現代に換算すれば100円内外のわずかな献金。
しかしそれを「誰よりもたくさん入れた」と見ていた人がいた。それは「自分の持っているものすべて、生活費の全部」だったのだ。
通常、そんな事はできない。あり得ない異常な振る舞い。それほどに彼女はしんどい異常な環境に生きていたのだろう。
私たちは「異常」を恐れるけれど、「正常」と言われるものの根拠は案外薄い。異常な事態に陥ることは誰でもあり得る。
見えないけど、おる。その存在を信じたい。誰も見てはいないと思われたやもめの献金をつぶさに見つめ、覚える方がいた!イエスである。恐れないでいい。それを知るのが「救い」なのだ。
驚き、目覚め、感謝する信仰生活を改めて確認したい振起日。

<メッセージ全文>

まだまだ暑いですが、それでも9月、秋に入りました。猛暑の続いたこの夏を振り返ります。「異常」気象と繰り返し言われましたが、異常が余りにも普通になってしまった感があります。気象だけでなく、政治や経済もそうかもしれません。
悲しいかな、余りにも異常が続くと、何が正常なのか境界線が分からなくなって、異常な状態に慣れて来ます。或る本で読んだ精神科のお医者さんの言葉が忘れられません。彼は精神病の患者さんと日々接しているのですが、患者さんたちは誠実に自分の病と向かい合って格闘している例が多いのです。で自分はそんな患者さんたちに向かって、「あんまり一生懸命にならないで、ちょっといい加減に生きていいんですよ」などと呼びかける訳ですが、次第にどっちが病気なのか疑問に思えて来る、と言われるのです。

さて、今朝のテキストの出来事は、「異常」な出来事でした。エルサレムの神殿の中での出来事です。当時、神殿は大きく二つの場所に塀で仕切られていました。見て来たように言いますが。奥には神殿本体が置かれ、その前に動物の犠牲をささげる場所が設置されていました。が、そこはイスラエルの庭と呼ばれて、男性しか入ることができなかったのです。
その手前が婦人の庭と呼ばれる場所で、左右に大理石の柱が立ち並ぶ回廊がありました。婦人の庭と呼ばれていますが、男性はもちろん入れるのです。ここだけが女性も入ることができたので、婦人の庭と呼ばれた訳です。
この庭の左右の回廊、そこに立つ大理石の柱に角笛をさかさまにしたラッパ形の献金箱というか容器が、投げ入れられるような高さに取り付けられていていたそうです。大理石の回廊ですから、たくさんコインを投げ入れるほどにジャラジャラと音が鳴り響くように作られておりました。ちょっといやらしい構造だったんですね。
その容器は全部で13個あって、うち6つがいわゆる一般的な献金、自発的な献金箱でした。あと神殿に納める税金用が2つ、その他が直接動物の捧げものを持って来られない人が代わりにお金を入れるためのもの、或いは神殿の祭儀のための木材の献金など用途別の箱で、これが5つ、というふうに指定されておりました。

「イエスは賽銭箱の向かいに座って、群集がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。」40節にそう記されています。なぜ金持ちだと分かったかと言えば、もちろん身なりを見るだけでも分かることでしょうが、お金持ちが金貨や銀貨をたくさん入れるほどに派手な音が鳴り響いたでしょうし、また彼らは、通常の献金箱だけでなく、税金用の箱にも、用途別の箱にも繰り返し入れたそうで、確かに見ているだけでお金持ちだと分かったという訳です。当然彼らの献金は、モロに他人にも見えますから、まあよく言えば堂々としていたでしょうし、悪く言えば鼻高々な態度で満ちていたことでしょう。
その意味で言えば、逆に貧しい人は、せいぜいただ一か所の箱にだけ献げるしかできなかったのです。恐らくはたくさん入れる人たちの背後に隠れるようにして、さっと献げたのだろうと想像します。

一人の貧しいやもめが、そこにやって来ました。そして今申しました想像のように、きっと密やかにわずかなお金をささげたのです。それはレプトン銅貨2枚だったと言います。ギリシャ通貨で最少額のお金です。レプトン銅貨2枚は、すなわち1クァドランスだと書かれています。1クァドランスはローマの貨幣で、1アスの4分の1。1アスは1デナリオンの16分の1です。当時の労働者の一日分の賃金が1デナリオンでした。今の価値にするとどうでしょうか?1デナリオンが仮に一日1万円だとして、その16分の1の、更に4分の1に換算すると、1クァドランスは156円ということになります。もし日当6000円ならば、94円ほどです。156円にせよ、94円にせよ、本当にわずかなお金だったことが分かります。

どうしてイエスはやもめの献金額が分かったのでしょうか?ちらっとでも見えたのでしょうか。金貨や銀貨をじゃらじゃら入れるお金持ちと違って、2枚の銅貨が入れられた際の音は、一瞬、それも誠に小さな音しか立たなかったでしょう。その音までをもイエスはしっかり聞いていたというのでしょうか。
しかしイエスはそんなことよりも驚くべき発言をしたのです。43節・44節。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、誰よりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである」、弟子たちを集めてそう言ったのでした。

このやもめにどのような事情があったか、定かではありません。しかし少なくとも「やもめ」という境遇だけで、決して裕福ではなかったでしょうし、頼る者のほとんどいない寂しい状況であったことは推測できます。

その身なりや態度から、推し量ることができることもあるでしょう。でもどうしてイエスは、このやもめが「乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れた」ということを見抜かれたのか、不思議ですが、実はそれは大事な事ではないのです。
自分の持っている物をすべて献げるとは、異常な出来事です。ただならぬ事です。尋常ではありません。156円だろうが、94円だろうが、それがその時の生活費全部であったとして、普通はそうであっても計算する訳です。例えば94円しかないなら、申し訳ないけれど献金は4円か14円くらいにして、後はせめて何か買うために残すのが当たり前です。それなら少なくともパンの一つは買うことができるでしょう。

それなのに、このやもめは、そういう通常の計算を一切せずに、持っている物すべて、生活費全部をささげたと言うのです。その事自体が異常な出来事ですが、そのような事をせずにはおれなかった女性のその時の環境や精神状態が異常であったに違いないのです。何も特に偉いこと・立派なことをしようとか深く決意した上での行為などでは決してなかった。むしろ、人生に疲れ果て、もはや何も考えることができなくて、或いはやけっぱちか捨て鉢かのような状態で、もうこれでいい、おしまいでも仕方ないかのような思いで全額を投げ入れたのだろうと思われます。本当に異常な、あり得ない行為でした。

イエスの弟子たちもそこに居合わせておりました。彼らのこれまでの振る舞いを思い浮かべるなら、弟子たちはジャラジャラとたくさんの献金をなすお金持ちの姿に圧倒され、或いは羨望のまなざしで見つめていたのかもしれません。何とか地位を得たいとか、人生に結果を残したいと望むなら、うらやましい限りの光景が方やありました。
しかしそんな弟子たちを集めて、イエスは、異常な、あり得ない行為をなしたやもめのほうを覚えて取り上げ、彼女は「誰よりもたくさん入れた」と語ったのです。ここに、人の世においては、異常としか言いようのない悲しみをじっと見つめられる方がおりました。

例えばお役所の仕事や幼児の環境に異常があってはもちろんなりません。けれども、私たちの人生において、人の目に「異常」と映る出来事は、多分誰にも起こりうるのです。その「異常」を恐れればこそ、「異常」とならないよう私たちは必死で自分を守ります。でも、存外に「異常」とは、さしたる根拠もないこの世的な価値基準や流行から生ずるものが多いのです。エラそうにこれこそが「正常」だと叫び居丈高になっていることのほうが、本当の意味においては「異常」であることも、しばしばあるのです。

イエスが指摘したのは、実はそのことではなかったか、と思います。その思いをもってイエスは、その人の異常を見つめられ、その異常の側に共にいて受け入れて下さる方なのです。こんなことを言ったら、孤立するのではないか。あんなことをしたら、つまはじきにされるのではないか。一般常識の中にのみ、敢えて自分を押し込もうとして、無理やり普通でいようとして、息が詰まることがどんなに多いでしょうか?

先週、米子に行ったついでに境港に寄りました。「ゲゲゲの鬼太郎」の街です。たくさんの観光客が訪れていました。水木しげるロードには、たくさんの妖怪像が立っています。水木しげるさんは、「見えないけど、おる」という世界を信じていました。それは実際、お化けだったり、妖怪だったりするのですが、違う意味で、私たちにとって大事なキーワードだなと思います。「見えないけど、おる」。見えることだけに心を奪われてはならないのです。見えないけれど、おるもの、あるもののことを覚えたいのです。

貧しいやもめは、もしかしたらやけくそにも近い自分の献金光景が見られていたとは、露ほどにも思わなかったことでしょう。けれども、その光景をつぶさに見つめ、覚えて下さった方がいたのです。その事を知ることが「救い」です。

CSの余島キャンプ。バスの中で、うちの息子が子どもたちにアーメンの意味を教えていました。「アーメンって、そだね、ていう意味だよ。」いやはや私にはそういうセンスはありません。でもいいな、と思いました。そだね、アーメンとつぶやいていました。

今年3月、東京で宗教改革500年を記念した超教派の青年大会が開かれました。何人かの牧師や神父がメッセンジャーとして登場しました。その一人の牧師が「私たちが神さまに言えるのは、まじっすか」(本当ですか?)と、「あざーす」(ありがとうございます)の2言だけ。こんな私を本当に赦してくれるんですか、恵みをありがとうございますだけだ」と語りました。
私も概ね賛同します。でもそこに「さーせん」(済みません)を付け加えたいと思います。ちょっと意味付けが違います。まじっすか?とは赦しだけじゃなくて価値観を逆転させられる驚きだと思うんです。イエスの言動を通して驚きを与えられます。そして目覚めに至るのです。そうだったんですね。初めて知りました。さーせん、今目覚めました。だから感謝、あざーすです。まじっすか?そんなことがあるんですね?まじっすか。さーせん目が覚めました。あざーす!感謝します。

今日は振起日です。信仰の秋の到来です。一般に収穫を期待する頃となりました。早くもそんな季節を迎えました。まだまだ何もしていない、できてない、収穫など期待できそうにない、あせるわという方もいらっしゃるでしょう。でも、今日のテキストから学ぶのは、収穫を期待することではなく、驚き、目覚め、感謝することなのです。量でもなく、内容でもないのです。わずかな献金を、「誰よりもたくさん入れた」として下さる方が私たちの背後にいらっしゃると信じたい。異常を恐れなくて良いのです。すべてがこれからです。

天の神様、私たちの意識の先で、私たちのすべてを見つめ、包んで下さる一人子に感謝します。驚き、目覚め、感謝する信仰に生きて行きます。恐れず、うまずたゆまず、あなたに一切を委ねて歩む者として下さい。