子どもの夏休みの宿題さえも通販で「買える」時代。しかし身代わりに書くことは、レベルの違い(オリジナル)を無視する事だろう。
ハーバード大のマイケル・サンデル教授の「ジャスティス(正義)」の講義はまさに白熱教室。教授は常に「ブレーキが壊れた運転手としてどうするか」のような具体的テーマをもとに、条件によって変わらない正義を探る。
エルサレム入城の直前、ナルドの香油をイエスに注いだ女性の行為を、弟子らは非難したが、イエスは「それは記念として語り継がれる」と語った。
テキストはパウロの、コリントの信徒の献金姿勢を正す箇所。が、それは献金というより奉仕、信仰における正義の内容だった。
ここに2度登場する「慈しみ」の原語は、通常、正義と訳される言葉。神の正義は慈しみによるのだ。それ故にイエスは、女性の行為を讃えた。
小説「塩狩峠」は実話。「苦楽生死均しく感謝」と書き残し、犠牲となった長野正雄さん。そのような選択が現実にあった。
イエスの十字架の出来事は、神様の身代わりの作文による。そこには慈しみが満ちていた。その時以来、これからの正義は神によるものとなった。今すっかり忘れられている。これからは神の慈しみによる正義をこそ世に満たして行きたい。

<メッセージ全文>
2年ごとに8月の終わりに、京都で同志社の神学協議会が行われます。今年もありました。その別れ際、毎度何人かの友人が溜息ついて言うことがあるのです。「あ~あ、帰ったら子どもの作文書かなならんのや~」。「俺なんか絵を描かなならんのやで。」などという話です。ただし、一応面倒くさそうに言ってるんですが、実は案外うれしそうな表情で語っております。

昨今は、メルカリとか通販で夏休みの宿題が売られていると聞いて、びっくりしますが、やっぱり良くないように思います。何も「不正」は許しませんなどと偉そうに言うつもりはありません。そうではなくて、その人がその人自身の人生の中で作り上げるべきオリジナルを、他者のものと置き換えてはならないと思うからです。レベルをたがえることになる。上手・下手のレベルではなく、オリジナルのレベルです。ですから、友人牧師たちがうれしそうに身代わりに書くと言っているのを、「それはあかんで」と内心思っているのです。

さて、NHKで「ハーバード白熱教室」というテレビ番組がありました。いっとき有名になりました。ハーバード大学のマイケル・サンデル教授の講義です。「ジャスティス」つまり「正義」という講義ですが、毎度1000人以上出席する、余りにも人気の講義だそうです。サンデル教授は日本にも来て、例えば東大でも特別講義をしました。その時500人の枠に8000人の応募があったそうです。先生の講義が早川出版から本になっています。60万部も売れました。その題名が「これらからの正義の話をしよう」でした。

先生の講義は「ジャスティス」と呼ばれますが、まさに「正義」についての講義です。ただし、先生一人がベラベラしゃべるスタイルではなく、いつも具体的なテーマを与えて学生たちに考えさせ、討論しながら、答えを模索してゆくスタイルです。例えば、「君は電車の運転手です。ところがブレーキが壊れてしまいました。そのまま行けば5人の作業員を轢いてしまいます。でも左に曲がれば1人の作業員を轢くだけで済みます。さぁ君ならどうする?」と言った具合です。皆さんならどうしますか?

そうすると、やっぱり5人助かる方がいい、犠牲者は最少にすべきという大多数の声が上がります。けれどもその一方で、では少数なら犠牲になってもよいのか、一人なら殺されてもいいのかという意見が出ます。また、いかなる場合でも人を犠牲にしてはならないという意見も出ます。そして、そういう事態を起こさせないようにしなければならない、といういかにももっともな意見も出る訳です。教授はそうやって、正義をあいまいにせず(というのは正義は時によって、人によって、或いは場所や立場によって案外容易に変わり得るものだからです)、だから何らかの条件によっても変わらない正義を一人一人にしっかり考えようとさせる訳です。

かつてイエスがいよいよエルサレムへ入城する前に、エルサレムの少し手前のベタニアという村のとある家に立ち寄った出来事がありました。その時、一人の女性がナルドの香油という、当時非常に高価だった貴重な香油(現代だったら数百万です!)をイエスの頭から注ぎかけたのです。ヨハネによる福音書では、それはマルタとマリア姉妹のうちのマリアであった、マリアは油をイエスの足に塗って、自分の髪で拭ったとあります。いずれにしても、この様子を見ていた弟子たちがいかにももったいない、売って貧しい人に施したら良かったのだと憤慨しました。これもヨハネによる福音書では、それがユダの発言だったと記されています。それはともかく、イエスは、弟子たちを制して、女性の行為を「良いことをしてくれたのだ」と認め、讃えました。そして、「世界中どこでも、福音がのべ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」と答えたのでした。

そこで使われた「記念」(アネムネーシス)と言う言葉は、この後の出来事、最後の晩餐のおりに、「これを記念として行いなさい」、とやはりイエス自身が語った言葉と同じです。更にパウロが聖餐式について語った箇所でも同じ「記念」という言葉が使われています。聖書の中で記念という言葉が使われているのは、この3つの箇所だけであって、それはすべてイエスの十字架の死に関わる言葉であるのです。

どういうことかと言うと、その死が終わりではなかったということです。一方的な出来事ではあったけれど、そこで完結し終わりにしてしまうような自分勝手な出来事だったのではなく、そこから何かが始まる、そこから何事かが生じるだろう希望の出来事だった。それ故に記念、心に刻むという言葉が用いられたのです。

さあ、今朝与えられたテキストは、コリントの教会の信徒に宛てたパウロの手紙でした。その中で、この箇所は特にエルサレムの教会への献金について、パウロがお勧めを書き記した箇所でした。一言で言えば、コリントの教会内に、エルサレムの教会へ献金することについて、渋ったり嫌がる信徒が出現したのです。コリントから何でわざわざエルサレムに献金せねばならないのだ?その空気が次第に周囲にも伝染して、既に献金していた人の中にも、嫌々献げる雰囲気が充満して来ました。何とかエルサレムの教会を支えようとしていたパウロにとって、それは緊急の課題でした。不承不承ではなく、喜んで献金しようと呼びかけたのは当然のことでした。しかしそれだけにとどまらない。献金の姿勢は、すべての奉仕の姿勢にもつながりますし、ひいては信仰そのものに関わることになるからです。ですからここでパウロが強く勧めたのはただ献金のことだけでない、言わばそれは、信仰における正義の問題であったのです。教区や教団への負担金においても、自分ちの教会の献金だけでも精いっぱいなので、あんまり払いたくない後ろ向きの思いを抱くことがあります。はっきり拒否している教会もあります。

9節に、「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」と書いてあるとおりです」とパウロは書きました。これは今日の交読詩編、112篇9節の引用です。また次の10節、「種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は」、と続けた部分はイザヤ書55章10節の引用です。その引用にプラスして、「あなた方に種を与え、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させて下さいます。」、パウロはそう書き送ったのです。

この短い二つの節に2度登場した「慈しみ」という言葉が今日のキーワードです。最初はヘブライ語のツェダーカー、後がギリシャ語のディカイオスネーという言葉です。ここで慈しみと訳されているこの2つの言葉は、もちろん慈しみと言う意味がありますが、通常は義とか正義と訳され用いられる言葉なんです。ですから聖書によれば、いずれも正義と訳されているものもあるのです。しかし聖書が伝える正義とは、そもそもただ思想的な正義、行動的な正義だけではないのです。そこから生じる「救い」、これも合わせての正義なのです。ですから逆に言えば救いの生じない正義は正義でないのです。要は、神様の正義は慈しみによるのです。

貧しい人への捧げものは、神様の慈しみによる正義であって、だからこそそれは永遠に続くのだ。神様がその奉仕の力の源を下さり、神様が増やされる。慈しみという意味においての正義が現実を成長させて下さるのだとパウロは語ったのです。狭い自分たちの大義で献金するのではない。自分たちの予想を超えて結果を残して下さるのだ、と。新共同訳の訳者は、正義が時としてその内容が容易に変わることもあり得ることを懸念して、ここでは神の慈しみという訳を選んだのだと思われます。

ところで、最近ある牧師が、「罪」とはやり過ぎのことを指すのだと書いていて、納得しました。ちょっとだけなら許されるという意味ではありません。皆さんは普段の献金の中で、例えば教団や教区を意識しておられますか?実を言うと私はほとんど意識していません。だいたい東神戸教会だけの意識です。けれど、一方で福島の事や沖縄の事はいつも心に刻んでいます。沖縄教区が教団から距離を置くと宣言してから随分経ちました。教団や東京教区は、沖縄への分配金を、大切な献金だからということで、減額し、なくしました。

でも私の献金には、なお沖縄への思いが込められています。そういう人が他にも少なからずいることを知っています。自分たちの主張に従わないから「切る」。明らかにやり過ぎです。確かに「罪」です。なんちゅうセコイ罪でしょう!

ナルドの香油を惜しげもなくイエスのために注いだ女性の行為は、まさしく慈しみによるものでした。そして何より神様の正義に重なるものでした。どんなに人間の正義ではあっても、神様の正義ではないことhがあります。慈しみに欠けた正義は、神様の正義ではないのです。そこから救いは生じないし、何も始まらないのです。だからこそイエスは女性の行為は「記念される」と明言したのです。

1909年、明治42年2月28日夜、北海道の塩狩峠で、機関車のブレーキが壊れて暴走する事故が起こりました。そのまま行くと脱線横転し大惨事になるところでした。けれどもたまたま乗客として乗り合わせていた国鉄職員の長野正雄さんが、身を挺してレールに飛び込み機関車を止め、寸でのところで惨事を食い止めたのでした。これが三浦綾子さんの有名な小説「塩狩峠」の背景となった実話です。長野さんの遺体から、手帳が発見され、飛び込む前に書いたであろう走り書きが残されていました。そこにあったのは「苦楽生死等しく感謝」という言葉でした。

このまま進んで5人を犠牲にするか、1人を犠牲にするかどちらか?というテーマをサンデル教授は問いかけました。教授には悪いけど、そこにはまさか運転手自らが犠牲になるという想定はなかったでしょう。いわんや、死も生も等しく感謝という発想はないでしょう。しかし、あなた方が結ぶ実を成長させて下さる方への決断をなした人が確かにおりました。

初めに身代わりの作文の話をしました。考えて見れば、イエスの十字架も神さまが書いた身代わりの作文によるものではなかったかと思います。神様と私たち、余りにもレベルが違い過ぎました。しかし、神様は、何らセコイ思いを持つことなく、一人子を用いて、十字架の死と復活という身代わりの作文を書かれたのです。それは命に連動する作文でした。その実話の出来事を通して初めて、私たちは神様の正義の裏打ちは慈しみであることを知らされたのです。その時以来、これからの正義は神様によるものとなりました。それが今すかり忘れられた世相です。これからは神さまの正義の話をしたいと思います。

天の神様、私たち何が正義が分からなくて迷う時があります。その時、あなたの慈しみを覚えて道を選択できるよう導いて下さい。