4月に天に召された榎本てる子さんが生前語っていた夢「ブレンディング・コミュニティ」に賛同する。
バザーを意識して、普段の聖書日課から離れて「バベルの塔」の箇所を敢えて選択。ブリューゲルの絵から気づかされるように、無理やり誰かを働かせなければ、巨大な塔を建てることはできないのだ。
確かに「有名になりたい」願望は誰にもある。しかしそれを実現できるのは、基本的に権力者だ。口語訳聖書ではニムロドは「地上で最初の権力者」と訳されている。
かつて日本は、隣国の人々から言葉や文化を奪う同化政策を進めた。それは戦争という「塔の建設」推進に合理的な手法だったからだ。「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた」(1節)は、まさにそのようなあり様を示している。
神が、怒りをもって塔を壊したのは当然の結果だった。バラル(混乱)には、ごちゃまぜという意味がある。神は、それぞれの言葉を使って良い、それぞれ自由に生きて良いということを、そこで示された。
聖書は太古から多様性の大切さを描いている。ごちゃまぜは、無造作なバラバラを意味するのではない。神の配慮に満ちた絶妙ブレンドだ。
<メッセージ全文>
いよいよバザーが来週に迫って来ました。あれこれ考えあぐんだ末に、「この指とまれ市」という名前をつけた訳ですが、もともとの発想に今年4月に亡くなられた榎本てる子さんの言葉がありました。
彼女は生前、「ブレンディング・コミュニティ」を作りたいとよく話していた、という話を葬儀で、関学の中道先生から伺いました。ブレンディングというのは、混ぜるという意味です。性別を始めとして、色々な立場の人たちがごちゃごちゃ自由に混ざり合った、豊かな多様性をもった社会を実現したい、それが榎本てる子さんの夢であったのです。
私も全く同感しました。それで何とかバザーの名前にその思いを反映させたかったのです。だから一番最初に思い浮かんだのが「レインボー・バザール」というネーミングでした。榎本さんの生前の活動場所の一つだった、京都のバザール・カフェからも一語拝借したのです。
ちなみに、来月10月14日に、てる子さんを記念した「虹・フェスティバル」というコンサートが京大の西部講堂で開かれます。川上盾さんとか、陣内太蔵さんとか鳥居新平さんとか、私たちの業界で知る人ぞ知る人たちがこぞって出演します。バザール・カフェも協賛団体の一つです。そして実は東神戸教会も後援の一団体になっております。
「レインボー・バザール」という名称は、残念ながら役員会で受けませんでした。あんまり直材だったからかもしれません。それでフィリピンのタガログ語で「何でも」という意味のハロハロと言う言葉も考えました。ハロハロ市です。色んな人を巻き込みたいという願いを込めて「うずまき市」というのも考えました。カタカナより日本語が良いという意見もいただいて、最終的に「この指とまれ市」に決まった次第です。
今日は、来週のバザーを意識して、普段は教団の聖書日課から聖書箇所を選んでいるのですが、少し離れて、私にとって榎本てる子さんの「ブレンディング」という言葉に賛同する基となった聖書の話をしたいと思います。
かつて各務原教会にいた時のことです。教会の青年たちが私に、誕生日のプレゼントとしてジグソーパズルをくれました。それは16世紀オランダの画家ピーター・ブリューゲルが描いた「バベルの塔」の絵のパズルでした。
確か3000ピースぐらいの結構な量のジグソーパズルで、根気のない私にはとてもやる気が起こりませんでした。青年会の奴ら、意地悪で嫌がらせでこんなもんくれたのか、と腹を立てたくらいです。
ちなみに去年、そのバベルの塔の絵が日本に来ましたね。東京と大阪で絵画展が行われました。大阪では中之島の国立美術館だったんですが、行かれた方もいらっしゃるかと思います。行かれなくても御存じの方も多いと思いますが、あの絵、びっくりするくらい小さいんです。ジグソーパズルは大きかったのに、現物は実に小さい。でももっとびっくりするのは、その小さい絵の中に、色んなものが精緻に精密に描き込まれていることです。
各務原の時には、そのパズルをやる気が起こらないので、本棚に飾っていました。見るとはなしに、パズル絵を見ているうちに、ふと気づいたのが、塔の下で、兵士たちに槍で脅され、鞭でしばかれながら働かされている人々の姿でした。すぐには気づきませんでしたが或る時、ふっと、そりゃそうだよな、と思わされたのです。
今日読んだ聖書の箇所は、まさにこのバベルの塔の物語の箇所です。そこには、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と、塔を建てた目的が記されていました。4節です。
確かに、人は誰でも有名になりたいという欲望を持っています。それを達成したらその関係を保持し続けたいとも願います。よく分かります。ただ多くの場合、それはあくまでも願望であって、それを実際実行に移せる人は限られていると思うのです。この塔が建てられたシンアルという地方は、一つ前の10章を読むと、ニムロドという人が治めた地方で、彼の王国の主な町は、「バベル」だとはっきり書かれています。
10章の9節に「ニムロドは地上で最初の勇士となった」という一文がありますが、問題はその「勇士」という訳です。この単語は、一つ前の口語訳聖書では「地上で最初の権力者」となったと訳されているんです。今も幾つかの聖書では、そう訳されています。勇士というより、権力者と訳すほうが正しいと思われます。
そうなんです。多くの人は、例え有名になりたいと思っても現実にはできません。手段がないからです。でもお金を持ち、部下を持ち、使用人を持ち、たくさんの力を持っている支配者、権力者なら可能です。
塔を建てて「有名になろう」という部分は、岩波書店版の聖書では、「われら自ら名をなそう」と訳されています。一生懸命努力した末、結果的に知名度が上がるということではなく、端から、自ら名をなしたかった訳です。
この物語の前には、ノアの箱舟の出来事が書かれています。神さまは二度と洪水など起こして人間を滅ぼさないと約束された出来事でした。それに続いてバベルの塔の物語が記されているのには、きっと意図があるのです。人間の弱さについてです。特にたくさんの力を持っている権力者、人間の力に頼る人は神さまの「もう滅ぼさない」という約束を信じることができなかったのです。だから、「全地に散らされることのないようにしよう」と結束を固めたのです。
今日のテキスト1節には「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた」とありました。外国語が不得手な私には、当初羨ましかった記述です。世界中が初めから同じ言葉だったなら、英語やドイツ語なんかに学生時代あんなにも苦しめられることはなかったはず。気楽に世界を旅行もできたことでしょう。塔なんか作ろうとしたから天罰が下されたのだ、そんな風に受け止めていました。
でも事はそう単純ではないのです。塔建築を実際に取り組んだのは権力者ニムロドでした。もし天まで届くような高い塔を作ろうとしたら、大勢の民衆を使って建てねばなりません。そうでないとできません。そして速やかに命令を実行させようとしたら、あれこれ言葉があると不都合になります。だから統一するのです。言葉だけでなく、やり方も一つとします。「同じ言葉を使って、同じように話していた」というのはそのことを指しています。かつて日本が台湾や朝鮮を支配していた時も、日本語を強要し、日本方式を強制しました。そうして多くの人たちがとてつもない苦労を強いられました。それは戦争と言う名の「塔の建設」でした。
ですから、神さまが怒ってバベルの塔を壊されたのは、当然のことだったのです。権力者のもとで、苦役を強いられた多くの人々の人生をこそ神さまは目に留められ、深く憐れまれたのです。塔が壊されて、人々に自由が与えられました。解放されました。そしてたくさんの言葉が生まれました。
それは、強制されるのでなく、みんなそれぞれ自由に話して良い、自分の言葉を使って良い、思い思いに生きて良いという、神さまのみ心だったのだと信じます。9節に「主がそこで全地の言葉を混乱させ、また主がそこから彼らを全地に散らされた」とあります。そのバラルと言う言葉。混乱と訳してありますが、調べてみると「ごちゃまぜ」という意味があるのです。似ているようで、混乱とごちゃまぜは違います。
建物のことに限りません。権力者が何事かをたくらみ、現実化しよう、それを維持しようと計画する時、現代では法律で人々を縛ります。一つの生き方を上から強要しようとします。歴史はそんな例に満ちています。
私は釜ヶ崎公民権運動という組織で、リーダーを務めています。詳しく話す時間は、今日はありませんが、日本最大の日雇労働者の街、大阪の釜ヶ崎、そこに住むホームレムスも含めた日雇労働者の人たちの人権があらゆる方面から脅かされていて、何とかしたいと思っています。でも、関わりの当初はぎくしゃくしていました。彼らの言葉が理解できなかったからです。それは私の理解力の故でした。何か問題が起きて、行動しなければならないことが起きた時、私は、その状況をまずはよく調べてから、と言っていました。でも彼らは違うのです。一人の労働者が言いました。「あんな、兄ちゃん。足踏まれたら、即痛いって言わなならんのやで。声挙げな、わしら消されてしまうのやで。」それは、今を生きるという実存をかけた叫びでした。私は、彼らの言葉を全く知らなかったのです。
聖書は、私たちの現状とは違うことを示しています。例えば約束の聖霊が与えられた時、弟子たちが様々な言葉で語り出したと、使徒言行録に記されています。自分の言葉で語ろうということです。それはみんなそれぞれの人生があり、自由に生きて良いという証しの出来事でした。
私たちは、一人ひとり自由に生きて良い、そして違いを互いに覚えあおう、そんな思いを持って神さまは人々をバラル、ごちゃまぜにされたのです。違う言葉を使うからこそ、私たちはそれを聞こうと務めるのでしょう。単に外国語に耳を傾けるということではなく、別の生き方に聞こう、受け入れ合おうということだと思うのです。聖書にはこんなはるか昔から、多様性が良いのだ、大切なのだと記されていました。
ごちゃまぜは何も考えない無造作なバラバラを意味しません。違いをもった人間がお互いを尊重しあいながら、共に一つとされる、神さまによるブレンディング・コミュニティ、配慮に満ちた絶妙ブレンドなのだと信じます。教会はもちろんそれを証しする一つの場所です。来週、楽しいバザーにしましょう。
神さま、ありがとうございます。奴隷のくびきから解き放ち、自由を下さり、違う者への思いやりを示して下さいました。その思いを大切にしたいと思います。東神戸教会をそのような場所へ育てて下さい。