「茶番」とは?
本テキストも茶番の出来事。初めに死刑ありきの裁判だったが、そもそも資格のない裁判。にも関わらず、大祭司は意図的にイエスに不利な証言を集めた。手順としては合法性を持たせなければ、自分たちの正当性が問われるからだ。
ところが証言が実効性のないものだったので、大祭司は慌てた。自分こそは神の代理だと言いたかった。が、想定外の進行に思わず、「神の子か?」と被告(イエス)に問うてしまった。
しかし、それこそはイエスの待ち望んでいた質問だった。だからこそ、この時だけは沈黙を破り明確に返答したのだ。
神の代理ではなく、神に従う者として生涯を証し生きること、これがイエスのすべてだった。
翻って何と茶番に満ちた世だろうか。茶番の例は枚挙にいとまがない。
ヘブライ書6章にあるように、自ら雨を生み出せない土地は、天から雨を受ける他ない。それと同じく、私たちも神さまから救いと恵みを受けるしかない存在だ。その恵みの雨に打たれる時、私たちに慰めと癒しと希望が生じる。
<メッセージ全文>
皆さん、時に茶番とか茶番劇という言葉を使うことがあると思いますが、なぜ「茶番」というのか、その由来を御存じでしょうか?調べましたので、今日はチコちゃんの代わりにお教えしたいと思います。
茶番劇とは、江戸時代末期に歌舞伎から流行した「茶番狂言」に由来するのだそうです。下手くそな役者が手近な物を用いて滑稽な寸劇や話芸を演じるもののことだそうです。本来、茶番とは、その名の通り、お茶の用意や給仕をする者のことですが、楽屋でお茶の給仕をしていた大部屋の役者が、余興で茶菓子を使ってオチにしたので、茶番狂言と呼ばれるようになりました。その茶菓子をお客に無料で配っていたために、見物客の多くは劇ではなくて、配られる茶菓子を目当てに訪れたのです。そんなことで、底の見え透いた馬鹿馬鹿しい物事を「茶番劇」と言うようになったのだそうです。
さて、今朝与えられたテキストの出来事は、イエスの死刑が大祭司らによって確定された出来事ですけれど、それはまさしく茶番劇と言う他ない、底の見え透いた馬鹿馬鹿しい出来事でした。本来公的な事を、一部の人たちの視点だけで勝手に突き進められた出来事であったのです。ユダの裏切りによって予定通り、目論見通り捕えられたイエスでしたが、彼らはまず大祭司のところへイエスを連れて行きました。夜であったのにも関わらず、早速、祭司長・長老・律法学者らが招集されました。思いがけず集められたのではありません。この日を待ち望んで、ようやく実現し、胸を躍らせて彼らは集まったのです。
違う表現で言うなら出来レースでした。初めに有罪ありき、最初から刑は決められておりました。無論それは死刑です。ただし、本来死刑はローマの総督でなければ下せない決定でしたから、最高法院と言えどもその権利はなかったのです。実際このことのために、彼らはこの後、総督ピラトのところへイエスを搬送したのです。この裁判そのものが違法だった。ですから、初めから死刑が決められていたということ自体がナンセンスでもありました。
しかし、さすがに死刑となれば、最低限の筋を通さねばなりません。とりあえず定められた手順は最低限踏んだのだということを示して、自分たちの正当性を確保せねばなりませんでした。
そこで彼らは、イエスにとって意図的に不利な証言を求めたのです。実に打算的・計画的でした。思い余って殺人に至ったのでは決してない。もともと茶番劇です。初めから死刑であるなら審理など必要ありませんでした。密室会議で十分でした。
それでも、彼らは自らのやましさの故に、どうしても表面上合法的に事を進め、一般の人々に対して、一応の納得を行かせる形態を取ろうとしたのです。けれども、思いがけない誤算が生じました。というのは、不利な証言を導き出そうとして、そのどれもこれもがことごとく上手く行かなかったのです。仕方なく、更に数名の者が立ち上がって不利な証言を重ねようと試みましたが、それは証言でも何でもなく、イエスがあくまで比喩で語られたに過ぎない表現を、ことさら大げさに持ち出すだけの始末となりました。裁きとして何ら実効性を持つものではなかったのです。
悲しいかな、人間は権威になり代わる生き物です。君臨することは気持ちのいいことです。上が悪いと、下はほとんどその真似をします。戦時中、そのような事が頻発しました。末端に至るまで、天皇になり代わって振る舞う人間が続出したのです。俺の命令は天皇になり代わって下すものだ、権威を傘に着ているだけなのに、要はその本人が天皇そのものになってしまっているのでした。無論、その身勝手は下の人ほどおお迷惑です。なり代わることなど本来できないのに、いかにも正しくその権威を借りて振る舞うこと、これも一種の茶番だと言えます。
ともあれ、不利な証言を仕立てあげて、上手に死刑を宣告しようと画策した大祭司は、想定外の事態に慌てました。せめて被告たるイエス本人が自白でもすれば良かったのでしょうが、肝心のイエスはそれらの証言に対して一切口を開かなかったのです。焦った大祭司は、ついに本当は絶対口にしてはならない質問をしてしまいました。
「お前は、ほむべき方の子、メシアなのか?」この問いこそは、実は彼ら自身の本性でした。彼らこそ、神の子になり代わって言動していたのです。本来、自分たちこそが神に仕える者であり、もっとも神に近い存在、言わば「自分たちこそが神の代理なのである」と声を大にして主張したかったに違いないのです。死刑という極刑を宣告するためには、この宣言が一番必要な事でした。
ところが、この質問こそは、それまで口を閉ざしたままだったイエスこそが、ずっと待ち望んでいた質問でした。どのような流れになろうと、最終的には死刑が下されるだろうことは、イエスは予測していたことでしょう。でも、この問いかけがなされなかったなら、もしかしたら事態は違う方向へ動いたかもしれません。
イエスにとって、これまで歩んで来た人生のすべて、そしてこれから待ち構えているであろう未来の出来事に至るまで、自分はほむべき方の子、すなわち神の子として、神様から示された業について、人々の救い主として生きるという、その事を証しする生涯だけがイエスのすべてであったのです。それは神さまの代理としてなり代わるということとは全く次元の違う事でした。神になり代わるのではない、神に従う者として、明白で忠実な応答だけがあったのです。だからこそ、他のいかなる証言にも口を開かなかったイエスが、ここに至ってこの質問だけにははっきりと答えたのです。
しかしその宣言が、大祭司のかろうじて保って来た冷静さを奪い、怒り心頭を誘い、追い詰め、ついに他を顧みる余裕を無くさせました。彼は大仰にも自分の衣を引き裂きながら、それ以上の証言を打ち切りました。自分こそが神の代理なのだ、一番言いたかった事を被告に言われてしまったのです。イエスは代理なのではなく、従う者の宣言をしたにも関わらず、大祭司は自らのうちに潜む、通常隠しておかねばならなかった思いを皆の前で暴露されたようなものでした。これ以上無様な事態を招くことは、それこそ耐え難い屈辱です。もう見苦しい振る舞いは許されません。すなわち裁判のフリはお終りです。資格があろうがなかろうが、死刑と宣告する他ありませんでした。そしてそのような、よこしまでかりそめの権威を自分自身に与えたその途端に、上に習った者たちの狂気が始まりました。部下たちは皆同じ権威を身にまとい、合法的な暴力を堂々と振るったのです。半分は気持ち良く、そして半分は自分たちの偽りを振り払うためだったでしょう。
イエスの生涯におけるクライマックスの出来事は、もちろん十字架の出来事でした。けれども、命をかけてその十字架に至った原因が、この裁判で答えた事に集約されるのです。自分は神に従う者、その意味において油注がれた者、救い主であるという宣言、それをなす事。それがイエスにとって、命を懸ける事そのものよりもっと大事な事でした。見え透いた、馬鹿馬鹿しい茶番劇の対局に置かれた出来事でした。
この世には政治を筆頭に茶番劇があふれています。モリカケ学園事件の顛末は、みんな分かっています。北村慈郎先生の免職もでっち上げでした。一部の視点だけで決めることではなく、みんなの問題です。だからこそ、教会には教会が拠って立つ明快な論拠がなければならないと思っています。ヘブライ人への手紙6章に、「土地は、度々その上に降る雨を吸い込んで、耕す人々に役立つ農作物をもたらすなら、神の祝福を受けます。しかし、茨やあざみを生えさせると役に立たなくなり、やがて呪われ、ついには焼かれてしまいます」という言葉があります。
自分では雨を生み出すことのできない土地は、天から雨を受けるしかないのです。その事を忘れて思い上がり、おごり高ぶって、いただいた雨を別のものへの成長に用いるなら、空しい結末が待っているだけです。
私たちも同じです。私たちのうちには何もないのです。神さまからの救いと祝福は、受けるしかないものです。イエスがそれを命と引き換えに下さった。それもふさわしくないにも関わらず。勘違いして、自分が雨を降らす者になってはいないでしょうか?そこに喜びの実りがあるでしょうか?私たちは皆、上より雨をいただく者です。
雨って嬉しくないものの代表のようです。今日の台風のような雨に打たれたくはありません。でも時に打たれて心が優しく温かくなったり、目が覚めるような爽快感を与えられたりする雨もあるのです。そんな雨があります。神さまが下さる恵みの雨もそうです。その雨に打たれる時、ふさわしくないのに許され、用いられる、涙の慰めと癒しと希望が必ず生まれることでしょう。
天の神さま、あなたが下さる恵みの雨を受けたいと願います。どうか、み心のままに私たちを洗い清めて下さい。