「道を伝えるには」
牧師 横山順一

 先月、兵庫教区内の某教会から、朱色で「重要書類在中」と特記された郵便が届いた。
差し出しは教区負担金を十年来未納して来た教会だったから、開封するのに身構えてしまった。
結論から言えば、同教会が負担金を納入しない理由(言い訳?)を訴えたかったようだ。
二○三○年(十二年後)には、教団に属する教会員の三分の二が七十五歳以上になるという予測から、一刻も早く教区の社会派路線を伝道路線に転換すべし、これが同教会の主張である。
教区の社会派路線うんぬんはともかく、それが負担金未納の理由にはなり得ない。
だが、伝道路線重視は、現教団の方向性でもあるので、この際、私見を述べておきたい。

社会問題ばかりに関わって来たから教勢低下を招いて、教会存立の危機に瀕した、との分析は、余りに一面的過ぎると思っている。
一九九五年は、教団信徒の召天者数がはっきり総受洗者数を上回るようになった分岐点の年と言われる。確かに同年以降、ずっとその状態が続いている。
しかしこの年はオウム真理教の問題で世間が揺れた年だった。また阪神淡路大震災が起こった年でもあった。
オウムを始め、カルト宗教の尋常ではない行動や、想像を超える自然災害等を通して、多くの人々に宗教離れが起ったと思えてならない。この頃から「宗教は怖い」という声をよく聞くようになった。

戦後、多くの人が戦前までとは違う価値観を求めた一つの結果、キリスト教会が注目され隆盛した。
残念ながらその後右肩上がりの高度経済成長による復興が、人々の精神的渇望を忘れさせて行き、既成宗教離れが既に起こっていた末の、一九九五年だったのだ。
「伝道」には、どこかで上から目線の意識が付きまとう。だからこそ教会は「敷居が高い」と言われもして来たのだろう。

もちろん、教会の高齢化、人離れは大きな問題だし、私も牧師として無関心ではない。
けれど、そもそも日本全体が 少子・高齢化なのだ。どの職種においても人が足らず、後継者不足に苦しみ悩んでいる。
宗教界だって当然、同円心内にいる訳で、日本基督教団だけが「路線」を理由に人を減らしたのでは絶対にない。
社会と共に歩むなら、当然の現状である。そこだけ若者が集まるようなところは、むしろ無理をしていて怪しい気がする。

伝道路線転換を提案した教会の牧師は自ら「元老」牧師と名乗っている。元老とは、主に功績のあった政治家に対して使う言葉で、私にはそのような発想も選択肢もない。どうも感覚が違うようだ。
かつてのような「トラクト全戸配布」だとか「路傍伝道」だとかは、今は気味悪がられるだけだ。

伝道に魔法のような方法はない。ただ「つながり」からしか、伝わらないし、伝えられない。暗くならないで、つながって行こう。
それはみんなで少しずつ担うべき務めだ。理想を高く掲げ、実践は少々足らずともおおらかに!