川上盾牧師の歌に、「虹のやくそく」という作品がある。
2005年、大震災10年目の1月17日に神戸に出た虹を見て、苦しみや悔しさの後に与えられる祝福ややり直しのチャンスが与えられる、だから物語を始めようという歌だ。
 虹には古来不思議な魅力がある。旧約聖書に記される幾つかの神さまの契約の筆頭が、ノア契約。大洪水から、からくも生き残ったノアたちに「二度と滅ぼさない」という神さまからの契約が一方的になされる。そのしるしに「虹」が置かれ、それを見るたび心に留める、と自ら誓った約束だ。
 第41回教団総会は、一言で言って、やり直さない。違うものを受け入れないと表明した総会だった。本当に残念に思う。
 私たちは神に似せて作られたが、同じではない。違う。神さまはその違う者に契約をなさり、しるしの虹を置かれた。それは人間同士の違いをも取り結ぶかけはしではないか。「みんなちがって、
みんないい」(金子みすず)。
 人間と違って、神は「変わらない」存在だと思
われている。が、むしろ人間こそ変わらない頑な
さを持つ。神さまは愛する者を救うためなら、自
分を変えられる方。その最大の証しが一人子イエ
スだった。
 福音はユダヤ人を超えて、異邦人に広められた。違いが認められる、暖かい、光待つ場所を目指して歩みたい。

<メッセージ全文>
 数ある川上盾さん作詞作曲の歌の中に「虹の約束」という歌があります。2005年の作品です。これも讃美歌集では、この歌について、次のような紹介の文章を書かれています。
「阪神大震災からまる10年の2005年1月17日、神戸の空には大きな虹が出ていました。ノアの方舟の物語のように、苦難・試練の後に与えられた神さまの祝福のしるしのような思いで見つめていると、心が晴れやかになり、そして同時にあったかくなりました。虹が出たからと言って、苦しみの現実が取り去られる訳ではありませんが、それでも虹の輝きは人々に力を与えてくれるような気がしてなりません。そのときの何とも言えぬ感動を忘れたくない!との思いを込めて、この歌を作りました。」
 そうやねぇ、と思います。滅多に虹を見られないこともありますが、だから虹が出ると、思わず「あ、虹やわ」と口走ってしまいますし、知らない誰かにも「ほら、虹が出てるで」と声をかけたくなります。虹には魅力的な輝きが確かにありますね。
 さて、今日から教会歴一年の最後、契約節に入りました。旧約聖書には、幾つか神さまのなさった契約、約束の出来事が記されています。例えばアブラハムとの約束。或いはダビデとのヨナタンの予言を通しての約束。モーセがシナイ山で与えられた契約などなどです。それぞれ業界用語では、アブラハム契約、ダビデ契約、シナイ契約と呼ばれています。このうちシナイ契約は、イスラエルの民に守るべき戒めが与えられましたので、まぁ言わば相互契約という形ですが、後のものは、神さまが一方的に結ばれた契約です。契約節とは、これらの神さまの契約について覚え、感謝をささげる時なんです。
 で、今日は聖書において最初に記されている契約、これはノアに対して語られたのでノア契約と呼ばれていますが、このノア契約を心に留めたいと思います。これも一方的な契約の一つです。
 御存じのように、神さまは人間たちの乱れた生活をご覧になって、嘆かれ、滅ぼしてしまおうとされたのです。ただしノアの一家だけは除かれました。大きな船を造って、ノアの一家と、様々な動物のつがいを乗せるよう指示がありました。ノアは指示通りにしました。その直後大雨が降り続け、洪水となって地がすべて飲み込まれてしまうのです。しかし水が引いた後に、新しい大地が現れます。そしてノアとその子孫、および方舟から出たすべてのもの、地のすべてのものと神さまは一方的に契約を結ぶと宣言なさったのです。それが今朝のテキストの内容です。
 その契約とは、二度と洪水を起こして命を滅ぼすことはしない、という契約でした。神さまはそのしるしとして虹を置く、と言われたのです。その虹を見るたびに、自分が立てた契約を心に留める、と二度繰り返して語られています。これがノア物語のクライマックスと言えます。
 たとえ、このノア物語を知らない人であっても、虹は美しく、希望を与えられるものでしょう。不思議なことですが、このノア物語において、神さまは虹が出たら、私の契約を思い起こして欲しいと語られたのではありませんでした。神さまご自分がそれを見て、自分の立てた契約について心に留めると。しかもその契約は永遠の契約だと言われたのです。
 川上牧師は、苦しみや悔しさの後に与えられる祝福、やり直しのチャンス、それが虹のしるしだと歌いました。虹の何が希望を表し、そして祝福であり、やり直しのチャンスなのかと想像します。私は今日、それを違う人との、違うものとのかけはし、それが故に希望であり、祝福であり、やり直しのチャンスなのだと思っています。
 しかし先週行われた第41回教団総会は、一言で言って、やり直しのチャンスを放棄した、また違うものを受け入れないと改めて表明した総会でした。沖縄教区に関連する議案は、時間切れということで、またしても上程すらされず一括して審議未了廃案ということになりました。中にはこの態度に失望して、九州教区のように自ら議案を取り下げたところまで出ました。が、そもそも冒頭の議事日程承認の際に、少しでも議案を取り上げて欲しいという要望に対して、初めから無理、廃案も致し方ないと議長は答えました。今回は常議員選挙の結果さえ発表されないままに閉会となりましたが、半数連記で投票して欲しいという議案に、今の常議員では多様性を表していないというのは失礼で、許せないという発言がありました。はっきり言いますが、表していなかったのです。同じ考えを持った人たちだけの一団となっていました。だからこそ違う意見が見えないし、聞こえなくなっていました。とても残念に思います。ただし、今回ちょっと希望が見えました。副議長選挙、常議員選挙の結果に変化が現れました。次へつながるつながりを神さまは残して下さったと思っています。
 さあ、思い起こせば神さまが私たちを神さまに似せて作られました。しかし、あくまで似せられただけであって、人間は神さまではありませんでした。同じではない、違う存在として造られたのです。誕生の初めから、私たち人間と神さまとの間には「違い」がありました。
 その違いとは何でしょうか?しばしば私たちは誤解します。神さまは「変わらない」方であり、人間は変わる存在だと。例えば人間は朝思うことが、夕方には変わってしまう、朝令暮改という言葉がある通りです。それに比べ、神さまは絶対に思われたこと、決められたことを変えたりはしない絶対の存在であると。
 それは一部当たっておりますが、他方著しく外れているのです。人間こそが変わらないのです。自分が正しいとなれば、どんなに他者が訴えても違う意見を聞こうとはしません。頑なに自分を守る、変わらない頑迷さを抱いているのです。
 しかし神さまは、人を救うためであれば、自分を変えられる存在です。いったんは人間の乱れた生活をみて滅ぼそうとされたのに、止めた、しかも二度とそんなことをしないと自分で決められたのです。
 そんな決定的な「違い」があるにも関わらず、神さまは進んで一方的に契約を結ばれ、約束された、そのしるしが虹でした。私はこの虹は、違う者である神さまと人間とのかけはしであると同時に、人間同士のうちにも置かれてある「違い」を結ぶかけはしなのだと信じています。
 金子みすずさんの詞に、有名な「わたしと小鳥とすずと」というものがあります。皆さんご存知でしょう。
 「私が両手をひろげても、お空はちっとも飛べないが、
  飛べる小鳥は私のように じべたを早くは走れない。
  私が体をゆすっても きれいな音は出ないけど、
  あの鳴るすずは私のように たくさんの歌は知らないよ。
  鈴と、小鳥と、それからわたし
  みんな違って、みんないい。」
 神さまの一方的な救いの約束は、最終的に一人子イエスの生涯によって、ただイスラエルの民だけではなく、あまねく異邦人にも結ばれて行きました。違いを超え、違いを取り結んで広められたのです。そこに魂が、心が温まる場所が生まれて行きました。かけられた虹の行き先は、光が待つ場所となりました。
 猿も木から落ちる、と言います。それは不注意だからです。落ちるはずがないと自負している者ですら、時に過信したり、思わぬうっかりミスで失敗する。でも神さまは違うのです。愛する者のためなら、自ら落ちる。変えられるのです。
 違う存在の間に立てられた神さまの契約。それは私たち違う人同士の間にも立てられたものではないでしょうか?みんな違って、みんないい。このことが言える暖かい場所、光待つ場所をともどもに目指そうではありませんか!

天の神さま、私たちも虹を見る時、あなたが立てられた契約を心に留めたいと思います。それは違うものを結ぶかけはしでした。やり直しのチャンスが与えられておりました。違いが認められるところに、私たちを導いて下さい。