「言いつけ魔」は、自分の立ち位置や役割がまだ分かっていない人だ。
 モーセは神さまから「イスラエルの人々のリーダーとなり、エジプトから脱出する」よう命じられた。が、「自分は何者でしょう?」と反論した。要は、拒否した。即座に弟子となったペトロたちと大違いだ。
 確かに己の限界もあっただろう。だが、小塩節先生の文章から、エジプトに留まる方がずっと良いという損得算段がきっとあったと推測する。当然ではある。
そんなこの世的・人間的判断を神さまは怒られなかった。そうではなく彼に語られたのは「私は必ずあなたと共にいる」という約束だった。自分は「ある」という者だ、とも。これはヤコブにかけられた言葉とも同じである。
 今日一日を生き抜くことが、明日への力に繋がる。未来のために、私たちはお金や財産を貯めて備える。が、神さまは「必ず共にいる私」を覚えなさいと示された。それこそが未来へのサポートなのだ。サポートの原意は「心の奥底に(神の思い)を運び込む」こと。パスカルは、イエスの奥義として、不実で、薄情なあなたに代わって私は死んだ、と書いた。神さまが必ず共にいて下さることの恵みに感謝したい。

<メッセージ全文>
 或る雑誌で、小学生の頃、「言いつけ魔」みたいな子がクラスに一人はいたようなぁ、という文章を読みました。
 B君が校庭の隅の(A君の場所)で仲間たちとサッカーをやり、「内緒だぞ」と言っていたのを聞きつけるや、A君のところにすっ飛んでいって「B君がキミの陣地で勝手にサッカーやって、Aにはナイショだと言っていたぞ」と言いつける。
 それを聞いてA君が「Bはこの頃ちょっと生意気だな」と漏らすと、今度はB君のところに行って「Aがキミのこと生意気だ、ぶっ飛ばすと言ってたぞ」と言いつける。
 そして、両方が険悪になって絶交状態になると、今度は先生に「A君とB君がケンカしてます」と言いつけに行く。頭に来て問いただすと「ボクは嘘はついてない。真実を伝えただけ」と言い張る。
 こういう子です。言われてみれば、いたような気がします。多分、自分の立ち位置や役割が分かっていない人なんだろうと思うんです。もっとも、最近はこういう「言いつけ魔」はチクリと呼ばれて嫌われるので、姿を消したかもしれません。その分もしかしたら、言いつけ魔が減ったので、大人になっても自分の立ち位置や役割が見えていない人が増えた、そして隠れてネットで偽りの情報を元にした中傷に化けているのでしょうか?それはさておき。
 今朝のテキストの箇所は、小見出しに「モーセの召命」とありますように、モーセが神さまからイスラエルの民のリーダーとなって、エジプトから脱出するよう命じられた箇所でした。
 読んでお分かりになったと思いますが、モーセはこの命令をすぐには引き受けることができませんでした。よく知られていることですが、この時、モーセは不思議な光景を見たというのです。この時もともと彼は羊を追ってホレブという山まで来たのですが、柴が燃えている光景を見るのです。柴は大変燃えやすい木ですが、燃えているのに燃え尽きない不思議な光景だったのです。その光景の中で、神さまから声がかけられたというのです。
 しかし、そんな不思議な光景、すなわち神さまの力で起こされた光景を目の当たりにしたにも関わらず、モーセは躊躇して返答しました。11節「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか?」。
 私たちはこのモーセの躊躇が分かる気がします。いきなりリーダーとしてエジプトを脱出せよなど言われても困りますよ。でもその一方で、ガリラヤ湖で漁師をしていたペトロたちが、どこの誰とも知れないイエスと出会い、「人間を取る漁師にしよう」と言葉をかけられて、即座に従った時の場面と比べてしまうのです。ペトロたちの潔さを思うと、モーセでさえ躊躇したのかと疑問を抱くし、同情もするのです。モーセはこの後の展開を読むと、相当しつこく逡巡し、何度も神さまに不平を漏らしていますが、無理もない気がします。
 小塩節先生がイスラエルを訪れた時の、次のような文章を書かれています。
「砂漠への脱出を敢行した、一人の聖書の人物が、灰色の大地をバックに瞼に浮かんだ。西暦前13世紀に同胞を引き連れてエジプトから脱出したモーセである。彼は当時では世界最高の文明国に生きて、そこで最高の教育を受け、高官の地位を約束されていた。もとのところに残っていれば安全なのに、同胞を率いてそこから命がけで抜け出し、真のふるさとを尋ねて砂漠をさまよい歩いた。そして約束の地を前にして自分はそこに足を踏み入れることなく倒れた。しかし飢餓や不安と闘いながらの放浪の途上、半島南端のシナイ山で彼が受けたという十戒は、ヘブライの宗教を形成したばかりではない。いわば自然と神に対する人間の歴史に決定的な刻印を押したといっていい。」
 これを読むと、モーセの偉大さを思うと共に、改めて、ここでモーセが躊躇したのは当たり前だったと思います。「私は何者でしょう」と言う神さまへの反論の言葉から、モーセは自分の立ち位置が分かっていないかのような印象を持ちます。が、そうではなく、彼はよく分かっていたのです。分かっていたからこそ、自分には負うことができない、到底無理だと判断したのです。それは至極当然のことでした。
 しかしもちろんそれは人間の判断によってです。神さまの要求に応えられない自分の限界を自覚した、ということことは当然あったでしょう。しかしそれだけはなかったはずです。小塩先生が書かれたように、神さまの命令に従うとすれば、世界最高の文明国に生きていたのに、そこを捨てなければならないのです。良い教育を受け、高い地位が約束されていたのに、それも諦めなければなりませんでした。またそこにとどまれば安全な生活も続けられるのに、かえって命がけの生活を選ばないといけなかったのです。誰がどう考えても不利益なことです。躊躇し、反論した理由には、そのようなこの世的判断、算段が大きく占められておりました。
 ところが、このモーセの人間的、この世的判断に対して、神さまは怒られませんでした。想定内のものとして聞かれたからなのでしょうか。それならば、例えば、もし不利益が生じるなら、その分を充填しよう、埋め合わせを保証するとでも言えば良かったと想像します。私たちの考えなら、躊躇している人間の意志を覆そうとするなら、最大限の譲歩をする訳です。目いっぱいボーナスつけるから。最高に条件の良い家をプレゼントするから。神さまならせめて、「困った時は、必ず私が何とかするから」とでも言って欲しい場面でした。まぁ、最終的には魔法の杖を授ける訳ですが。
 ともかく、神さまはそのような人間的な要求に直ちに応える方ではありませんでした。
従えないとするモーセに向かって語られた言葉は、12節にあるように「私は必ずあなたと共にいる」というものでした。
 誰の名によってリーダ―となるのかとイスラエルの人々に問われたら、どう答えれば良いのか?というモーセの問いに対しても、「わたしはある。私はあるという者」だと答えなさいと語ったのです。
 私は年に何回かは、祝祷の前の派遣の言葉として「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、私はあなたを守る。私は決して見捨てない」という言葉を用いています。これはヤコブに語られた神さまの言葉です。
 15節を読むと、「あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた」とイスラエルの人々に伝えなさい」と命じられています。イスラエルにおいて、神さまとは、「ある」という意味であり、彼らの祖先、アブラハム、イサク、ヤコブから離れず、共にいて守り導かれた神であったのです。「私はあなたに好意を示し、あなたを名指しで選んだ」という言葉も、モーセに対して繰り返し使われます。私が選んだのだから、あなたと共にいる。私は、あるのだ、と神さまは言われる方なのです。
 私たちは未来を迎えようとして、お金を蓄えますし、財産を備えます。保険にも入ります。それはこの世的には必要なものでしょう。しかし、聖書において、神さまは未来を迎えるために、「私は必ずあなたと共にいる」という言葉をただ繰り返し語られたのです。今日一日を生き抜くことが、明日への力につながると語った人がいます。今日一日を生きると言うより、モーセはこの世の現在の持ち物に固執しかけておりました。そのモーセに今日一日を生き抜くために忘れてはならないこと、すなわち神さまが共にいて下さることだと伝えたのです。これこそが未来へのサポートでした。
 ちなみにこの英語のサポートと言う単語。通常支えるという意味です。でも元はラテン語のサブという単語とポートという単語から出来ました。サブとは下と言う意味です。それが転じて心の奥底という意味となりました。ポートは港という意味で、転じて運び込むという意味となりました。ですからサポートとは、そもそも心の奥底に運び込むという意味合いなのです。いったい何を運び込むのか?私は共にいると語られる神の思いに他なりません。
 パスカルというフランスの思想家が「イエスの奥義」という文章を残しています。
「イエスの奥義―。私は、最後の苦悶の中でも、あなたの事を考えていた。あなたのために、こんなにも血を流した。私は、ほかのどんな人よりももっと親しいあなたの友だ。私はあなたのために、ほかの誰よりも多くのことをした。ほかの人は、私があなたのことで苦しんでいたほどには苦しまないだろうし、あなたが不実で、薄情である時に、あなたに代わって死のうとはしないだろう。
 けれども、私は死んだ。そして、これからも死ぬつもりであるし、また、今も死につつある。私の選んだ者たちにおいて、また、聖なる秘跡において。」
 いいや、神さまなら、救い主なら困った時に具体的に助けて欲しい、と私たちは願うものです。確かにそれは大きな願いです。けれども、パスカルが言うように、私たちは不実で、薄情さを抱えた者でもあるのです。そのような者の傍らにも共にたち、必ずいると神さまは語られ、その一人子は命をささげました。実のところ、いつも共におられる、ということがどんなに凄いことで、重いことでしょうか?黙って、共にいて下さる神さまに心から感謝をささげます。
 

天の神さま、私たちの不実にも拘らず、あなたは常に共にいて下さいます。その思いをあなたは私たちの心の奥底に運び込んで支えられるのです。ありがとうございます。このあり得ない恵みを心に留めて歩みます。どうぞ、後押しして下さい。