「受け入れるしかない」事実が、頑なさのために認められない例に満ちている。地動説がカトリックで認められたのは、1992年のことだった。
ペトロが異邦人に洗礼を授けたこと、彼らと食事したことがエルサレム教会から大問題視された。異邦人は救いの枠に入っていなかったからだ。
これに対し、ペトロは堂々と反論した。彼の脳裏にあったのは、すべて師であるイエスの言動だったろう。
見捨てて逃げた自分に復活の姿を現され、食事の準備すらしてくれた師だった。救いに限定などあろうはずはない。それは神さまがなさる業である。
奈良・朱雀高校ラグビー部の山本清吾監督。京都一の悪と言われた彼と出会い、ただ向き合い続けたのが、京都・伏見工業高校のラグビー部監督・山口良治先生だった。その出会いと導きによって、彼は他者へ向かう者とされた。自分(人間)を超える力があるのだ。
義理人情は大事。ただ信仰は、義理人情を超える広がりの力があることを示す。自分だけではない、「他者」「皆」を気づかせる。私たちの人生は、それを教えてくれる救い主による。

<メッセージ全文>
カトリックの悪口を言うつもりではありませんが、カトリック教会が地動説を正式に認めたのは1992年のことでした。まだ生まれていない人もいるでしょうけど、ほんとについこの間ですよ。ガリレオが亡くなってから359年も経っていました。どうなん?って思います。ついでに言うとカトリックは未だ同性愛を認めていません。認めない背景に、それなりの理由はあることでしょう。でもそもそも「認める」も「認めない」もないことです。それは受け入れるしかないことです。

図書館戦争という映画がありました。書物をはじめとしてあらゆる情報を制限しようとする権力に向かって、図書館隊が立ち上がるという、ある意味とっぴな映画でした。でも、自分だけを主張すると、そして権力が絡むとそうなります。自分の主張と合わないという理由で、日本キリスト教団出版局から発行された或る本の不買運動が起こったのも、大昔の話ではありません。これまたつい最近のことでした。プロテスタントも同じです。頑なさが受け入れを拒否するのです。

さて今朝読んだテキストは、まさしくこのことが示された出来事が描かれていました。12弟子の一人ペトロがカイサリアの町で異邦人の家に入り、彼らに洗礼を授けたのです。その情報を得たエルサレムの教会は、それは大問題だとしてペトロから事情を聴取することにしたのです。

何が大問題だったのでしょうか?エルサレムの教会にとっては、神さまの救いはまずもってユダヤ人のためにあるものだと信じられていました。ですから、異邦人はその対象からはずされていました。その異邦人に洗礼を授けるということも問題ですが、割礼を受けていない者の家に入って、食事を共にしたという事が、この時問われたのです。それは彼らにとって断固「許されない」事でした。つまり彼らには、救いは「限定」されるものだった。ペトロの行為は断じて受け入れられないものでした。

この糾弾に対して、ペトロは自分に与えられた幻、そして起こった出来事について堂々と報告をなしました。聖霊が、最初自分たちの上に降ったように、彼らの上にも降ったのだと、語ったのです。それは人間の理解、領域を超えることでした。

ペトロ自身、かつては12弟子のうちで一番自分が偉いものだと自負し、我こそはいずれ主の右に座るべき存在と自認していた人物でした。言わば、イエスの弟子とされながら人間の力を第一として、それにのみより頼って生きた代表のような存在でした。

イエスが生前、再三に渡って罪人とされていた人たちと食事を共になさった事を彼は或いは良い気持ちで受け取ってはいなかったかもしれません。しかしイエスの十字架の出来事を通して、自分こそ主(あるじ)をはりつけに送った、罪人の最たる者である事を身に沁みて知らされました。

思い起こせば、失意のうちにガリラヤに戻ったペトロたちの前にイエスは復活の姿を現され、彼らに食事の用意をされたのでした。裏切りにも関わらず赦されて、弟子として福音宣教のために用いられて行ったのです。救いは限定されるどころか、神によって全く自由に与えられるものでした。そうして今やイエスに倣って彼自身が罪人と食事を共にするよう変えられたのです。エルサレム教会から糾弾を受けながら、ペトロの脳裏には歩んで来た一連の出来事が駆け巡っていたろうと想像します。

16節にこうあります。「その時、私は「ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける」と言っておられた主の言葉を思い出しました」、そう告白しています。つまり神さまがなす業の中に、自分もそして隣人も生かされているのだということです。水による洗礼は、それを受ける個人の決断が必要とされます。でも聖霊による洗礼とは、個人の思いをはるかに超えて、神さまの思いが一方的に表される出来事であるのです。

伝道の日々に入り、一つ一つの出来事を通して、ペトロたちはイエスの言葉と行動を思い出しながら、それがすべて真実であった一事を味わって行ったことでした。自分ではなく、自分に先立って働かれる力に委ねること、それが今のペトロの言動の源となっていました。

今日のテキストの箇所について、或る牧師が書かれた文章があります。
「聖霊は、神は、人間の決めつけた枠に縛られない。きまじめな人間の築き上げた隔ての枠を、聖霊の風は軽やかに乗り越え、吹き過ぎて行く。人間のつたない認識は、それを後から追いかけて行くほかないのだ。」
本当にそうだと思います。

ペトロははっきり言いました。「こうして、主イエス・キリストを信じるようになった私たちに与えて下さったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、私のような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか」と。

まさしく、神さまの業が先に行われるのです。私たちはそれを後から追いかけてなんとか教えられ、知らされる存在であるのです。

先週、高校ラグビーの奈良県準決勝が行われました。朱雀高校と天理高校は7対105で、天理の圧勝に終わりました。号泣する朱雀高校の部員に対して、山本清吾監督が「胸を張れ」と言葉をかけます。その模様がビデオに撮られて山本監督の育ての親である山口良治監督に届けられるのですが、見た途端、山口監督がぽろぽろ涙を流すのでした。

そうです。この山口監督こそは、かつて伏見工業高校ラグビー部を率いた、泣き虫監督で知られる名監督です。後にテレビドラマ「スクール・ウォーズ」のモデルになった、有名な実話が、この山口監督と山本清吾監督の物語にあります。「弥栄の清吾」と呼ばれ、中学時代から酒・たばこ・博打に溺れて京都一の悪と恐れられた彼が伏見工業に入学します。誰もが引いて関わらない中、山口監督は毎日彼を迎えに行き、朝ごはんを食べさせ、ラグビー部で鍛えるのです。試合となれば、いつもおにぎりを用意しました。山本さんは父子家庭で昼ご飯の準備ができなかったからです。

初めから上手く行った訳ではありません。相当反抗しました。しかし諦めず自分に向き合い続ける山口監督の姿にいつしか心が変えられて行きました。頑なさが壊されて行くのです。自分のことしか考えなかった山本さんでしたが、この監督のために生きようと思うようになり、「同じ悪を助ける奴になれ」、そう言われて、猛勉強して教師になるのです。そして今、かつての恩師と同じように、ラグビーを教えています。山口監督が流した涙は、ただ自分との関わりだけの回想によるのでは、きっとないでしょう。自分を超えて後へつなげられていることへの涙だったに違いありません。

実話はやはりドラマとは違います。カッコいいシーンは滅多にありません。心震えるBGMもかかりません。生身の生きざまのぶつけ合いだけです。そこにただの人間業ではない、何かの力が働くのでしょう。もし、ペトロの堂々した反論を、イエスが聞いたとしたら、イエスはどう反応したでしょうか?にっこり笑ったかもしれません。でも私は山口監督のように涙を流したに違いないと思っています。

私たち、義理と人情と信仰が大切です。この世を生きる者として義理人情を欠いてはなりません。私は浪花節が嫌いではありません。ただ信仰は義理人情に先行するものがあることを示すのです。往々にして個人間の恩情を歌うのが浪花節です。でも信仰は更に次の広がり、つながりを生み出して行くのです。ペトロの報告を聞いた人々は静まったとあります。そして「神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えて下さったのだ」そう言って、神を賛美したとあります。先行する神さまの業を知った時、「自分」だけではない事に気づかされるのです。私たちの人生は、何はともあれ、救い主によります。

天の神さま、人間の営みを越えて働かれる聖霊の力に感謝します。この先行する救い主の業に委ねる時、少しずつ世界は変って行くのでしょう。どうぞ、恐れずたがわず、あなたの導きのままに聞いて行くことができますように。