日本で最大の日雇労働者の街・大阪釜ヶ崎。そこにある某居酒屋のママさんは良い人だけど、ち
ょっと変わっている。でも彼女と店を通してたくさんのことを教わって来た。

 本日のテキストで著者は「あなたがたは招かれて一つの体とされたのです」(15節)と述べ、そのために「主の愛を身につけること」「キリストの平和が心を支配すること」が必要だと言う。

 真の関係の在り方がここに示されている。相手のすべてを知ることは難しい。が、純粋に愛することは、「へだたりを受け入れることであり、愛するものとのあいだの距離を愛すること」、とS・ヴェイユは述べた。

 テーブルの外から「おいしい?」と尋ねるのではなく、共に座り、食べ、話をし、「おいしいね」と言うことが「同じ釜の飯」である。食事するとともに、一緒に空気を吸うのだ。それはまさにイエスが生前行い続けたことだ。神さまという名の、一つの大きな屋根の下で暮らす私たち。経済などの力関係ではなく、純粋に愛し合う関係を目指したい。「主の愛を身につけること」「キリストの平和が心を支配すること」を得たいと願う。

<メッセージ全文>

私は「釜ヶ崎公民権運動」という組織でリーダーを務めています。大阪の西成区に通称「釜ヶ崎」と呼ばれている日本で最大の日雇労働者の町があります。環状線の「新今宮」で降りるとすぐです。日雇労働というのは、その名の通りで、一日幾らという日ごとの給料で、月に何日とか何週間とかの約束で雇ってもらって、主に建設現場などで働く人たちです。

会社で正社員で働く人たちではありません。コンビニなどでアルバイトをする人たちでもありません。色々な事情でそこに流れ集まって来た人たちが、生きるために体を張って稼ぐのです。で、だいたいドヤと呼ばれる一泊1300円から3000円くらいまでの安い宿に泊まって働いています。部屋は3畳くらいの広さです。

彼らが働く条件は、しばしば悪いのです。安い給料から更に弁当代だとか保険代とか言って雇い主から天引きされて、手元には少しのお金しか残らないことは珍しくありません。病気になっても、なかなか病院にもかかれません。そんなこんなで、つらい目に遭っている人がたくさんいます。その人たちの人権を守る、人権を訴えるのが釜ヶ崎公民権運動の目的です。

委員会とか集会とか、見回りとかで月に私は数回釜ヶ崎に行っています。委員会が終わると、みんなで行きつけの居酒屋Hでご飯を食べたり、ちょっと飲んだりします。決してきれいとは言えない店です。10人も入ればいっぱいの小さな店です。

そこのママさんのOさんは、とても気さくで良い人ですが、お店をやっている人からすると、ちょっと変わっています。例えば、冷ややっこのような簡単な料理だとまぁさっと出してくれるのですが、ほんの少しでも手の込んだ料理、と言ってもせいぜい焼きそばだとかそんなもんですよ。ともかくそれを注文しようものなら、たちまち笑顔は消え失せ、不機嫌になるのです。時には「え~、そんなん頼むん?」と露骨な不満を口にします。普通、少しでも儲けたいなら、値段の高い、手の込んだ料理の注文が入るほうが良いじゃないですか。でも、そうじゃないんです。

一応、居酒屋なのでカラオケセットがあります。ママさんはどんな人でも歌わせます。時に少々というか、相当はずれる人がいて、他のお客さんから「下手くそ!帰れ!」とかいうきついヤジが飛びます。すすとママさんは血相を変えて、そのヤジを飛ばした人に「あんたが帰れ!」と詰め寄るのです。「何やて?」酔っ払いですから、もめることもある訳ですが、「ここはな、私の店やからな、客は私が選ぶねん!」と負けてはいません。

ママさんが料理を作りたがらないのは、お客さんとおしゃべりしたいからなんです。話を聞き、一緒に笑い、一緒に泣く、抱えた思いや問題を共にする、それがママさんが一番したいことなのです。だから一見お酒に見えるけど、実は水の入ったコップを片手に、しょっちゅうテーブルに座っているのです。
さて今日読んだパウロの名前で書かれたコロサイの信徒への手紙。今日のテキスト15節で、著者は「あなたがたは招かれて一つの体とされたのです」と述べています。そして。一つの体となる関係が説かれていました。

 一つの体となるために「主の愛を身につけること」「キリストの平和が心を支配すること」が必要だと著者は言うのです。私は、釜ヶ崎に出入りするようになって、居酒屋Hを知らされて、釜ヶ崎の色んな人と出会って来ました。名前も知らない人たちとも、一緒に飲んだり歌ったり、踊ったりです。Hのママさんの在り方から、色んな事情を抱えている人の心に土足でずかずか入ってはいけないこと、でも喜んでいる時には一緒に喜び、泣いている時には一緒に泣く。泣けなくても黙って聞く。そんなルールを教わりました。それは私にとって「主の愛を身につけること」であり「キリストの平和が心を支配すること」でした。

もちろん、どんなに慣れて、少々親しくなったとして、私は釜ヶ崎の住人ではありませんし、日雇の労働者が抱えていることのすべてを分かっているのではありません。むしろほんの少ししか知りません。でもシモーヌ・ヴェイユという人が「純粋に愛すること。それはへだたりを受け入れることである。自分自身と自分の愛するものとのあいだの距離をこよなく愛することである」と書いていますから。だから、知らない分、そのへだたりを受け入れて、大事にしたいと思っています。

時どきどこかの偉い人が、例えば老人ホームとか何かの施設を訪問して、食事をしている入居者たちに「おいしいですか?」とか尋ねるシーンがニュースで流れます。でも、同じ釜の飯を食うとは、そういうことじゃないんです。テーブルの外から「おいしい?」って聞くのじゃなくて、その同じテーブルに一緒に座って、一緒に食べて、一緒にお話しして、「おいしいね!」って言えること、それが「同じ釜の飯」です。一緒のご飯を食べるとは、一緒の空気を吸うっていうことです。私はそれを釜ヶ崎で学びました。でもイエスこそは、それを生前あちこちで行い続けた人でした。

 さあ、私たちは普段それぞれに小さな家の屋根の下で生きています。そのそれぞれの屋根の下に暮らす者は確かに家族であり、仲間であることでしょう。でも、その小さな屋根の上には、神さまという名の大きな屋根があるのです。その大きな屋根の下には、自分の知らない人や親しくない人、全然環境の違う人たちが生きています。その大きな屋根の下で、出会わされた人たちと互いのへだたりを受け入れあい、あいだの距離を愛したいと思います。そうやって同じ釜の飯を食い、同じ空気を吸うのです。自分の力だけでそれはなかなかできませんから、私たち、イエスの愛を身につけ、救い主の平和が心を支配するよう、祈り求めて行きましょう。

神さま、どうぞ私たちを大きく包んで下さい。そして心を開き、私たちも誰かを包む人にして下さい。