有名なチャップリンの「モダンタイムス」。戦前の映画だが、経済の中で、人間の尊厳が失われ、機械の一部となった世の中を風刺している。日本の現状はどうか?
 テキストは「いちじくの木」のたとえ。21章5節からの出来事の一部。神殿の豪華さに見とれていた人々に、イエスは自ら声をかけた。
 表面のことだけに惑わされてはならないと伝えたかったのだ。だが、逆に「しるし」を求められた。イエスは、「戦いや地震など見える出来事が起こる。が、それは終わりではない」、と答え
た。それらから、「解放の時、神の国の到来の近さを悟れ」、と。
 豪華なものだけでなく、貧しいものを見ても、心揺れる私たち。いちじくの枝や葉の変化は見え
る一部のものに過ぎない。それでも、そこから夏を感じる。すなわち、心の目で全体を見よ、とイ
エスは示したのだ。
 「交わりを作る一人になる」と書かれた文章に賛同する。私たちはキリストの体の一部だ(パウロ)。人の正義は、神さまの正義によって初めて取り結ばれる。
 私たちは小さくても、大切な神さまのいちパーツ。平和の交わりを作る者として用いられたい。

<メッセージ全文>

 喜劇王チャールズ・チャップリンの代表作の一つに「モダン・タイムス」という映画があります。御存じの方も多いことでしょう。過熱する資本主義経済の中で、人間の尊厳が失われ、まるで機械の一部になってしまったかのような世の中を風刺した映画です。

 1936年、戦前に撮られた映画ですが、私がこの映画の事を知ったのは、確か中学生の頃だったと記憶しています。1970年過ぎのことです。ちょうど大阪万博があり、まさに高度経済成長まっただ中、でもあちらこちらにほころびが出て来て、日本の各地で公害が叫ばれた時代だったと思い返します。
当時、労働争議の報道などで、俺たちは、会社の歯車じゃないんだ、生きてる人間なんだ、というようなセリフをよく聞きました。だからこそ、チャップリンが工場の歯車に巻き込まれて、ぐるぐる回って行く有名なシーンは、衝撃的でした。

それから半世紀近くが過ぎました。公害は相当に軽減されました。労働条件も制度的には随分改善されました。けれどまだまだ多くの職業で課題が山積しています。足りない労働力を外国人で補おうともされています。現実の問題が幾つもありますが、再び行われるオリンピックやら大阪万博やらの目先のお祭りで、恐らくかき消されてしまうのでしょう。

さて、今朝のテキスト、「いちじくの木」のたとえと小見出しがつけられています。よく知られたイエスのたとえ話の一つです。短いのでもう一度読んで見ます。

「それから、イエスはたとえを話された。いちじくの木やほかのすべての木を見なさい。葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」

このたとえは、マルコ・マタイ両福音書にも記されていますが、この二つでは、「枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる、ともう少し詳しい言葉になっています。ルカでは、いちじくだけでなく、ほかのすべての木をみなさい、とありますが、マルコ・マタイでははっきりいちじくだけです。いちじくはイスラエルにおいては、夏の到来を感じる最も代表的な木だそうです。
で、それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りない、とイエスは続けるのです。では、これらのこととは一体何でしょうか?

それについてはこの21章の最初5節からの記述を読まねばなりません。そこを読むと、そもそも、このイエスのたとえ話が、神殿において語られたことが分かります。エルサレムの神殿で、そこが見事な石と奉納物で飾られていることを話し合っている人々がいたのです。エルサレムの神殿と言わず、様々な宗教の本殿はたいがい豪華にきらびやかに作られているものですね。

 それは本来、神殿のなくてはならない基本のものとは全く無関係です。神さまが望まれたものではなく、人間の思いによって必要以上に飾られたものに過ぎません。だからイエスは、「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」と、どんな立派に見える石にも終わりの時が来るのだと話したのです。ちょっと分かりづらい言葉ですが、岩波書店版の聖書では、「あなたがたが眺めているこれらのものについて言うが、崩されずに他の石の上に残される石は一つたりともない日々がやがて来ようとしている」と訳されています。これは彼らの会話を聞いて、イエスが自分から声をかけた言葉でした。多分黙ってはおれなかったからでしょう。

 彼らは石の豪華さや美しさに見とれていたのです。或いは奉納物の細工の見事さにも驚いていたことでしょう。そして恐らくは、それに加えて、金額的な事も口にしたのではないでしょうか。「めちゃ高そうやね」。「なんぼしたんやろ?」こういう出来事自体は、珍しくはありません。多くの人にとって普通の反応かもしれません。私も言います。

 しかし、表面だけを捉えて、全体を捉えようとしないこと、一番大事な事を見忘れて、外見に、この世的な価値観に惑わされてしまうこと、イエスはこのことに黙っておれなかった、我慢ならなかったのだと思うのです。なぜなら、その輝きに隠され、影に隅に押しやられてゆく存在があったからです。チャップリンの映画のように、命あるのに人間としてではなく、物のように、機械の部品のように・・・。

 そうすると、彼らは「それでは、その終わりの日はいつ起こるのか、それが起こる時はどんなしるしがあるのか?」と逆に質問して来たのです。たった今イエスは「表面的な事より、大事なことがあるのだ」という思いで声をかけたのに、彼らはかえってますます「見える」ことに関心を深めたのでした。それでもこれ悲しいかな、よくあることかもしれません。

 そこでイエスは、戦争や暴動や飢饉、疫病、地震などの天変地異が起こるが、それは、世の終わりではないと話しました。戦争にせよ、暴動や、飢饉や疫病、そして地震や豪雨などの自然災害、これらはどれをとっても見えることです。また、現実に起これば、地獄のような大変な苦しみが与えられます。まさしくこの世の終わりかと思うような事態に襲われます。でもイエスはたとえ見えることではあっても、それが世の終わりのしるしだとは言わなかったのです。むしろ、それらが起こったとしても、すべての終わりではないのだ、と。それどころか逆に、それは解放の時が近づくことであり、神の国が近づいていることなのだ、そう悟りなさい、と語ったのです。これを直接聞いた人たちはどう受け取ったでしょうか。

 目の前で起こる悲惨な事態は、確かに人を絶望に突き落とすものです。豪華なものだけでなく、私たちは粗末なものを見ても、心を動かされます。日本のレベルから見て何となく貧しそうに見える。気の毒だ、と同情するのです。確かに見える部分だけで判断を下してしまいがちです。ものがないことは困ることもあるでしょうけど、それだけが幸せ、幸福の判断基準にはならないはずです。でもぱっとしない物を見れば、それだけで幸せではないと思い込んでしまう。

 でもイエスはそうではない、と断じたのです。枝が柔らかくなり、葉が伸び始めるいちじくの変化。それ自体はいちじくという木の、植物の一部の見える変化に過ぎません。しかしその感触、新緑のまぶしさは、いちじくのみならず、地上に生きるすべてのものに夏の到来を広く示すものです。その命全体を感じなさい、イエスはそう示したのです。

 ある教会の信徒がこんな文章を書かれていました。

「現代の慌ただしい社会の中で、教会生活においても、私たちはお互いに愛を表現する機会が乏しくなっています。相手に愛を感じるほど向き合う時間もなく、足りない愛を主に求める意思を働かせる余裕もなく、そもそも他者に興味すら持てない魂の貧困さが私たちの現状ではないでしょうか。自分が疲れた時には深く優しい交わりを求めて教会を裁くのに、自分が生き抜いていると思える時には、交わりを求めて倒れている人が面倒くさくて、脇道を選んでしまう私たちです。」

 なかなかに厳しい、しかし当たっている指摘と言えます。でもこの文章には「交わりを作る一人になる」という題がつけられていて、後にこう続くのです。「私たちは自分のすべてをその人に与えることはできません。しかしいのちの一部である時間を分かち合うことで、キリストの愛を共に味わうことができるのです」。

 パウロもかつて言いました。「多くの部分があっても、一つの体であるように、」「あなたがたはキリストの体であり、一人一人はその部分です」と。それぞれの持ち場にしか目を向けず、意識がそこにしかないと、どんな正義であってもただの自己中心となります。もちろん、私たちにはそれぞれの正義や立場を持っています。しかし、そのすべてが神さまの正義によって、取り結ばれているのです。全体を見るということは、そのことに気付くこと、感じることなのでしょう。

 私たちは、小さくても、全体を作り上げる一人であり、大切ないちパーツです。近年よく言われます。私たちは微力であって無力ではない。本当そうなんです。歯車の一つ、部品ではありません。先々週、大正めぐみ教会の就任式に行って来ました。「どんなに好きでもたこやきだけじゃ駄目なんだ。牛乳も卵もお肉も野菜もあって初めてたこやきなんだ」と大阪教区議長は語りました。教会員はみんな、ひとりびとりが教会の主役だと言われたのです。笑いましたが、おっしゃる通りです。
真の解放の時、神の国の到来が与えられるまでは、この時代は決して滅びない。たとえ天と地が過ぎゆくとしても、神の言葉は滅びない、過ぎゆかないとイエス自身が語りました。栄養ドリンクより100倍元気が出る言葉です。リポ〇タン飲んで無理に元気をもくるより、神さまが大事にして下さるいちパーツとして、全体のための小さな働きをたんたんと担いたい、そう思うのです。ファイト、いちパーツ!

天の神さま、与えられた恵みに感謝しながら、アドヴェントに入りました。あなたの一人子を救い主としていただく備えの時です。私たちをあなたの平和の交わりを作る者として、大いにお用い下さい。