スマホがない時代。京都のオモニ・ハッキョに集ったオモニたち。彼女らには大変な人生を共に歩む心の響き合いがあった。それが生き抜く力となった。
 高齢による出産の予告を、にわかに信じれられなかったザカリア・エリサベト夫妻と違い、マリ
アは不信仰や疑いや拒否・否定の言葉を何ら発さず、「私は主のはしため。お言葉通り、この身に
なりますように」との驚くべき返答をなした。 
 はしためとは奴隷。当時、たくさんいた悲しみの奴隷たちの姿をマリアはよく見つめていたの
か。そして、彼らへの心の響きを持って、人生を捨てず、生き抜くために即答で引き受けたのか。
この瞬間に救い主の誕生が決定した。
 生きるひたむきさを思う。「生きるとは不平等に耐えること」と谷昌恒さんは述べた。市場経済ばかりの価値観が、そのひたむきさを奪い蔑ろにしている。
マリアのような返答は私たちにできない。けれど、その返答こそは神さまからの私たちへの、特に苦しむ者への連帯のしるし。
生まれる前からの心の響き、それがクリスマスの出来事である。自分を卑下してはいけない。私たちは神さまに愛されているのだ。

<メッセージ全文>
 私はスマホを持っていますが、ほとんど使わない古い人間です。最近の新聞の特集で、子育て中のお母さんたち、中でも一人で頑張っているいわゆるシングルマザーたちが、どうしようもなく困ったり、疲れたりする時、スマホでつながって対策を講じたり、励ましてもらっているという記事を読みました。彼女たちの生活の中心にスマホがある訳で、こういう使われ方、結ばれ方があるのだと知らされました。

 母親一人、女性一人に相当の負担が強いられて育児ノイローゼになったり、それをどこにも相談できなくて行き詰ってしまったり、そんな事情をスマホがすべて解決する訳ではありませんが、せめても救いの一つとして用いられているのでした。

 それを読んで、スマホどころか携帯もなかった学生時代のことを思い出しました。神学生の時代、京都でオモニ・ハッキョ、お母さん学校に関わりました。在日韓国・朝鮮人のお母さんたちに日本語を教える学校です。たくさんのオモニたちと出会いました。どの方も、日本語の読み書きができないで、本当に大変な苦労をされ、懸命な生活を続けられ、ようやくほんの少しのゆとりが出た老後になって読み書きを学びに来られた方ばかりでした。

 勉強の合間に少しずつ伺うそれまでの生活のしんどさ、大変さ、とりわけ戦前から戦後の頃の話しは、想像外のものばかりでした。ところが、その大変な話しの中に、オモニたちの必死さを知り、強さを教えられたのでした。或いはそれは、生きようとする意志の強さと言っていいかもしれません。

 生きようとする意志、必死さ、ひたむきさ、真面目さ、そういうものが戦後経済発展を続ける中で奪われ失われて行ったように思います。失われたと言うより、一部では真面目に生きることが馬鹿にされました。そして一部では、各自頑張ることは当前のこととされたのです。自己責任という言葉がそれをよく象徴しています。
オモニたちには、自分だけでなく、共々必死に生きる仲間に対する深い心の響き合いがありました。生活も人生もみんな大変。それだからこそ、集まってわいわいやりながら、何とかくじけることなく、歌を歌いながら、踊りを踊りながら、前だけを見て歩むことができたのです。スマホがない時代の力でした。

 さて、クリスマス礼拝の今日、マリアに天使から子どもが生まれるというお告げがなされた箇所がテキストに与えられました。
 先週、マリアの親戚に当たるエリサベトに、やはり子どもが与えられるお告げが天使からあったという、一つ前の段落を読みました。夫のザカリアともども、既に高齢だったので、天使のお告げをにわかに信じることができなかったことが記されていました。

 今日の箇所では、天使ガブリエルの最初の挨拶に、マリアは戸惑い、考え込んだと29節にありました。それは信じられないという思いではなく、意図が読めないという意味の戸惑いであって、無理もない反応でした。

 その後、男の子が生まれること、その子をイエスと名づけるようにとのお勧めがあり、彼は偉大な人となるという予告がなされました。これに対してマリアは「どうして、そんなことがありえましょうか。」という返答をしました。しかしこれもまた、男性を知らないというところから来る当たり前の疑問であって、拒否や否定ではなかったのです。

 そして最後に、親類のエリサベトが高齢で、不妊と呼ばれていたのに子どもが与えられて既に6か月となっていることが、告げられると、これに対するマリアの返事は本当に驚くべきものでした。

 まず、「私は主のはしためです。」と答えたのです。はしためとは、要は奴隷ということです。私たちは、奴隷と言う言葉を知識的には知っています。かつて奴隷制度があったことを学んでいますし、現在においては、お金の奴隷などという表現で用いたりします。けれども、一応、この社会に制度としての奴隷はいません。身近ではない言葉です。

 一方、マリアの時代には奴隷が普通にいたのです。生まれた時から買われる奴隷。借金などのために途中から買われる奴隷。金持ちに使われる奴隷、ローマに使われる奴隷、祭司長宅にすら仕える奴隷がおりました。誰にせよ、彼らは決して幸せではなかったでしょう。自ら奴隷となった者などいません。悲しみを抱えた不幸な奴隷が、社会のあちこちにいたのです。理不尽そのものでした。その姿を忘れず、しっかり見ていたからこそ、はしためという言葉がマリアの口から出たのでしょうか。まさにスマホなどない時代の生き方を思います。

 しかし、まだ結婚適齢期より若いとされるマリアでした。天使のお告げを、不信仰からではなく、現実の問題として拒否することはできたのです。或いは、このお告げに相当のショックを受け、苦悩しながら否定することもあり得たのです。婚約中だったマリアです。結婚前の、しかも婚約者ではないところの妊娠という事態が、どんなひどい非難中傷を招くか分かり切っておりました。人によっては絶望のあまり身を投げるということさえ、十分に予想できる事態だったのです。

 けれどもマリアは言葉を続けました。「お言葉通り、この身に成りますように」と。
これこそ衝撃の言葉です。奇跡の言葉とも言えます。この驚くべき事態を、天使のお告げ通り、そのまま受け入れるという返答をなしたのは、どういう力が働いたのでしょうか。これから自分の身に起こることは、それこそ耐え難い困難の連続なのです。実際そうなりました。にも関わらず、マリアは「お言葉通り」にそれを受け入れました。彼女が見つめた奴隷たちの多くは、どんなにつらくても逃げることのできない人々でした。耐えかねて、もし自死したりするなら、残された愛する家族に一層の悲惨が待ち受けていたのです。マリアはもしかしたらこのことも承知していたのでしょうか。天使のお言葉の通りに展開するその先の、この世を生き抜くために、そうしたのでしょうか。生きるために、人生を放棄しませんでした。そしてこの決断が、少なくともイエスの命を助けたのです。

 私は人生の不条理を感じるたびに、谷昌恒さんの言葉を思い起こします。北海道家庭学校の校長として、生きるに多くの課題を負った子どもたちと相対しました。もちろん社会的な不平等、構造的な不公平は是正してゆかねばなりません。みんなで変えて行かねばなりません。そのことを分かった上で、
「世の中は不公平で、不平等に出来上がっているのです。世の中に生きて行くということは、その不平等に耐えて行くことだと私は思っています。

 不公平とか不平等とか言いますが、ただ一つの事実は、人間は一人ひとり違うという事だと思うのです。一人ひとり違うことに対して、何らかの尺度をもって計るから、背が高いとか低いとか、美人とか不美人とか言うにすぎないのです。

 生きるということは不平等に耐えることだと言うと、何やら非常な主張のように受け取られるかも知れません。しかし、不平等に耐えるということは、実は人間は一人ひとり違うのだという事実を素直に受け入れることなのです。私たちの生きる覚悟は、その時に定まるのです。生きる励みも、その時に生まれるのです。違うことが大事なのです。」こう谷さんは書かれました。

 マリアの返答を通して、神さまの奴隷として、どんなことがあっても生きようとする彼女の意志、ひたむきさを感じます。本当はどうにかしなければならない事でしたが、当時どうしようもない。不平等に耐えつつ、生きるしかない。そういう社会のあちこちに自分を捨てて生きていた多くの奴隷たちへの心の響きを感じます。この響きがあって、この響きのうちに、救い主の誕生が決定しました。

 恐らくはマリアだけが特別この響きに敏感だったのではないかもしれません。彼女にこの心の響きを与え育てたものがきっとありました。本当はその芽は私たちにも実はあるのです。でも合理化追求ばかり、経済優先、自己責任の元での弱者の切り捨て、こうしたことの繰り返しが、ひたむきに生きる意思を奪い、正しさが見失わされてしまいました。

 人生は、良いことばかりではありません。悪いことだけでもありません。良いことと悪いことが織りなされ合わさって、人生となります。しかしこれは、そのように心が響き合える相手、仲間がいて初めてそう思えるようになるのです。

 マリアの決断が、特別彼女が信仰的に立派だったとか、よく熟慮した末のものだったとか、そういうことではないのです。聖書の記述からは彼女はむしろ即断で返答しています。そしてそれは、苦しんでいる人たちに対する連帯の思いを含んだ、諦めからではない、生きぬくための即答でした。それを言わしめたのは、神さまの業によるのです。マリア自身の、人間の、自分の力によるのではないのです。

 私は主のはしためです。お言葉通り、この身に成りますように。この奇跡のような返答を私たちは到底なすことはできないでしょう。しかし、この返答は、様々なこの世の出来事を通して迷い、右往左往し呻吟している、まるで奴隷のような私たちへの、神さまからの連帯のしるしでもあるのです。
クリスマス、すなわち救い主の誕生は、こうして生まれる前からマリアを通して、その初めから人間に対する連帯、中でも苦しんでいる人、つらい人、悲しんでいる人たちへの強烈な連帯、心の響きに満ちて刻まれたのです。ですから私たち、自分の人生、自分の命を卑下してはなりません。あなたを愛していると語られる神さまがいて下さいます。神さまの思いを想像しつつ、申し上げます。「君は私が自分のこと好きなんて一生気づかないのはダメだよ。」

天の神さま、クリスマスは、私たちの、あなたの心に響感する日として、神さまが下さいました。ありがとうございます。私たちの前に私たちに響感されるあなたがおられました。あなたの招きに応え、私たちも友の心に響く交わりを作って行けますよう、お導き下さい。