故ネルソン・マンデラ南アフリカ元大統領。数多くの業績の中に、同国ラグビーチームを融和によって一致団結させた出来事がある。「インビクタス」という映画でも紹介された。
東方の占星術の学者たちの物語は、イエスの誕生に際して欠かせない不思議な物語だ。と言うのも、星を信じて旅に出ることは現実として相当無謀なことだったから。
一方、王が呼び集めた祭司長や律法学者たち。彼らは豊富なユダヤ教の知識を持って「真の王」の所在を知っていた。
東方の学者たちの来訪は、王(権力者)の恐れと怒りを招いた。だが、本来、それを信仰をもって止めるべきは、祭司長や律法学者たちの務めではなかったか。
暴君は怖い存在だろうが、恐れのあまり黙って見ているだけでは、結局認めたのと同じである。彼らの障害は、自分自身の心のうちにあった。
ハードルとは「障害物」のこと。簡単には取り除くことが難しい。それは乗り越えるしかないのだ。私たちの心のうちにあるハードルを思う。主の助けによってそれを乗り越えよ。クリスマスの物語がそう呼びかける。

 

【メッセージ全文】

<インビクタス>
今年のラグビー大学選手権、予選の段階で早々と同志社は消えてしまいました。でもトップリーグ神戸製鋼が久しぶりに全日本で優勝しました。大変うれしゅうございます。

さて「インビクタス」という、ラグビー映画がありました。2009年のアメリカ映画で、1995年南アフリカで開催されたラグビーワールドカップが舞台です。(「ブルームフォンテーンの悪夢」と呼ばれる、日本がニュージーランドオールブラックスに145対17、ワールドカップ史上最多失点で大敗したシーンが出て来る悲しい映画でもあります。)

この大会の前、南アフリカの代表チームであるスプリングボクスは、金と緑を基調としたチームカラーで、ユニフォームも当然その色でした。しかしそれはアパルトヘイト時代の象徴の色だから、変更しようとの提案が出されたのです。ついでにチーム名も変えようということで、協議会では全員一致でいったん決定しました。当時30名の選手中、一人しか黒人選手がいなかったスプリングボクスにとって或る意味それは、当然の成り行きでした。

けれども、その時に若い頃ラガーマンだったネルソン・マンデラ大統領が反対したのです。「今まで自分たち黒人は、白人たちに脅かされ続けて来た。けれど今我々は、白人たちを協力する寛容の心で迎えようではないか」、そう語ったのです。このスピーチは黒人たちはもちろん白人たちをも大いに感動させました。そして変更案はボツとなったのでした。

変更など到底無理と思われることがたくさんあります。多くの場合、それは現実でしょう。ですからしばしばこの世的妥協を図ることになります。でもこの時マンデラ大統領は、敢えて飲み込む策を取ってチームの一丸を図ることに成功したのです。敢えて言えば乗り越えた。そしてスプリングボクスは優勝しました。インビクタスとはラテン語で「屈服しない者たち」という意味だそうです。

 

<権力者の不安>
今年も25日、クリスマスを迎えました。クリスマスの降誕劇では、羊飼いと東方の博士はセットで演じられますが、東方の博士たちがやって来た公現日が1月6日と教会暦では規定されているので、本当かどうか知りませんけど、今日12月30日は彼らはイスラエルに向かってまだまだ旅の途上であるということになります。イエスが生まれたことを知ってから、えっちらおっちらラクダの旅を続けていたのであろうとすれば、当然ですね。

ページェントに欠かせない話であると同時に、これはイエス誕生にまつわる数少ない貴重な出来事として毎年覚えたい出来事でもあります。それは現代の私たちには何度考えても思いがけない不思議な出来事であるからです。
たとえ占星術という学問が非常に優れたものであるとしても、それを信じてはるばる外国へ旅立つということは普通は考えられないのです。と言うのは、旅をするということが、当時は今のように気軽ではなかったからです。途中病気になるかもしれません。嵐に襲われるかもしれません。もっと怖いのは、獣や強盗に襲われることです。これだけの行程を何日かければ確実に到着する、そんな計算が当たり前にはできない時代なのです。

しかも、彼らの行動は現存するイスラエルの王の不信と怒りを買いました。暴君でつとに知られたヘロデ王でした。エルサレムに到着するや「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と何の気兼ねもなく尋ねたのですから、怒りを買ったのは当たり前のことでした。それが権力の狂気を招く結果ともなりました。ベツレヘム辺り一体の2歳以下の男の子の虐殺命令という、ヘロデ王の大暴走を引き起こした訳です。(ただし史実ではありませんが)。

もしかしたら、彼らが外国人でなかったなら、ここまでの事は起こらなかったのかもしれません。彼らが異邦人、外国人であったこと、それも占星術の学者という身分であったこと、それが権力者の恐れを呼び覚ますことになったのでしょう。以前「デモは本質的にテロだ」と言った国会議員がおりました。自らの地位の安寧に最も関心があるのは、昔から同じ権力者の常です。

 

<イエスマンが煽る>
そして、一番怖いのは、実は権力者の恐れを倍化させた周囲の者たちの態度にありました。例え暴君の王であれ、否、そうであればこそ、本来周囲がそれをせめても引きとどめる力になってしかるべきだったでしょう。でも往々にしてイエスマンになってしまうのです。

当時もそうなったのです。ユダヤ人の王の誕生を、信仰の違う東方の異邦人の学者だけがたまたま知ったのではなかったのです。「王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした」と4節にあります。祭司長たちや律法学者たち。当時の社会で最も信仰について熟知していたエリートです。皆とは、すべてという意味です。彼らを王はすべて一同に集めたという。

それで彼らが王に答えて言うには、「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決して一番小さい者ではない。お前から指導者が現われ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。」
祭司長や律法学者は、この6節の言葉、これは旧約聖書のミカ書5章1節の言葉ということになっています。それをたちどころに持ち出して、イスラエルの真の王の誕生する場所を王に返答したのでした。しかし実はこれは意図的な言い換えでした。少なくとも私はそう推察しています。本来間違えるはずはない優秀な彼らでした。

原文ミカ書においてはベツレヘムは、「ユダの氏族の中でいと小さき者」と書かれているのです。一番小さい者ではなく、大変小さい者で、そこから救い主が出るというのがミカの預言です。それを「決して一番小さな者ではない」と、変えて伝えたのです。撤退を転進だとか、墜落を不時着だとかごまかすのと同じです。しかもそれが王の怒りにつながったのです。イスラエルの指導者が生まれるのだから、一番小さな者ではない、という正反対になるのなら当たり前でした。王の気持ちを汲んでそう仕組んだのです。

ここにイエス誕生物語における東方の博士たちの来訪の最も重い、そして深い意味が現されています。東方の学者たちは、ユダヤ教に関心があったのではありません。ただただ占星術を通して与えられたユダヤの新しい王に関心を抱き、喜びのうちに思い切ってやって来たのです。

それに比べて、肝心のイスラエルでは、王を取り巻く多数の祭司長や律法学者らがおり、誕生の場所までユダヤ教の豊かな知識をもって知っていたのに、そこには正しく王に注進する者は一人もいなかったのです。外国人の学者たちだったから王の怒りを招いたのかもしれないと言いました。しかし本来の仕事をせず、主人の顔色だけを窺う祭司長や律法学者たちが王の怒りを更に煽ったと言っても良いでしょう。

王にとっては、本来は名もない庶民の家族に子どもが一人与えられただけの出来事に過ぎないはずでした。祭司長や律法学者が根拠にしたミカの本来の預言には、神の思いが図らずも示されておりました。そこにはこう書かれています。「その力は地の果てに及ぶ。彼こそ、まさしく平和である。」

ミカ書には、ベツレヘムから生まれ出ずる救い主が、平和の主であり、それは世界に広まるという預言がなされていたのです。この世的な力・人間が望む力ではないことがそこに記されていました。賢い部下ならそれを上手に伝えることもできたのではないかと想像します。でもできなかった、というよりしなかった。

 

<恐れを乗り越えよう>
異邦人の学者たちに、新しいユダヤの王へのどんな関心があったか明らかではありません。にも関わらず彼らははるばるやって来た。その星を見て喜びにあふれた、と書かれている、喜び―それだけが彼らの行動の源でした。それは敢えて言えば神の導きと言うべきものだったと思います。そうしてミカ書の預言の通り、いと小さきところに与えられた神の一人子を、「平和」のしるしとして、しかと見ることができたのです。

豊富な知識がありながら、結局それをただの知識としてでしか用いなかったし、権力の前でゴマすりにしか使わなかった祭司長や律法学者たちの姿との差異を思わずにはおれません。彼らをその場に押しとどめたもの、つまづきとなったものは一体何だったのでしょうか?暴君でしょうか?もちろんそれはあったでしょう。確かに権力者、とりわけ暴走する権力者は怖いものです。でも暴君を超える方の存在を知りつつ、ただ怯えて黙っているだけでは、結局認めたことに等しいのです。彼らのつまづきは実は彼らの心にあったというべきでした。彼らの心にある、恐れというハードルが自ら高く設定されていたからでしょう。

ハードルとは、英語で障がい物のことを意味します。それは簡単に取り除くことができないことが多いものです。心の障がい物は、これは一層完全に取り除くことが難しいのです。それは取り除くのではなく、乗り越えるものなのかもしれません。かつてイエスは「あながたは神と富に兼ね仕えることはできない」と語りました。神の助けによって私たちの心の中のハードルを乗り越えよ。クリスマスの物語はそう呼びかけています。

 

天の神さま、改めてクリスマスをありがとうございます。どうぞ主の降誕の喜びのうちに、新しい年への希望の備えをなす一人一人でありますように。あなたの真理を教えて
下さいますように。