広島の小学校1年生のK君が書いた忘れ得ぬ作文を紹介します。題して「ぼくとお父さんのおべんとうばこ」。

 「おとうさんが病気で亡くなってから3年、ぼくは小学1年生になりました。
お父さんに報告があります。きっと見てくれていると思うけど、僕はお父さんのお弁当箱を借りました。

 僕は昨日の事を思い出すたびに胸がドキドキします。僕のお弁当箱と箸が当たって、素敵な音が聞こえました。きのうのお弁当は特別でした。まだ10時だと言うのに、お弁当のことばかり考えてしまいました。

 なぜきのうのお弁当が特別かというと、それはお父さんのお弁当箱を初めて使ったからです。お父さんがいなくなって、僕はとてもさみしくて、悲しかったです。

 お父さんのお仕事はてんぷらやさんでした。お父さんの揚げたてんぷらは世界一おいしかったです。僕が食べにゆくと、いつもこっそり、僕だけにボクの大好きなエビのてんぷらをたくさん揚げてくれました。そんな時、僕は何だか僕だけが特別な気がして、とてもうれしかったです。あれからたくさん食べて、空手もがんばっているので、今まで使っていたお弁当箱では足りなくなってきました。

 「大きいお弁当にして欲しい。」と僕が言うと、お母さんが戸棚の中から、お父さんがいつも仕事の時に持って行っていたお弁当箱を出してきてくれました。「ちょっとゆう君には大きすぎるけど、食べれるかな?」と言いました。

 でも僕はお父さんのお弁当箱を使わせてもらうことになったのです。そして、朝から待ちに待ったお弁当の時間。僕は全部食べることができました。食べたら、何だかお父さんみたいに、強くて優しい人になれた気がして、お父さんに会いたくなりました。

 今思い出してもドキドキするくらい、うれしくておいしい特別なお弁当でした。

 もし神さまにお願いできるなら、もう一度お父さんとお母さんと僕といもうとみんなで暮らしたいです。でもお父さんは、いつも空の上から僕たちを見守ってくれています。

 お父さんがいなくて、さみしいけれど、僕は家族の中で一人の男の子だから、お父さんの代わりに、お母さんと妹を守ってゆきます。お父さんのお弁当箱でしっかりご飯を食べて、もっともっと強くて、優しい男の子になります。

 お父さん、お弁当箱を貸してくれて、ありがとうございました。」

 読んでいると、ちょっと涙が出て来るんですが、K君のお父さんは、心臓発作で27歳の若さで亡くなってしまったのです。

 さて、2019年最初の主日礼拝の今日、与えられたテキストは、クリスマス物語の最後、シメオンに与えられた出来事でした。22節に、「モーセの律法に定められた清めの期間が過ぎた時」とは、そこに彼らとはありますが、これは本来、当時の女性に関して設けられた規定で、男子を出産した40日後を指します。この規定に従って、ヨセフ・マリア夫妻は、幼子イエスを連れ、日本風に言えばお宮参りのために、エルサレムの神殿にやって来たのでした。

 そこにシメオンがやって来たのです。シメオンとは、ヘブライ語発音で、ギリシャ語発音で言えばシモンとなります。シモン・ペトロの、あのシモンです。これは「聞く」という言葉が語源の名前です。

 このシメオンがいかなる人物であったか、よく分かりません。25節に、「エルサレムにシメオンという人がいた」、とあるだけです。しかしそのあと、「この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた」、と続けられています。ヨハネほど有名ではないとしても、恐らくは預言者の一人として生きていた人だろうと思われます。

 何歳だったのかについても書かれていませんが、26節に「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」、と記されていることと、シメオン自身が語った賛美の言葉とから想像されるのは、相当の高齢であったろうということです。

 この老預言者シメオンが聖霊に導かれ、神殿にやって来たのです。そしてイエスを発見する訳です。ヨセフ・マリア夫妻が、規定の捧げものをしようとしているところへやって来て、イエスを抱き上げ、神さまへの賛美をなしたのです。

 29節から32節、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせて下さいます。私はこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えて下さった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」

 これがシメオンの賛歌と呼ばれる有名な賛美です。一体、何年の間シメオンは、神さまが遣わすメシアを待ち望んで来たのでしょうか。そこへこの日やって来たのは、霊に導かれてやって来た訳で、この日までは自分の家で、或いはエルサレムの町のあちこちで、或いはまたこの神殿でさえ、与えられるメシアは一体どういう方であるかを、あれこれと期待し、思いを巡らせて来たに違いありません。

 シメオンがその期待の中で、どのようなメシアを想像して来たか、それは分かりません。普通この世的に人が期待し想像するメシア像は、やっぱり賢くないよりは賢い人がいいでしょうし、見栄えのさっぱりしない人より締まった人の方が望まれるでしょう。それが、40日過ぎたとは言え、まだまだ生まれたばかりの赤ちゃんだとは予想もしなかったのではないでしょうか。全く思わぬ姿のメシアが与えられた訳です。

 一番初めにイエスの誕生に駆け付けたのは羊飼いたちでした。次にやって来たのは東方の占星術の博士たちでした。彼らは異邦人でしたから、博士たちがイエスを拝んだ日が、初めて異邦人に姿を現された日ということで、公現日と呼ばれます。そして更に約一か月後、シメオンが神殿でイエスと会うのです。この3者に共通するのは、救い主が赤ちゃんであったことに何も驚かず、かえって大いに喜び、ありのまま受け入れ、かつ賛美をささげたことでした。しかもシメオンに至っては、ついに主が遣わされたメシアは、異邦人を照らす啓示の光だ、と賛美するほどの出会いだったのです。ただイスラエルの民を救うメシアなのではなく、異邦人を照らす啓示の光、それ故にイスラエルの誉れである、と。

 こんなことがどうして起こったのか、こういう思考がいかにして直ちに与えられたのか、それもまたよく分かりません。ただ3者は、救い主が赤ちゃんであっても、嘆いたり失望せず、喜んで賛美しました。またその赤ちゃんは異邦人を照らすメシアだとシメオンは口にしたのです。
それはきっと、ずっと抱き続けてきた自分の予想が打ち砕かれ、全く新しいメシアを与えられた不思議な喜びであったからでしょう。期待はずれなら失望しますが、自分の考えもしなかった存在を与えられたから、予想外だったから、文字通り望外の喜びに包まれたのです。だからこそ、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせて下さいます」と口を切ったのです。それは、もう死んでもいいという余りの喜びの叫びでした。自分の努力で目標を達成したのではありません。人の思いを超えて与えられた、予想外のメシアに、心を満たされたのです。ですから彼は幼子を腕に抱き、神を讃えてこの叫び、すなわち喜びの決意表明を上げたのです。腕とは、原文では複数形ですから、両腕でイエスを抱いて叫びを挙げた、その姿がこの望外の喜びにあふれたシメオンの思いをよく表しています。

 賛美とは、神さまへの思いを言葉のカタチに表すことだと言えます。思いをカタチにすると言うと、お歳暮とかお中元とか、何か実際の品々で表現することを思い浮かべます。それもあっていいでしょう。けれども、シメオンが待ち続けたイエスを両腕で抱き、もういつ死んでもいいと叫んだように、心の思いを言葉の形に表すことも、それもまた含まれるのです。シメオンの賛美は、後は主に託して、これで安心して去ることができるという喜びの決意表明でした。

 もう一つ文章を紹介します。東灘の九条の会の会報にとても楽しい投稿が載せられていました。「二層式洗濯機のススメ」という題がつけられていました。

 我が家は数年前、全自動洗濯機から二層式洗濯機に切り替えました。宿泊された方々のシーツなど、大量に洗濯ものがあるときは断然、二層式のほうが早いです。

 洗濯機は2階のベランダに据え付けられています。なので、洗濯時には、必ずベランダに出ます。すると、すぐ近くの公園の様子が目に入ったり、前の道路を通っている人やゴミ出しをしている人が見えたり・・・。

 その時間に娘が、公園にいる友だちを見つけて「○○ちゃ~ん、遊ぼう!」と公園にまで届く声で呼びかけ、その子がそのまま家に来たり、ということもあります。

 2階のベランダが壁ならば(うちは柵になっているので、よく見えます)、こうはならなかっただろうし、全自動洗濯機を使っていても、そうだろうな、と思っています。

 全自動から二層式へ、と戻っただけで、これだけ社会との接点が増えるもんだなあ、と二層式の恩恵を感じながら、日々洗濯です。冬は本当に寒いし、冷たいのですが。(冬にわざわざ屋外で、冷たい水を触らなアカンというのも、人生経験としていいな、と思っています。辛いですが・・。「家族を拓く」一歩として二層式洗濯機、お勧めします。

―以上の文章です。この冬、外で洗濯しているSさん、著者を想像します。寒そうです。でも何だか暖かいのです。
最初に紹介したK君の作文も、またこの二層式洗濯機のお勧めも、キリスト教的に言うならば、これは賛美なのです。命の賛美、人生の賛美・・・。K君はお弁当箱を通してお父さんへの感謝を伝えました。Sさんはわざわざ手間暇のかかる洗濯機を選びました。お弁当の話も手作業ですが、Sさんも洗濯機、オートマチックではなくマニュアルを選んだのです。ところがその手作業から見えてくる新しい発見が幾つもありました。まさに人生への賛美でした。

 2019年、私たちも信仰の思いをカタチにしながら歩みましょう。具体的な表現も、そして賛美も、ともども喜びの決意表明として。そしてそれは横着をするのでなくて、ちょっと手作業で。きっと新発見が与えられると信じて。

天の神さま、新しい年をありがとうございます。この年も主の年です。私たち、あなたへの賛美と感謝の思いを、それぞれに手作業でカタチに表しながら歩んで参ります。どうぞ、一人一人を後押しして下さい。