「聖しこの夜」であって、「清しこの夜」ではない。大きな間違い。
WHO東南アジア事務所で、長年ハンセン病予防担当の医務官として働き、世界の医療に貢献したスマナ・バルアさん(バブさん)。彼は過酷な体験をなし、苦学して医者となり、「これからはカキクではなく、ケコ。ケは健康、コは志」と勧める。人と人はお互い様とも語る内容に頷かされる。
 イエスはヨハネより、ヨルダン川で洗礼を受けたが、それは汚れを清めるためではなく、それまでの自分を切るためであった。人々と同じ地平に立つ決意表明でもあった。そこにバブさんの語る内容を、宗教を超えて見る思いがする。
 私たちは自分の汚れを清めたいと願うが、自分の力ではできない。私たちにとってすべてはイエスの十字架と復活の業によるのだろう。
 私たちがキリスト者として生きて行くに必要なのは、何か立派な業をなすことより、偏にイエスの裏打ちだ。
汚れを清めるのではなく、神さまのみ心を思うこと、それがイエスを身にまとうということ。既に私たちにまとわれている主の思いを汲み取りたい。

【メッセージ全文】
 以前、ちょっと気になった事が一つありました。それは、クリスマス関係のテレビなどを見ていて、「聖しこの夜」の曲が流れている時、曲の紹介で「清しこの夜」とテロップが流れたものがあったんです。

 英語で言うと、ホーリーナイト、です。清い夜ではなくて、やっぱり聖なる夜なんですよね。清いとすると、それは汚れのないという意味になってしまいます。その意味でも悪くはないと思いますが、聖なる夜は、汚れがないと言う意味ではない訳です。

 今日は最初に、バングラデシュの人で、スマナ・バルアさんを紹介したいと思います。私も記事で読んだだけで会ったことはないんですが、いつか是非会いたい人の一人です。彼は自分の事を自らバブさんと名乗っていますので、バブさんと呼びます。バブさんは私より4つ年上です。今は日本の某大学の教授ですが、2002年から、WHO世界保健機関の医務官として、長く働かれました。体格のいい、でっかい人です。

 バブさんは日本語がぺらぺらです。どうしてかと言うと、かつて外国人労働者として来日し、高速道路の建設現場で働きながら日本語を身につけたのです。1976年、21歳の時でした。わずか7500円の所持金を持ってバングラデシュ、当時の東パキスタンから日本に飛び込んだのです。それは医者になるための学費をかせぐためでした。

 予定通りお金をためたバブさんは、今度はフィリピンに渡り、10年かけてフィリピン国立大学医学部レイテ分校で勉強して医師の資格を取りました。その後1993年に再び来日しました。そして東京大学医学部大学院で国際保健計画学を修め、医学博士号を取得したのです。

 インドのニューデリーにあるWHO東南アジア地域事務所に勤めましたが、実際には東南アジア11か国を飛び回るハンセン病予防担当者でした。バブさんは流ちょうな日本語で例えばこういう話しをされるのです。
「こんにちは、私の名前はバブです。お風呂の入浴剤です。今日はちょっと耳の痛い話をします。日本人は、お金が一番、便利が一番と思っていませんか?それは海外援助にも表れています。ずっと日本は、カ・キ・クばかり外国に送りました。カは「カネ」、キは「機械」、クは「クルマ」です。もちろん、ありがたい面もあります。

 しかし、お金は使えば残らない。機械やクルマも10年、20年経てば壊れます。修繕をしたくても部品がない、技術を持った人がいない。カ・キ・クの経済協力は、長持ちしないのです。

 これからはケ・コが大切です。ケは「健康」の実現。人間が人間として人間をお世話する「ケア」の精神です。コは「志」。若い人は、心に大きな志を持って欲しい。カ・キ・クよりも、ケ・コの付き合いの方が、長持ちします。カ・キ・クよりもケ・コ。志は心の栄養。若い人は「金持ちより心持ち」を目指して欲しいのです。」

 う~ん、ナルホドな~、返す言葉がないな~と思います。バブさんが、こういう仕事に飛び込んだのは、一つには今より更に貧しかった時代のバングラデシュで、彼の叔父さんが「一つまみ」精神の提言を起こして、貧しい人たちを助けていたことに寄ります。ひとつまみの精神とは、ご飯を炊く時、ほんの一つまみを取り出してより貧しい人々に捧げる、という運動です。例えそれはほんの少しでも、集まれば相当の量となる訳です。

 もう一つは、バングラデシュで内乱が起きた時、まだ少年だったバブさんは軍隊につかまり、皆が虐殺される中、ただ一人助かる体験をしたのです。バスの乗客が兵士に突然降ろされ、ガンジス河の岸に5~60人が並べられ、いきなり銃で撃たれてほとんどの人が殺されてしまいました。「なぜ、自分が生きているのか分かりません。嬉しい、悲しい、そんな単純なものではないのです。戦争中の軍隊に人間性などない。人を見たら敵だと殺す。日本人はね、戦争を知るおじいさん、おばあさんからもっと学ばなくてはいけない」そういうふうにも語るバブさんです。

 このような育ち、このような体験がバブさんを医師の道へと導き、命を守る働きへと後押ししたのでしょう。そしてこうも言われるのです。「大自然の前で人間の存在はちっぽけです。だから、人と人が「お互い様」で生きるのは当然なのです。」と。

 実はバブさんは仏教徒なんですが、私たちにもよく通じる話だと思います。前置きが長くなりましたが、今朝与えられたテキストは、ヨハネの元に洗礼を受けに来たイエスの記述でした。私たちはキリスト教徒として生きる決心をした時、洗礼という儀式を行います。ヒンズー教徒は、聖なるガンジス河で沐浴をしますが、それは汚れを落として清めるためです。でも私たちの洗礼は、清めではないのです。

 受洗コースの時にいつも説明します。心で信じたのなら、それで十分なのであって、わざわざ洗礼などという何か儀式を行わなくても良いのではないか、そういう疑念が湧きくものです。

 その疑念に対する答えは、私たちの主であるイエスが洗礼を受けられたから、というものです。何もイエスのようになる、イエスと同じ道を目指すということではありません。と言うのは、なれっこありませんから。そうではなく、罪を犯さず、清める必要のなかったイエスなのに、どうしてわざわざ洗礼を受けたのか、ということです。それはいったん、それまでの自分を切る必要があったからだと思うのです。

 ヨルダン河にじゃぼんと身を沈めるのは、それまで生きて来たもの、関わりひきずって来た環境を、ひとまず切って、新たに出直すという意味があったからです。イエスの場合、何か悪いものをひきずって来た訳ではありません。でもこの世的には、マリア・ヨセフ夫妻の元に生まれ育ち、兄弟・姉妹もおり、大工の仕事をして30歳あたりまで生きて来た、そこまでの様々な人間的・この世的しがらみは重々あったことでしょう。これから、いざ神さまの福音を伝える者として立とうとするに当たって、それらのしがらみや思いをどうしても切る必要があったのだと想像します。洗礼はすなわち清めの儀式ではなく、決意表明の儀式だったのです。その意味において、イエスは人々と全く同じ地平に立って、人々と同じ洗礼を受けた、そこにバブさんの言われる、人と人がお互い様で生きる生き方の出発を見るのです。

 洗礼は、汚れの清めではありません。既に洗礼を受けられた方はみんなお分かりだと思います。洗礼を受けたら、二度と罪を犯さないようになりますか?受洗後、清らかなままで過ごして来ましたか?そんなことは、まずあり得ないでしょう?私たちの罪は、案外に頑固で、容易に汚れを落とせるものではないのです。

 もちろん、受洗によってそれまでの罪は許されるとされます。その通りです。しかしそれはあくまでも、イエスの十字架と復活の業の故に許されるのであって、私たちが何か償いをしたから、反省したから許されるのではないのです。

 頑固な汚れに何とか、と言って強力な汚れ落としをアピールする洗剤のCMがあります。便利そうです。でもその汚れは下手をすればそのまま川や海や湖に流れて、環境を悪化させます。それに似て、私たちも自分自身の汚れをどうにかしたいと思って、無理をすると、他者を非難したり、裁いたりするようになるのです。私たちの汚れを自分でどうにかできると考えることに、まず無理があるのでしょう。

 バブさんの言葉を聞いていると、その背景に仏教の慈悲の心やそれに相反する命からがらの体験、それらの裏打ちを感じずにはおれません。同じように、私たちも私たちがキリスト者として生きて行くのは、私たち自身が何か立派な事、特別な事をなすと言う事なのではなくて、心にキリスト者としての裏打ちを抱く事なのだと思わされるのです。

 私たちは確かに頑固な汚れを持っています。しかしそれをなくし清めることではなく、そこに対峙し、対局にある神さまのみ心を抱くことで、乗り越えて行くのです。つまり主に聞いて行くという生き方です。それがキリスト・イエスを身にまとうということです。ですから洗礼は、教会員となるための引換券などでは決してなく、ましてや聖餐式を受けるための権利ではないのです。既に私たちにまとわれている主イエスの思いをこそ汲み上げたいと思います。

天の神さま、あなたのみ心で私たちが包まれていることに感謝します。どうぞ、
この恵みを忘れず、覚えて歩むことができますように。