作家の重松清さんは、新成人へ贈る言葉として、「希望を捨ててはならない」「希望は坂の上ではなく、足元にある」と書いた。
テキストはシモン・ペトロたちが弟子とされた箇所。イエスのお勧めの返答に、シモンの漁師としての自負を感じる。反感が入り混じっていたに違いない。
だが結果は予想外の豊漁だった。驚き、イエスの足元にひれ伏して「離れて下さい」と叫んだシ
モン。この矛盾の言動に、人間の裸の姿が示される。
希望は坂の上にあると思うから、人はしんどくても努力する。自分の道は自分で決めると思っている。が、本当は、人の適性は他者が判断するものではないか。
強烈な自我に囚われていたシモンたちを、イエスは一人の人間として見つめ、弟子とした。そうして新たな出発が与えられた。
西中国教区の「障害者自立支援アパート亀の里」。かつて委員だった村田牧師は、視覚障がい
の方との食事の際、茶目っ気でいたずらして周囲から非難された。が、当人は生まれて初めてさ
れたいたずらが嬉しく涙した。
足りない私たちを一人の人間として見つめ、繰り返し希望のかけらを与え続けるイエス。従わない訳には行かない。

【メッセージ全文】
作家の重松清さんが、以前、新成人に向けて文章を書かれていました。「希望は今の自分の中にある。君の胸の奥には、希望を蓄える器が生まれた時から備わっているんだ、と僕は思う」と、重い現実の中にあっても、希望を捨ててはいけないということを主張されています。
「たとえ曲がりくねった歩みでも、迷いどおしの足取りでも、歩き続けることに意味がある。希望とは目的地ではなく、歩くことそのものの中にあるのだ。先は長い。休んでも、歩くのをやめるわけにはいかない。希望の大きな固まりを一つ拾って器が満杯になるなら話は早い。でも、たった一つの希望でしか満たされない世の中というのは、何だか怖くないだろうか。

小さな希望でいい。その代り、感動や喜びや涙や微笑などに姿を変えているはずの希望のかけらを、たくさん。さまざまな色や形のものを、こまめに。
ときには小説や映画や漫画が役に立つかもしれない。日常生活の中で希望のかけらを見つけることもあるだろう。大人はその見つけ方が子どもよりうまいはずだ。うまくなくては困る。子どもが見過ごしたものを「ほら、ここにも」と教えて。希望とは坂の上ではなく、足元にあるんだと伝えて。大人の仲間入りをする君もそうであって欲しい、と願っている。」

「希望とは目的地ではなく、歩くことそのものの中にあるのだ」「「希望とは坂の上ではなく、足元にあるんだ」・・・本当に共感します。

さて今朝与えられたテキストは、ゲネサレト湖、すなわちガリラヤ湖で漁師をしていたシモン・ペトロたちがイエスと出会い、弟子とされた、よく知られた箇所でした。マタイ・マルコ両福音書にも記録されている出来事ですが、ルカの記録が最も詳細に描かれています。

つめかけた群集に話をするのに、イエスは舟を借りたのです。その後、舟の持ち主であるシモンに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と命じられたのでした。それに対するシモンの返答が5節です。「先生、私たちは夜通し苦労しましたが、何も取れませんでした」。この返答にシモンの思いがよく表れています。自分たちはプロの漁師なのであって、そのプロが一晩苦労して漁をしたけれど、何も取れなかったのだ、長い漁生活の中にはそういう日だってあるのだ、という体験に裏打ちされた自負だと思います。もはや漁にならない、言わばヒマだったからこそ、どこの誰とも知らぬイエスに頼まれて、疲れを押して舟を出したのでした。

しかし舟の中で聞くとはなしに耳に入って来たイエスの教えに何かを感じたのでしょう。それは或いは、ほんまかいな?という半分は疑問だったかもしれません。自分の自負をひとまず脇に置いて、この人物の勧めに従って見るのも一興か、と思ったのかもしれません。それが「先生」という呼びかけ、そして「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」という続きの返答から読み取れることです。

ただ、その結果はシモンの予想を全く超えておりました。恐らく彼は魚が取れるなどとは、これっぽっちも期待してはいなかったでしょう。案の定何も取れなかった暁には、「そら見ろ言わんこっちゃない。何だ、さっきは偉そうな話をしていたけど、口先だけのことではなかったか」などとイエスに罵声を浴びせる腹積もりもあったのかもしれません。

けれども現実に網が破れんばかりの豊漁だったのです。「おびただしい魚がかかり」、とあります。とてもシモンだけでは手が足りず、仲間の助けを借りて網をあげてみれば、余りに多すぎて二そうの舟が沈みそうになった、とあります。

この想定外の事態を目の当たりにして、シモンはイエスの足元にひれ伏し、8節のように叫んだのでした。「主よ、私から離れて下さい。私は罪深い者なのです」。ここで先生から「主よ」、に変わりました。自分から罪深い者と告白し、イエスの足元にひれ伏しながら、「自分から離れて下さい」と頼んだのです。これは全く矛盾した言動です。ですがこの矛盾にこそ、シモン本人のみならず、私たち人間の裸の姿がよく示されているように思うのです。

私たちはしばしば希望は坂の上にあると勝手に思い込んでいます。だからこそ、その坂が少々きつくても懸命に登りきらねばならない、そうでないと希望を現実のものにできない、と努力する訳です。時代や場所は違いますが、シモンたちも、ガリラヤ湖で生き、生計を立てる漁師として、自分の才覚・経験を通して、日々を懸命に生きていたことでしょう。それ自体がおかしいというこいとではありません。

自分の道は自分で決める。本人の努力の末に希望が待っているという考え方は、昔も今もほとんど変わりません。努力が不必要と言うのではありません。けれども、本当のところ、その人の適性は自分自身ではなく、他者が判断するものなのです。自分で決めたとしても、そこに至るまでに他者を経由しているはずなのです。どこかで誰かの判断がなされて形となるのです。

この、漁のプロを強烈に自認していたシモンたちを、イエスは「今から後、あなたは人間を取る漁師になる」と、弟子にしました。第三者から見るなら、シモンたちにどんな適性があったか疑問が湧きます。首をかしげたくもなります。けれど、イエスは十分にその資質を見抜かれ、弟子としたのです。恐らくシモンたちには、そのことがこの時少しは分かったことと想像します。漁師としてではなく、一人の人間として自分たちを見つめられたイエスを受け入れたのです。だからこそすべてを捨てて、従ったのです。もっとも、本当の意味でそれが分かったのは、もっと後、十字架と復活の出来事の時ではありましたが。

ところで西中国教区は、「亀の里」という、障害を持った人々が自立生活を目指すアパートを運営しています。その運営に携わって来た委員の一人、周防教会牧師のM先生が以前に、こんな文章を書いておられました。M先生の文章はいつでも楽しくて、私は個人的にとても好きです。
「何年前のことかも何の集まりやったかも今では全く覚えとらんが、その集まりで食事が出た時のこと。僕の隣に盲人のAさんが座ったので介護をしてあげることにした。「Aさん、右手の前にご飯、真ん中あたりに煮物、左手の前におつゆ・・・」と教え、その後でこっそり位置を変えてやったのだ。Aさんは「すみません」と言いながら、おつゆに指を突っ込んでしまい「アチッ」と声をあげた。やった大成功!と思ったのも束の間、周囲からは「ひど~い!」との抗議と共に冷たい視線が僕に集中した。」確かに今から思うと(今じゃなくっても)これはもういたずらの域を逸脱してしまっとる。さすがにやり過ぎてしもうたと後悔している僕に、追い打ちをかけるかのようにAさんは涙を流し始めた。何~!ええ歳して、こんなんで泣くんかよ、と思いながらも、ますます僕は非難の視線にさらされた。

そんな白けた場の中でAさんが言った。「こんなことされたの初めてです。」あっちゃ~、今回は素直に謝るしかないな。Aさんは続ける。「生まれて初めてです。」そやから今謝りまんがな。「いたずらされたの初めてです。」しつこいのう。そう言って笑った。え?今まで色んな人から親切に介護を受けて来たけれど、誰もいたずらなんかしてくれなかったと言う。僕はうつむいた顔から「どや顔」になっていた。どや!みんな聞いたか!障がい者やからと言って特別扱いばっかりしとったら、それが知らぬ間に人と人とに心の壁を作ってしまうんや。よう覚えとけよ!

しかし・・考えてみりゃ、これがAさんじゃなくて他の人やったら僕の運命はどうなっていたことやら。ああ、くわばらくわばら。いたずらも場を読まんと命取りやで。これがいつの出来事やったか忘れたが、一つ賢くなったことだけは今も鮮明に覚えている。」

という文章です。一歩間違うと大事件になってしまいかねない出来事でしたが、M牧師、面白過ぎです。ただ、確かに大事な事が含まれていると思うんです。変な思い込みやレッテルを貼らないで、一人の人間として見るということです。この視点を感じたからこそ、Aさんはうれし涙を流し、次に笑った、ほほ笑んだのだと思うのです。

一生、ガリラヤ湖で漁師をして生きる。そうやって生きて行くしかない。シモンたちは固くそう思っていたことでしょう。多くの人がそれをあらがえない運命として捉え、違う生き方など考えられない、選びようもない時代でもありました。別の選択肢はあり得ない彼らには、明日を忘れ、その日その日をただ生きることが坂の上にある希望であったろうと思います。懸命に自分を固め、強くあろうと必死に願ったのです。

けれども、イエスはその彼らを漁師としてではなく、あきらめや思い込みを抱える一人の人間として見つめ、捉え、あまつさえ弟子として受け入れられたのです。自分の力・判断ではなく、転機は思いがけない他者からやって参りました。足元にひれ伏して叫んだシモンの目には涙が浮かんでいたことと推測します。生まれて初めて、漁師以外のものとして見られた、受け入れられたのです。まさかそんなことが起こるとは、こんな日がやって来るとは夢にも思っておりませんでした。しかし実際、希望は実に自分の足元に置かれておりました。そのようにして新しい自分が発掘されました。
この希望を自分の命一切を用いて、私たちにも教え示して下さる方が、私たちの救い主イエスです。どう考えても足りない。どう転んでも頑なで、自分を変えることができない弱くて貧しい私たち。そんな私たちに、少しずつ少しずつ、繰り返し繰り返し、希望のかけらを与え、あなたを用いると声をかけて下さる救い主です。私ではない。イエスが発見し、発掘してくれるのです。この人に従わない訳には行かんでしょう!

 

天の神さま、み子を通して私たちを見つめ、受け入れ、用いて下さる豊かな恵みに感謝します。私たちを努力できる人にして下さい。しかし私たちの努力や願いを超えて、あなたのみ心のままに導いて下さい。