結婚を望みながら、いざとなると疑問や不安に躊躇するマリッジ・ブルー。 二人の友人牧師の体験から、スピードを合わせることが肝心と学ぶ。
 弟子への批判に対し、イエスは結婚に関わるたとえで答えらた。その後に語られた二つのたとえは、新しさ・古さに対する意見ではなく、スピードを合わせることの大切さを示されたのだった。
 ハンセン病者の宿泊を拒否した、熊本のホテル事件がかつてあった。療養所に住むOさん。中傷が日々続いて心が折れそうになった時、「泊まりに来て下さい」と、某有名ホテルの支配人から電話をもらった。それは言わば「あなたのスピードを受け入れる」という告知だったろう。それ故に励まされ、Oさんは立ち上がり、逆に人々を受け入れて行った。
 ペシャワールで働く中村哲医師も、「人間は人のために奮起する」、「道具は走りながら拾う」、「若気の至りを受け入れて行こう」と語る。
 イエスの受け入れのお蔭で弟子たちは、ブルー(憔悴)からローズ(バラ色)、つまり真の充実へと包まれた。同じ招きに与かる私たち。さてどう生きるか。

【メッセージ全文】
 私たち、気持ちを色で表現することがあります。例えばマリッジ・ブルーという言葉に代表されるように、気分が塞いでしまうような時、ブルーな状態と言ったりするのです。

 ブルーって、本来爽やかで希望の色のはずなんですけど、何故か青白いとか青ざめるとか、余裕がなかったり、焦ったりするとき用いられる色で、不思議です。
その逆に、未来を感じたり、最高に嬉しい時、バラ色とかいうのですが、よく考えると、それも不思議な表現です。

 さて今日与えられたテキストのイエスの返答を通して、ふとマリッジ・ブルーという言葉を思い起こしました。「ヨハネの弟子やファリサイ派の弟子たちは、たびたび断食し、祈っているのに、イエスの弟子は飲んだり食べたりしている」という指摘というよりは糾弾がなされたのです。そこには、どうしてですか?という問いかけではなく、ヨハネやファリサイ派の弟子同様、断食や祈りをすべきではないか、という強い批判が込められています。
これ巧妙な糾弾です。どこか離れたところでイエス一人に言ったのではないのです。そこに弟子たちもいて、弟子たちのことを指摘しながら、実は主(あるじ)イエスを叱っている訳です。この糾弾をまじかで聞いた弟子たちは、たちまち気持ちがブルーになったに違いありません。飲み食いを自由に行っていたのは、きっとイエスとの旅路が楽しかったからだと推測します。宗教的な断食は必要なかったのです。人に見せる断食の事は、毛頭考えていなかったでしょう。

 この糾弾に対するイエスの返答は、「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか」というものでした。不満をぶつける人々に突如、結婚に関わる話題で応じたこのイエスの返しは凄いと思います。

 友人の牧師たちからこんな話を聞いたことがあります。一人は、仕事の都合で二年間単身赴任した人です。二年後ようやく二人で生活できるようになったのですが、かなり長期間に渡って合わなくて困ったというのです。単身赴任する前、もちろん一緒に暮らしていました。単身赴任の間、ずっとまた二人で生活できる日を願っていました。それなのに、いざそれが実現すると、例えば洗濯物をたたむスピード一つ取っても、自分と合わなくて、いらいらするのだそうです。一緒に生きることがいちいちいらつくことばかりで、これに慣れるのにまた二年かかったというのです。

 そうしたら、脇でそれを聞いていたもう一人の牧師が、「よう分かるわ!」と叫びました。この牧師も事情で二年あまりお連れ合いと別居生活をしてるんですが、別居しながら、日曜だけは一緒に礼拝を守っておられる。つまり一週間に一度だけ顔を合わせている訳です。完全な単身赴任とはちょっと違うのです。でも、一週間に一度会うごとに、自分と連れ合いのしぐさのズレを感じてならない、と言うのです。私は、一緒に歩むということは、スピードを合わせるという事かと妙に納得しました。マリッジ・ブルーはもしかしたら、それができるかどうかへの恐れなのかと想像しました。

 夫婦の場合は、多分同じスピードに合わせるというよりは、どちらかのスピードにどちらかが良くも悪くも折合わせるということの方が、現実かもしれません。例えば我が家の場合は、私がいらちなものですから、連れ合いにしばしば急がせてしまう傾向があります。正直に言うとだいぶ無理させているでしょう。皆さん方はいかがですか?

 イエスはこの時更に二つの例えを話しました。一つは、新しい服から布切れを取って、古い服に次ぎあてたりはしない、というもの。もう一つは、新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない、というもの。これはよく知られています。

 イエス自身が説明されている通り、新しい服から布きれを取れば、新しい服がダメになるし、古い服になした継ぎ切れも合わない訳です。当然のことで、よく分かります。後のたとえは、それこそ有名なたとえですが、新しいぶどう酒を古い革袋に入れると袋が破れて流れ出し、酒も袋もダメになるという、これも非常によく分かるたとえです。新しいことをなす時には、その環境も新たにすべしという意味で使われることの多いたとえです。私自身もそういう意味合いで使って来ました。

 しかし、よく注意して読んで見ると、イエスはここで何も新しい方が良いと言っているのではないし、逆に古いものはダメだと言っているのでもありません。どちらが良いという話ではないのです。もちろん、服やぶどう酒というモノの話でもありません。この二つのたとえは、人が共に一緒に生きて行く時のスピードについて語られているように思うのです。その場合のスピードとは速度というより、息を合わせるということでしょう。

 20余年近く昔のことになりました。1996年にハンセン病の隔離政策は違法だとして、「らい予防法」が廃止されていたにも関わらず、熊本の温泉のさる観光ホテルが、ハンセン病を理由に客の宿泊を拒否する事件が起こりました。覚えておられる方もいらっしゃると思います。20余年と言いましたが、逆にまだそれしか経ってないのかという気もします。そんな昔ではないのです。

 熊本にあるハンセン病国立療養所「菊池恵楓園」に住むOさんのところには、この騒ぎを発端に、たくさんの中傷の電話や手紙が届くようになりました。ホテルが断る方が当たり前だ。お前ら税金で生きているくせに。などなど。来る日も来る日も中傷。自分たちが悪いのではないのに、予防法が廃止されて7年も経つのに世の中何も変わらない。Oさん曰く「暗闇にいて、石をぶつけられるような痛み」を感じる日々の中でした。そんな時、一本の電話が入ったのです。それは有名なホテルの支配人からでした。「こちらにお見えになったら、ぜひ泊まって下さい。」Oさんは、このたった一本の電話、一通の手紙がこれほど人を励ますことがあるのか、と身に染みたと言います。

 私は、この電話こそ、「あなたのペースでいいのですよ」「あなたの歩みに合わせます」というお勧め、告知だったと思っています。それだからこそ、Oさんは「ようし、ハンセン病のことを自分たちの言葉で伝えてゆこう」と決意なさったのです。そればかりではありません。自分たちを拒絶したホテルが3か月後に廃業を決め、ホテルの従業員が職を失いかけて途方に暮れていた時、Oさんたちは「巻き込んでしまって申し訳ない」とカンパを送っているのです。お金をもらった従業員たちは感動しました。宿泊を拒否した側の私たちを助けてくれるのか。切り捨てられる側にまわって初めて、宿泊された人の思いを想像し、彼らはハンセン病の勉強会を開き、体験を聞く人になりました。

 ペシャワールでアフガニスタン難民の治療に当たりながら、井戸掘りをし、用水路を作っている医師の中村哲さんは言います。「人間は、人のために奮起する」、と。人が喜んでくれるから働いているけれど、実はそれが自分の支えになっているのだ、と。そのため、志を持っている若い人たちに、こういう学校を出て、こういうルートで、こういう経験を経てというような忠告を言うことは、委縮させるだけ。道具は走りながら拾えば良いので、大人は若者たちの若気の至りを受け入れて行こう、と話されるのです。それは後から来る人たちへの、受け入れの言葉です。先に来た人のスピードに合わせなくていいんですよ、と。

 どんな事にも慣れないうちは不安や恐れが付きまといます。イエスに批判を言いに来た人たちもそうだったのでしょう。何やら新しく見えるイエスたちの言動へのやっかみもあったかもしれません。それは「あなたのスピードは知りません」「私たちのスピードに合わせて欲しい」という勝手な圧力でもありました。

 どんなに断食をなし、祈りをささげたとして、人を受け入れないのであれば、それは自己満足に過ぎない行為です。一方的なスピードです。宗教や教会には、常にこれと同様の過ちを犯す危険性があるのです。自分たちだけ・救われた者の世界に閉じこもってしまうのです。それだけならまだしも、他者を断罪・拒絶するのです。

 ですからイエスはこう答えました。「古いぶどう酒を飲めば、誰も新しいものを欲しがらない。古いものの方が良い、と言うのである」。それはぶどう酒の味にひっかけた答えでしたが、もちろんその方が安心、安泰な、自分たちのスピードだけに固執する人たちへの反論なのでした。

 「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか」、とイエスは語りました。花婿とは、言うまでもなくイエス自身を指します。イエス自身が、今必要な時として、弟子たちのスピード・あり様を認め、受け入れたのです。「お前たちのスピードを私が許したのだ」と明言した訳です。お蔭で彼ら弟子たちは変に遠慮することも、周囲の目を気にすることもなく飲み食いすること・つまり生きることが許されました。真の充実感が彼らを包んだことでしょう。イエスの受け入れがあって、弟子たちの心はブルーな気持ちから、バラ色へ、ローズへと変えられました。同じ福音に私たちも与かっています。では、私たちは他者に対し、隣人に対し、どのように接したら良いでしょうか。私たちの東神戸教会は、どのように立ったら良いでしょうか?

天の神さま、イエスの受け入れと招きをありがとうございます。これをただのお題目にせず、心から喜び、そして味わい、福音に生きる力を伝えてゆく者にして下さい。