「天理の道も一歩から」
牧師 横山順一

一月二日、大学ラグビー選手権・準決勝第二試合、帝京対天理戦。二十九対七で、ほぼ勝利の見えた後半残り十五分から、私はほとんど泣いていた。
遂に、選手権十連覇を狙った帝京を阻むチームが現れた。それも関西の大学から!
長かった。ここまで来るのにどんな厳しい道のりがあったことか。恐らくそれを最も実感しているのが天理だろう。心から敬意を表する。
これが同志社ないし関学であったらと思わないではない。だが、少なくとも今の同志社は無理である。
「準決」だからではないが、「純潔」主義の同志社では、限界があるのは見えていた。
天理は防御に優れ、集散も早かった。小柄な選手の活躍も注目された。が、何と言っても外国人留学生の力は大きかった。
今大会から留学生出場枠が一人増えて、三名となった。天理はその恩恵をフルに活用した。
かつて、補教師(伝道師)になった時も、正教師(牧師)になった時も、その式中の誓約の中に、「あなたは、本教団の信仰告白、教憲・教規に従い、正しく忠実にみ言葉を宣べ伝え、また教会の一致、純潔、平和のために熱心につとめ、かつ祈ることを約束しますか。」(准允式)
「神のみ言葉にそむくことなった教えを教会からしりぞけ、教会の一致・純潔・平和のために励み、清く正しい生活をもってキリストの群れの清い模範となることにつとめますか」(按手礼式)
との問いかけがあった。受験者たちはこの問いに
「主の助けによって」約束します、つとめますと返答する決まりだった。

 今もってその返答に、はなはだ自信はない。ただその時も今も、問いかけの文言の中の「純潔」という言葉に引っかかった。

 純潔とは、辞書を調べれば、「心や体が汚れていないこと」と書かれている。通常は、人間個人に対して用いられる言葉だ。
その場合でも何だか気恥ずかしさの伴う響きを感じる。ましてそれが、「教会の純潔」とは何かと戸惑うのだ。
純潔とは、逆に異種を受け入れない、排除する言葉ではないのか。
事はラグビーだけに関わらない。少なくとも、スポーツの世界では、もはや「純潔」主義では戦えないのが常識である。
積極的に外国人を採用し、かつ外国への参入をなしてきた種目は、明らかに強くなった。

確かに「神のみ言葉にそむくことになった教え」は、教会からしりぞけねばなるまい。例えばその一つが「排除」の思想だろう。
今年はラグビーワールドカップの日本開催の年だ。どこのチームも様々な選手がいる。その混ざり具合の深みを楽しみたい。
願わくば教会にも、色んな人が来ますように!

ちなみに十二日の決勝、明治と激突、最後まで手に汗握る好試合だったが、ワントライ差で涙を飲んだ天理だった。
もう一歩及ばなかった。だが関西勢が盛り返して来た。優勝目指して修正の歩みを期待したい。