幾つになっても発見。小説「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーのマネジメントを読んだら」から、「真摯さ」を教えられる。絵本「ラブ・ユー・フォーエバー」より、ひたすら寄り添うことの深さに感じ入る。
 パウロはコリント書で、「落胆しない」と語ったが、それは彼自身の力によるのではなく、土の器を支える神さまの真摯さによるものだった。
 映画「ユダ 哀しみの使徒」中に、安息日に働くイエスの姿が描かれている。麦を摘んで食べた弟子たち。本日テキスト「手でもんで食べた」の描写から、どんなに空腹だったかが想像される。
 その行為へ同情なしの批判をしたファリサイ派へイエスは語ったが、それは単に弟子の味方をしたのではなかった。土の器に過ぎない人間の弱さに寄り添ったのだ。
 平行箇所でマルコは詳しくイエスの言葉を記している。「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」、それ故にイエスは安息日の主であった。
 足湯に浸かると、縮じこまり疲れていた足が暖められ、癒され、また歩けるようになる。同様に、また歩いて行けるようにイエスは私たちの心を温める。イエスの心に心を合わせたい。そうして伝わるものがきっとある。

【メッセージ全文】
 漫画家の石坂啓さんが、連載されているエッセイの中で、今まで知らなかったという内容の文章を書いておられました。そこに、妹のチズコさんが、あんなに掃除好きなのに、激落ちくんスポンジのことも知らなかったようで、使ってみて「どえりゃーキレイになる!」と大コーフン。いくつになっても「発見」なんだなあ。と綴ってありました。

 それを読んで、今時激落ちくんスポンジを知らない人がいたんだ、と笑ってしまったんですが、数日後、私はとんでもない無知をさらけ出してしまったのです。たまたまとある記事で、岩崎夏海さんが男性だったと今頃知ったのです。それも写真で見ましたので、彼がつるつる頭の中年男性だと知ってショックでした。岩崎さんには失礼な話ではあります。岩崎さんが男性だと知っておられる人がほとんどだと思います。
10年ほど前、「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーのマネジメントを読んだら」という長いタイトルの本がめちゃくちゃ売れました。著者は誰を言おう、岩崎夏海さんです。ダイヤモンド社から出されて280万部を突破したそうです。漫画にもなりましたし、映画化もされました。私それを、ちゃんと読んだのです。

 ドラッカーとは、有名なアメリカの経営学者で、彼の書いたマネジメントという本は通常大学の経営学部などで読まれたり、企業の経営者がよく読む本の一つでした。それを、甲子園を目指す高校野球の女子マネージャーが偶然読んで、大いに感化を受けながら自分のマネージャー業を頑張ると言う内容の小説でした。

 ともあれ題名や名前から勝手に著者は女性と信じ込んで、10年が経ちました。お恥ずかしい限りです。でも内容はよく覚えています。

 導入がとてもいいんです。主人公の女子高生は、ぱらっと開いたマネジメントという本に、マネジメントで最も大切なのは、才能や努力ではなく、真摯さなのだという文章を目にして衝撃を受けるのです。そして自分の務めている野球部マネージャーの働きも、真摯にやって行こうと決意するのです。爽やかなストーリーでした。

 岩崎さんは2016年から岩崎書店の社長に就任しました。岩崎書店から出されている絵本の中で一番好きな絵本を、お詫びかたがた読ませていただきます。「ラブユーフォーエバー」。アンルイスがラブイズオーバーという名曲を歌いましたが、オーバーしてはダメなので、フォーエバーです。

 ひたすら寄り添うことを通して、伝わるものがあるのだと学びます。この絵本を読むと、親の愛を思うと同時に、神さまのあくなき働きを覚えずにはおれません。
かつてパウロはコリント書の中で、「私はどんなことがあろうと落胆しない」という言葉を記しました。その文言だけ読むと、自信に満ちた強い言葉だなと思わされますが、続きに、「私たちは土の器である」と書かれているのです。つまり私たち自身は永遠ではないし、真実そのものでもないし、まさに壊れやすい、脆い、弱い土の器である訳です。
ところが神さまは、そんな土の器の中に一人子イエスを送って下さり、捨てられても仕方のないような私たちを受け入れ、用いて下さった。私たちの努力や才能に関わらず、寄り添い、生かして下さった。神さまには有り余る力があるはずなのに、神さまがして下さったのは、その力を用いず、一人子を私たちに寄り添わせるという形で、神さまの真実、違う表現で言えば真摯さを表されたのでした。パウロの言葉からそういう思いを汲み取ります。
先ほどの絵本ではないですが、神さまの目から見たら、少々頑張ったところで私たちの歩みはため息の連続、たかがしれているのです。でもだからこそ神さまは一人子を通して力づけて下さった。土の器であることを嘆くのではなく、だから神さまの愛のうちに包まれていることをパウロはまずもって覚えたいのでした。

 ですから、自分の力・努力で頑張って落胆しないのではないのです。本当のところ、人生に落胆はつきものでしょう。でもそれで終わってしまうかというと、決してそうではない。思いがけず脆いはずの土の器が用いられる。そこに人からではない真実や愛が注がれる時に、頑なさが壊されて、希望のうちに次へと歩む力が与えられるのだろうと思います。パウロはそれを伝えたのです。

 今年は暖冬でしたが、降るところでは雪が降っています。私、ある集会で新潟の教会の方からこんな話を聞いたことがあります。「雪は本当に大変で嫌だけど、実は雪が降ってほっとすることもあるんです」。「それまででこぼこだった高低のある道が雪で平らになる。それと同じように神さまの仲介があって、私たち思いがけず用いられることがあることを、雪から知らされるんです」と。

 「ユダ 哀しみの使徒」という映画があります。ここに登場するイエスは、なかなかハンサムです。レンタルで借りて観て下さい。安息日に病人を癒していたイエスのところにファリサイ派の連中がやって来て、それは律法の定めに反している、違法行為だと非難するのです。それに対して「人の子は安息日の主だ」と明確にイエスが答えるシーンがあってまぶしい姿でした。
差別され、さげすまされていた病人、いわば用無しとし片隅に捨てられていたような人の命、存在が回復されること、それと、安息日に働いてはならないという律法を傘にただ非難を繰り返すファリサイ派。どちらが正しいか、大事か言うまでもありません。事実、癒された病人たちの喜びの姿の前では、ファリサイ派の言い分は全く陳腐な難癖に過ぎませんでした。ですから、イエスの言葉を聞いたファリサイ派たちは絶句しました。と言うより、答える術がありませんでした。そんな姿が登場します。

 今日のテキストは、ちょうどそのイエスの言葉が描かれている箇所が与えられました。とある麦畑をイエスたち一行が通った時の出来事です。3つの福音書がこの出来事を記していますが、ルカのものが一番生々しく記録しています。この時、空腹だった弟子たちが麦を摘み、手でもんで食べたというのです。
一見、愉快な出来事のように思えます。つい調子に乗って食べちゃった、という程度のほんわかした出来事のようです。ですからそれにめくじら立てたファリサイ派の連中の心がいかにも狭い話で終わって構わないのかもしれません。

 でもよく想像したいと思います。仮に私たちが秋の田んぼ脇を歩いていて、とても空腹だったとして、いきなり稲を取って食べたりするでしょうか?そうだとして、食べられるでしょうか?固くて、まずくて食べられたものではないでしょう。

 手でもんで食べた、とはそうでもしなければ食べられなかったことを意味します。柔らかくして、手汗の塩味をつけたということです。悲しいほどに空腹であったのです。無論、弟子たちとて、その日が安息日であったのを知らぬはずはなかったでしょう。律法に定められたことを敢えて無視したのでもなかったでしょう。けれど余りの空腹が、すなわち土の器ゆえの弱さが、その戒めを上回ったのです。

 そしてたちまちファリサイ派からの非難がなされました。安息日に許されない食べ物を食べた。それも手も洗わず。それも勝手に他人の麦を摘んだ。戒めを守ることを第一とする人々にとって、同情や情けはもちろん、思いやりなど二の次のことだったのです。批判し批判して当然。これに対してイエスは語りました。ダビデを例に挙げた上で「人の子は安息日の主である!」と。その後にファリサイ派の人々の反応が何ら書かれていないのは、映画と同様、彼らに返す言葉がなかったからに違いありません。

 そうは言っても、或る意味情けない弟子たちであったかもしれません。つまらない行為でみすみすファリサイ派の批判を招いてしまったのです。でも主(あるじ)イエスは、律法に勝る人間の現実、つまり落胆し、力を失う土の器の傍らに寄り添いました。ただ単に自分の弟子の味方をしたのではありません。マルコはルカより詳しくイエスの言葉を残しています。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」これを聞いた弟子たちは、足元からふつふつと力が与えられたことでしょう。ファリサイ派もそうしたら良かったのに、と思います。

 寄り添うということがないと、人は自分自身を忘れても他者を非難するものです。自分の足を自分だけの現場に留める限り、決して分からないことがあります。
一昨年夏、福岡に行った時、とある公園に連れて行っていただきました。広い公園で、親切で案内してもらったんですが、私は正直疲れていて、歩くのはもう勘弁して下さいと心の中で悲鳴を上げていました。そこに足湯の施設があったんです。靴もソックスも脱ぐのが面倒くさいので、足湯なんかパスと思っていたら、先に浸かっていた高齢の女性が、「足湯が温かいと」とつぶやかれました。それで浸かってみる気になりました。その方、別に私に言われたのではなかったかもしれません。でも「まあ、つべこべ言わんと入って見なさいよ」という天の招きのように思われました。そしたら、効果テキメン、疲労回復100%、確かに元気になりました。幾つになっても発見ですよ。
今、寒いです。寒い日は、足元が固まります。何だか縮じこまって痛いくらいです。手早く疲れを癒すための足湯があちこちあるといいなと思います。そして足湯と同じように私たちも、寄り添うイエスに心を合わせたいのです。「人の子は安息日の主だ」とは「つべこべ言わんとやってみなさい」という招きの宣言に聞こえます。足元が暖められる時、頑なさや余計な力が抜けて、伝わるものがきっとあると思うのです。

天の神さま、あなたは私たちの生活を第一に、一人子を送られ、私たちの心に寄り添われました。そのぬくもりを通して、誰もが愛と希望に包まれる事です。感謝します。どうぞ、そのぬくもりを覚え、私たちもそれを伝える者となりますように。