マンガ「神の雫」に描かれるひとこま。作法にとらわれ過ぎて、本来楽しいはずの食事が台無し。
 テキストはコリント書。コリントはギリシャ哲学の町の一つ。パウロの後の指導者アポロも哲学をかじった人。人間の「知恵」を第一とする思想が教会に大いに影響した模様。
 パウロ自身がかつては人間の知恵を第一とする生き方をした。その結果、人を見下し、自分を誇ることに至った。イエスと出会って、その過ちに気づかされた彼は、人は誰もが神の前に赦されて立っており、何を持っていようがいまいが、神から生きる一つ一つの意味を与えられるのだ、と教えようと転換した。
 それ故に、神の秘められた計画の管理者として、キリスト者に一番要求されるのは、持ち物ではなく「忠実さ」だ、とコリントの信徒に書き送った。忠実さとは、誠実、真摯と言葉を置き換え得る言葉だ。
 種まきのたとえ話を通して、結んだ実が百倍にもなる希望をイエスは語った。それこそが神の秘められた計画を意味した。人間の知恵にではなく、その神の希望にこそ忠実に従おうとパウロは呼びかけたのである。
 私たちも神さまの計画に誠実に歩んで行きたく思う。それが私たちに求められる態度。


【メッセージ全文】
 新聞社が主催する出張授業というのがあります。色々な分野で活躍している人を特別講師として授業してもらうんですが、かつて東大教授だった頃の姜尚中さんが大阪の定時制高校でお話ししたことがありました。

 この時、姜さんは自分の生い立ちから始まって、50歳前にガンで亡くなった一人の友人のことを紹介しました。彼は、姜さんにとって無二の親友でした。最後まで、生き抜くという凛とした態度を示してくれたそうです。人は人を評価する時、どれだけ新しいことを想像したとか、どんな素晴らしい体験をしたとかということを問いがちですが、本当はそんなことではない。人間の価値を決めるのは、その人が「周囲にどんな態度を取ることができるか」ということだ、と熱く語られたのです。

 「神の雫」という、ワインを舞台にしたマンガがあります。2004年に始まって15年、今最終章に入っているので、もう少しでようやく終わります。最新号の話では、主人公がさる歴史のある有名な食事処に招かれるのです。素晴らしい料理が出されるのですが、その店主がいちいち作法を教えるのです。箸の持ち方はこうで、皿はこうこう。この料理は手前から食べたらダメ、遠くのものから食べる。ご飯の上に漬物を置くのは厳禁。いやはや読んでいて段々腹が立って来るんですね。うるさい!面倒くさい!と言いたくなる。マンガの中でも主人公たちがげんなりしてしまって、本来楽しいはずの食事がどんより沈みかえってしまうのです。
もちろん、守るべきマナーというものは確かにあります。作法も、それぞれ意味があって生まれたもので、知らないよりは知っておいたほうが良い。それも分かるんです。でもご飯の上に漬物を置いたらダメって初めて知りましたね。何事も度が過ぎると、かえって本質を損なってしまう。作法を熟知している人が、周囲にどんな態度を取ることができるかで、食事の意味が変わってしまうのです。一方的にどんなに「しつけ」と言い張っても、虐待は虐待です。

 さて、今日与えられたテキスト、コリントの信徒への手紙、コリント教会の中で起こった様々な問題に対して、別の場所からパウロが書き送った手紙です。

 パウロはこのコリントの教会を作って一年ちょっとで、次の場所へ移りました。その後を、アポロという指導者が引き継いだのです。大体西暦54年から57年くらいの出来事です。新約聖書が確立するのはおおよそ4世紀ですから、それまではどの教会においても、旧約聖書しかない訳です。今のような教会の制度や建物がきちっと確立されていた訳ではありません。そこに様々な事情を抱えた人たちが出入りしました。まだまだ生まれたばかり、よちよち歩きの教会の頃でした。

 コリントは、アテネとかアレクサンドリアとか同様、ギリシャ哲学の強い影響を受けた町でもありました。プラトンやソクラテスやアリストテレスなど有名な哲学者がおりますが、そういう哲学の500年に渡る歴史から、多くの人が人間の知恵すなわちソフィアについて考え続けた訳です。もちろん、それはそれで凄いことです。

 実はパウロの跡を継いだアポロと言う人は、アレクサンドリアで哲学を学んだ人でした。使徒言行録には、雄弁家で、聖書にも詳しかったと記されています。主の道に熱心だったともあります。相応の人物であったのは確かでしょう。しかしアレクサンドリアで鍛えられた彼の思考や話術には、相当人間の「知恵」に対する自信みたいなものが込められていただろうと推測されます。自分で考える。作り出す。体験する。いずれも知恵なしに行えることではありません。それらは確かに人間の営みにとって大事なことです。知恵があるということ自体が悪いのではありません。アポロ自身の望みでもなかったでしょう。ただここコリントでは、指導者から始まって、どうやら人間の知恵がすべてになりかかっておりました。周囲にどんな態度を取るか、本当に大事です。

 だからと言って哲学をかじったからこうなったと決めつける訳ではありません。しかし往々にして論理的に物事を分析し、評論する人に、人は本当の意味ではついて行けなくなります。口では勝てないので、黙ってしまうからです。そして結局、語るその人のやり方だけがまかり通ることになります。

 一方、パウロ自身もかつては人間の知恵を第一にする生活をしたのです。律法を極めて大切に守りました。そうすると、頑張れば頑張るほどに、知恵が足りない人たち、律法を知らない人たちを見下し、結果自分を誇ることに繋がって行きました。それは人間の知恵を第一にするなら当然の結果でした。そしてそれはイエスと出会った時に、全くの誤りだったと知らされることになったのです。

 誰もが神さまの前に赦されて立たされている。知恵があろうがなかろうが、地位があろうがなかろうが、何かを持っていようが持っていまいが、すべての人は皆神さまの前に無条件で赦されている。何をするにしても、例え課題を抱えていたとしても、神さまによって生きることの一つ一つに意味が与えられる、そのことを教会に連なる者すなわちキリスト者は忘れてはならない、パウロはそう示されて行きます。

 だから、「自分を欺いてはなりません」と呼びかけました。ギリシャ哲学では「すべてはあなたがたのもの、人間のもの」と考えられていましたが、更にその先があったのです。そこで、あなたがたはキリストのもの、キリストのものは神のものだと書き記したのです。

 先週、ドラッカーというアメリカの経済学者が書いた「マネジメント」という本のことを紹介しました。管理者に一番大切なものは、才能や努力ではなく、ものごとや人に対する真摯さなのだ、とドラッカーは書きました。ほとんど同じことをパウロは今日のテキストで語っています。

 4章の1節2節、「こういう訳ですから、人は私たちをキリストに仕える者、神の秘められた計画を委ねられた管理者と考えるべきです。この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。」とあります。

 言うまでもなく、神さまの計画は私たちには分か分かりません。まさに秘められた計画です。自分たちはその計画を委ねられた管理者だとパウロは言うのです。そして管理者として大事なことは「忠実であること」だと。秘められた計画を奥義と訳している聖書もあります。奥義というと、相当に道に熟達した人だけに与えられる何かがあるように思われますが、それを「忠実であること」としたのです。パウロさんはもうちょっと分かりやすく書くべきです。
イエスが語ったたとえ話の中に、「たねを蒔く人のたとえ」がありました。道端に落ちた種は踏みつけられ、鳥に食べられる。石地に落ちた種は枯れてしまう。茨の中に落ちた種は、茨と一緒になってしまっ。良い土地に落ちた種は、百倍の実を結ぶ。ざっとそういう内容の譬え話です。
神の秘められた計画とは、例えばこのたとえ話に非常によく表されています。種をまく人によって、種は区別なく撒かれるのです。初めから特別な種だけを特に良い土地を狙ってまかれるのではありません。撒かれた種すべてが順調に育つのでもありません。時にダメになってしまうこともある。ただ幸い良い土地に落ちたものは、百倍の実を結ぶという、人の思いをはるかに超える結果をもたらす。なぜそうなのか私たちには分からないけれど、神さまの働きはそういうものだ。だから秘められた計画であるのだ、それがイエスの思いだったと想像します。
パウロは、そのような思いもかけない結果を自分自身の人生に見たのです。キリスト者を迫害する人生でした。でもイエスと出会い、福音を伝道する者として用いられたのです。ですから3章の6節で「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」と訴えたのでした。
その成長させてくださる神に対して、自分たちがなすべき応答、それも唯一無二の応答は「忠実であること」とパウロは述べました。忠実と訳されているギリシャ語はピストスという単語です。このピストスには真実とか、確かなとか、信頼するというような意味もあります。誠実とも訳せますし、或いは真摯と訳してもいいでしょう。それこそが私たちキリスト者の大切な「態度」だとパウロは勧めたのです。

 アポロは哲学を学んだ者として論理的な指導をしたのかもしれません。それ自体が悪いということではありません。アポロのような論理的思考は、パウロにはなかったでしょう。でももちろん、それでパウロがアポロをやっかんだのでもありません。パウロは、自分たちではなくイエスを信頼して、イエスに誠実に、確かに、真摯に従おうと呼びかけたのです。

 人間の力や知恵だけに頼る時、集団の中に違いがあることが嫌われます。違いがない方がまとまるのに楽なのです。だから規則で縛るのです。そして人を裁くのです。でも、それは不安で、怖い世界です。コリントの教会がその世界に向かおうとしていました。それはキリスト者の態度ではないのです。みんなが許されて神さまの前に立たされている私たちの世界。そうなら、ただただ神さまの計画に対して忠実、誠実であろうよ、とパウロは呼びかけました。イエスが再び来られるまでは先走って何も裁いてはならない。救い主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされる。すべては神さまの計画のうちにあり、いつか分かる時が与えられる。その時、おのおの神さまから称えていただけるよ、と励ましたのです。
分かりにくい話ですが、イエスの譬え話を思い起こすと、一気に理解が進みます。イエスは、神さまの種が良い土地に落ちたなら、百倍の実を結ぶとたとえました。それは「希望」の話です。目の前の現実だけを見て、落胆したり諦めたりするのでなく、希望を信じて歩もう。それがパウロの「忠実」でした。私たちもその日その時まで、互いにただただ神さまに対して忠実、誠実に希望を目指して歩んで行きたいのです。

 もう一か月もすれば春の甲子園が始まります。そこでは開会式で選手宣誓がなされます。いつも新鮮で刺激を与えられる宣誓です。私たちは簡単には誓いません。だからイエスに向って、希望をつなぎたいと思うのです。あなたへの応答。それが私たちに求められる態度でしょう。

 

天の神さま、恐れや不安ではなく、喜びを共にしながら信仰生活を歩みます。希望に向かう私たちの態度を導いて下さい。