緊急事態が生じた時、即座に対応することが求められるが、訓練だけでなく、相手の立場に立って考えることが必要である。
テキストは「重い皮膚病を患った人」の出来事。聖書協会共同訳では、この「レプラ」が「規定の病」と訳された。ピンと来ないのだが、レビ記13章に確かに対処が「規定」されている。
ただ、病気になること、とりわけ重い皮膚病を患うことは、本人に何かしらの原因が問われたし、それを通して神の祝福には与れないとされた時代だった。それが「汚れ」の言葉に集約された。
八木重吉の「奇蹟」の詩には、ただ病そのものというより、「汚れた」者として隔離され、人間扱いされなかった患者の痛みが十二分に表されている。
その患者にイエスはスプランクニグマイ(マルコ平行記事)、はらわたがちぎれるような痛みをもって憐れまれた。だから触ればうつるとされた彼に、躊躇なく手を指し伸ばし触れた。
そして当然の望みとして「清くなれ」と宣言したのだった。
 ラグ(lag)=間があくと、気持ちを削いでしまう。イエスのようには、なかなかゆかない。それでも、間髪入れず触れたイエスの思いに少しでも近づきたいと思う。

<メッセージ全文>
 二週間前の礼拝の時だったと思います。説教のさ中にAさんが急に立ち上がって出て行かれたので、その姿を目で追いながら、緊急の何かが起こったのだと推測しました。
 後から幼稚園の近所で火事が起こったのだと知らされました。それは園児の家庭が結構集まった地区だったので、園長先生は即座に幼稚園に出向いて情報収集などの対応に当たったという訳です。
 私はこの機敏な対応に、「さすが」というか、感心しました。責任者であれば当然だと言われればそうかもしれません。しかし、案外に「当然」でもないのです。災害が起こっても飲み会やゴルフを続ける「上のお方」はいらっしゃいますし、オリンピック担当なのに、五輪憲章を読んだことがないと言われる大臣もいらっしゃいます。責任感は大事ですが、もっと根本的に違うものがあるのではないか、そういう気がしています。

 話は変わるんですが、先日、孫が来たので遊びに連れて行きました。うどんが好きな子なので、お昼ご飯、うどんにしました。休日で大変混んでいました。大学の学食のように、自分で好きなものをトレイにとって最後に支払うシステムの店でした。
 お金を払おうとした連れ合いのコートがトレイのはしにひっかかって、載せていた皿がひっくり返ってしまったのです。汁は飛び散るし、小さい孫はいるし、後ろにたくさんの人が並んでるし、連れ合いも慌てるし、私は一瞬で頭が真っ白になってしまいました。あ~あ、どないしたらええねん。そんな思いばかりが先行して、体が動きませんでした。わずかな時間のことですが、全く役立たずでした。
 でも、店の人は違いました。ほとんど瞬時にふきんが出されて、こぼしたものが拭き取られました。呆然としている当方に、「大丈夫です」「取り替えます」と淡々と対応されました。さすが、というより、ただただ恐縮しましたし、役立たずの自分を恥じ入りました。
 こういう対応には、もちろん普段の訓練というものがあるのでしょう。でも現実に起こることは、想定された事態とは違うことのほうが多いものです。この場合、大事なことは、恐らく「客」の立場に添う、ということではないかと思います。失敗し、慌てるのは客ですから、そこに立って行動する、これが根底にあるのだろうと思わされた次第です。

 さて今日は「重い皮膚病を患った人」がテキストに登場しました。マルコ・マタイにも記載されている出来事です。この重い皮膚病と訳されている「レプラ」というギリシャ語の、少し前まで「ライ病」と訳されていました。ライ病は、1943年アメリカで特効薬プロミンが開発されて不治の病ではなくなりました。戦前ですよ。が、その薬があっても日本では患者が隔離され、人にうつると誤解され、多大な苦痛を患者に強いた悲しい歴史があります。1980年代には3種類の薬を用いることが完全に治る病気になったのですが、らい予防法が廃止されたのは1996年、余りにも遅きに失しました。
 そもそもレプラ=ライ病ということではなかったのですが、誤解に満ちた社会の中で、それがまかり通ってしまったことは、厳しい反省として覚えておかねばなりません。

 ただ、聖書の時代、重い皮膚病は、科学的知識がないだけ、一層うつる病気、伝染病として恐れられたのです。ですからレビ記13章などには、この病気にかかった場合に取らねばならない規定が事細かく、そしてたくさん記されています。十二月に新しく出た「聖書協会共同訳」では、何と「規定の病」と訳されていて、ちょっと疑問に思いました。一足早く出された新改訳聖書では、ヘブライ語のツァラトがそのまま用いられていました。まだましかもしれません。その通り、従うべき規定は確かに定められていたのですが、だからと言ってレプラを「規定の病」としてしまうと、かえって何が何やら分かりづらいと思います。やはりここは重い皮膚病とするのが一番でしょう。
 その重い皮膚病が蔓延するのを防ぐために、基本、徹底した隔離が定められたのです。やむを得ない措置だと多くの人は受け入れざるをえなかったでしょう。しかし、問題は病気そのものより、その病気になったあけすけな批判や隔離されて与えられる心労にあったのです。

 もともと皮膚病だけなく、病気そのものが何かしら本人の生き方の原因にあるとされました。例え覚えていなくても、何か悪いことをしたろう、だからそれで病気になったのだ、という考えです。ヨブ記には友人たちから責められる苦悩の主人公の姿がいやというほど描かれています。そうであれば、それは神さまの祝福にはあずかれない、救いは与えられないとされて行きます。それが本人のみならず、病人を出した親族一同にまで拡大して行くのです。日本でも、ライ病とされた人が、まずは座敷牢に閉じ込められるのは普通にあったことでした。
 重い皮膚病はそうした誤解の頂点にあったと想像されます。家族たちからさえ隔離されます。汚れた者というレッテルを貼られます。自らそれを告白するよう、しむけられます。病気だけでもつらいのに、心がさんざん病んで行くのです。

 だからこそ、今日のこの患者は、イエスにこう語るのです。12節「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と。病気を癒して欲しい。直して下さい。ではないのです。「み心ならば、清くすることがおできになる」、何と言う切ない、苦渋に満ちたお願いであることでしょうか。
 私は今日のテキストを読むたびに、八木重吉の「奇蹟」と題された詩を繰り返し思い起こします。ライ病という単語が使われているので、ためらいがありますが、時代性を考慮していただいて、紹介します。
         初詩集「秋の瞳」(1925T14)より 
 「奇蹟」
 らい病の男が
 基督のところへ来て拝んでいる
 旦那
 おめえ様が癒して(なおして)やってくれべいとせえ思やあ
 わしの病気ゃすぐ癒なりまさあ
旦那なおしておくんなせい
拝むから 旦那 癒してやっておくんなせい 旦那
基督は悲しいお顔をなさった
そしてその男のからだへさわって
よし さあ潔くなれ
とお言いになると
見ているまにらい病が癒った

本当は、直して欲しい。癒して欲しい。これが患者の本心ではなかったか、そう想像させられる詩です。福音書には、イエスが悲しい顔をしたとは何も書かれておりません。でもきっとそうだったろうと思わされます。マルコによる福音書の平行記事では、イエスは「深く憐れんで」と書かれています。この元の単語は「スプランクニゾマイ」というギリシャ語です。直訳すると「はらわたがちぎれるほどの痛み、思い」という言葉です。単に同情したのではないのです。イエス自身が、自分の体が痛むほどの思いをもってこの患者に心から接したのです。泣き出したくなるような思いだったでしょう。

 ですからイエスは彼に直接触れたのです。他者にとって何よりも驚かされるのは、このイエスの触れるという行為だったでしょう。患者本人が他者にうつらないようふるまわねばならないとされていました。他人に近寄ることもできなかったのです。何よりうっかり触ったら「うつる」とされていました。それは病気がうつることのみならず、汚れがうつることを指していました。
 にも関わらず、イエスはこの人に何の躊躇も懸念もなく、触れたのです。周囲には驚きの対応だったでしょう。しかし他の誰より、この患者自身が病気になって以来初めて、他人に触れられ、驚愕したことと思います。そしてきっと涙が出るほどうれしかった。手当てとは、文字通り手を当てる、触ることを指します。

 しかもイエスは、「よろしい。」と言われたのです。もちろんだ、当然だというニュアンスを含みます。直訳するれば「私が望む」という返答です。もう周囲みんなから「汚れた」もの扱いされ続け、自分自身、病気の症状が好転するより何より、汚いモノ扱いの立ち位置をどうにかして欲しいと切望していた患者だったでしょう。イエスはだから「癒してあげよう、直そう」ではなく「清くなれ」と宣言したのでした。
 ルカは、たちまち重い皮膚病は去った、と書きました。マタイ・マルコは「たちまち清くなった」と記しています。きっとここまでがこの出来事のすべてだろうと思われます。イエスがこの人に「だれにも話してはいけない」と命じられた。しかしうわさはいよいよ広まった、などということは、ちっとも大事なことと思えません。
 はらわたがちぎれるほどの痛みの共感をもって、イエスはこの人に相対した。間髪を入れず、この人に触って、その魂、その存在そのものを肯定し、汚れてなどいないという宣言を行った、それがすべての出来事でした。

 私たち、このイエスのような素早い行動がおおかた取れません。分かっちゃいるけど、動きにつながることが少ない者です。でも自分自身は知っています。例えば、間があいてしまったら、台無しになってしまうのです。恐る恐る触れられたら、やっぱり私は汚れているのかと心のどこかが傷つけられるのです。
今日、タイトルを「人生ラグありゃ、苦もあるさ」としました。ラグにはrug、敷物、カーペットと言う意味のラグがあります。そうではなくlag、タイムラグのラグです。間のことです。遅れてしまうことです。
遅れてはならない、即座に応答することが求められる緊急の事態はあるのです。イエスのようにはゆかないかもしれません。でも少しでも近づきたいと思います。イエスは即、触った、語った。少なくとも、このことは忘れたくないと思うのです。

天の神さま、イエスの対応に救われます。感謝です。どうか私たちにもその対応からの学びを与えて下さい。