テキストはよく知られた5000人の給食の出来事。ルカの記した弟子たちのイエスへの言葉の裏に、強い不満と怒りを感じ取る。
 そもそも弟子たちは疲れ果てていた。「人里離れた所へ行く」よう命じられたのはイエス自身だったはず。が、押し寄せた群集の「飼い主のいない羊」のような有様を深く憐れまれて、筆頭、彼らを受け入れられたのだった。
 しかしイエスは、不当な労働を弟子たちに強いたのではなかった。弟子たちの疲れを重々知りつつ、おなかが空いていても、そのことさえに気づかないほどの痛みや悲しみの状態にある人々の現実を知って欲しかったのだ。
 子どもを連れて来た人々を、弟子たちが叱った出来事もあった。弟子たちは自分の疲れの癒しを優先させた。大人の論理としては当然である。
 が、イエスが受け入れたのは、分かった人々ではなく、分からないほどに疲弊し、困惑していた人々だった。5000人の給食の出来事、子どもの祝福に唖然としたのは、他でもない弟子たちだったろう。
 イエスの救いを知るため、コドモでいたいと思う。分かったつもりの大人ではなく。

<メッセージ全文>
 理論社という出版社があります。10年ほど前、一度倒産しましたが、今は立派に立ち直っています。「よりみちパン・セ」というシリーズがあって、今日のタイトルは、その中の一冊の題名を使わせていただきました。
これは貴戸(きど)理恵という人が書いた本です。書いた当時は東大の大学院生でしたが、今は関西学院大学の准教授になっていらっしゃいます。小学校の時は不登校で、5年半、つまりほとんど学校に行けませんでした。東大では上野千鶴子さんの教え子になります。で貴戸さんは、この本の中で、一言で言うなら、大人、すなわちこの世が求めるような大人になる必要はないんだよ、と言う事を書いていらっしゃるんです。スキルとは技能のことを言います。この世の常識が求める大人にならないための技能を探す事・磨くこと、それがこの「コドモであり続けるためのスキル」という本の内容なんです。今なお新鮮で刺激的です。

 さて、今朝与えられたテキストは、多くの方がよくご存じの、いわゆる5000人の給食の物語です。4つの福音書がすべて記録している奇跡の出来事です。それぞれ少しずつ違う記述となっているのですが、ともかくイエスたちは人里離れた寂しいところへ行きました。そこへ大勢の群集が追って来ました。ルカはそれはベトサイダという町だったと記しています。ベトサイダとは、漁師の家という意味で、ガリラヤ湖の北岸にあった町でした。そこでイエスは病いの癒しや話をして彼らを迎えましたが、いかんせん、多数の人々でした。男性だけで5000人というのですから尋常な数ではありません。彼らに必死に対応するうち、たちまち夕暮れとなったのです。

 で、この時弟子たちは、イエスに言いました。ルカの記述では2回のやりとりが描かれています。まずは12節、「群集を解散させてください。そうすれば、周り野村や里へ行って宿を取り、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」
 もう一つは13節、「わたしたちにはパン5つと魚2匹しかありません。このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」

 マタイとマルコでは、イエスは大勢の人々の様子を見て、深く憐れみ、と書かれています。特にマルコは、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、と書いています。この深く憐れみというギリシャ語は、先週の重い皮膚病を癒した出来事にも登場した「スプランクニゾマイ」という言葉です。最近何度か説明しました。今日再度説明しますが、直訳すると、はらわたがちぎれるような痛み、思いという意味です。大勢の群集を見つめられたイエスは、彼らの有様を、心の底から同情された。それで話しをされ、病人の癒しをなして、彼らを迎え受け入れたのでした。

 それに比べると、弟子たちの二回の言葉からは、どうにも群集への思いやりが感じられないのです。むしろパスしたいという思いさえ想像されます。マルコの記述を読むと、でもそれは無理もなかったと思われます。要するに疲れていたからです。
 弟子たちは、ここに来るまでに主(あるじ)イエスのように、病気の癒しをしたり、神の国についての話をずっとして来たのです。くたびれ果てていました。マルコはこう書いています。「イエスは、さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むが良い」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。」

 どうして人里離れた寂しいところへ行ったかというと、押しかける人があまりに多くて、体や心を休める時がなかった。食事をする暇もなかったからだったと言うのです。それもそこに行くよう指示を出されたのは、他でもないイエス自身だったのです。
 それなのに、そこまで群集が追いかけて来た訳です。休むよう指示を出したはずのイエスが、先頭に立って群集を受け入れた以上、弟子たちも従わざるを得ませんでした。恐らくはフラフラになって群集の世話をしていたことでしょう。ちょっと最近のブラック企業を思い起こします。そうして夕暮れを迎えたのです。

 もう限界。これ以上群集に付き合ってはおれない。食べるものにせよ、その日の宿にせよ、各自に任せないと自分たちが倒れてしまう。そう考えたとしても当然のことでした。ですから「群集を解散させてください」と主(あるじ)に願い出たのです。多分、そこにはイエスへの不満がかなり込められていたと思われます。「わたしたちは、こんな人里離れた所にいるのです」という言葉には、自分が行けと言われたのに何なんですか?という恨みつらみが充分込められています。

 つい先日、バスの中で気分が悪くなって吐いてしまった学生を、15歳の女子高生が
手助けしました。吐いたものが自分のコートにかかった会社員は、停留所で女子高生を殴りつけました。彼女が優しく介護したのが腹が立ったというのです。こんな理不尽な怒りは滅多にないと思いますけど、人間の持つどす黒い内面には、時々ゾッとさせられます。

 不満に口をとがらせる弟子たち。しかしイエスの返答は、彼らの感情を逆なでするものでした。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」。この現状を客観的に見るなら、いくら何でも自分たちの提案が受け入れられるだろう、そういう弟子たちの期待と予測は全く覆されました。
 「すべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり」という二度目の言葉には、こんなに疲れ切っている私たちに、なお働けと言うのですか?そんな怒りが感じられます。
 よく分かります。無理もありません。弟子たち、決して遊んでいたのではないのです。むしろ精一杯の奉仕をし続けて来た。群集たちの前に、自分たちこそ食事をする暇もなく、お腹が空いてペコペコであったでしょう。人間お腹が空くとイライラします。他者への配慮を失います。悲しい現実が生じます。

 イエスは、ここで一体、ただただ過酷な労働、限界を超えた奉仕を弟子たちに強いたのでしょうか?実はそうではないのです。そもそも自分で弟子たちを人里離れたところへ行くよう、命じた訳です。彼らが相当に疲れていたことは、重々承知していました。けれども、だからこそその上で弟子たちに見つめて欲しい現実、知って欲しい、分かって欲しい真実があったのです。
 実はおなかが空くとイライラするのは常識とは限りません。それは元気な人、健康な人には通常の反応です。でも、そうではない人がいるのです。抱えた課題の重さや病いの程度によっては、おなかが空かない人がいます。私も入院した時、一番しんどい時は食欲が沸きませんでした。辛い時、悲しい時、お腹が空いていることに気づかない時だってあります。あんまり悲しい時には、自分が悲しいことを忘れる場合もあるのです。茫然自失です。貴戸先生流に言うなら、大人の願う態度が取れないコドモのような人々だったと表現できるでしょう。

 マルコは、群集を見て、飼い主のいない羊のような有様に、イエスは深く憐れまれた、と書きました。治る可能性の高い病気や、少しの励まし、ちょっとしたアドヴァイスで立ち上がることができる人であるなら、人々はわざわざ人里離れたところまで追って来たりすることはなかったでしょう。通常の状態であるなら、疲れ切っていた弟子たちへも配慮ができたでしょう。相応の食料を持ってやってくることもできたでしょう。そんな常識的なことを思うことも予測することもできない、心を整えられず、整理できない、誰も頼るもののない、いわば錯乱した状態の群集を見たからこそ、イエスは彼らにはらわたがちぎれるような、えぐられるような痛みと憐れみを抱いたに違いないのです。
 お腹が空いていることさえも自分で気づかない人たちが目の前にいる。その悲しい現実を自分で見て、受け入れなさい。気づきなさい。それが弟子たちに「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われたイエスの思いであったのです。

 ここで、もう一つの出来事を思い出します。別の場所で、イエスに触れていただき、祈っていただくため、人々が子どもを連れてやってきた時、弟子たちは人々を叱りました。イエスは弟子たちの対応に憤り、「子どもたちを来させなさい。妨げてはならない。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」そう語って、子どもを抱き上げ、祝福されたという出来事です。
 この時も多分、弟子たちは疲れていたのでしょう。大人だけでも対応が大変なのに、この上子どもまでとは、そういう思いがきっとあったと思います。或いは無邪気さのゆえに無分別な言動を取るコドモたちにいらついていたかもしれません。私たち、これらの弟子たちの態度を非難はできないのです。それどころか、それは当たり前の行動、言動にさえ思えて、弁護したくもなります。現状に即して行動することは、全く大人として当然だと思うからです。
 現状に即していなかったのは、ベトサイダに押し寄せた群集であり、親に連れられ無理やりやって来た子どもたちでした。彼らは何も分かっていませんでした。いわゆる常識が失われておりました。育っていませんでした。その課題の重さの故、或いは未熟さのゆえ、自分は神さまに愛され覚えられている存在であることを知らなかったのです。

 イエスは、その知らない人々を受け入れ、食べ物を分かち合いました。抱き上げて祝福しました。群集よりも、子どもたちよりも、その光景を見つめた弟子たちが最も唖然としたことでしょう。自分たちは分かっている、知っていると踏んでいたことが、あるじイエスにあっては真逆であったのですから。
 ベトサイダに集ったすべての人々が食べて満腹した、と17節にありました。満腹したとは、ただお腹がいっぱいになったということだけではないのです。ひたすら群集のためにパンを、魚をさき続けたイエスの深い思いに彼らは包まれて平安を与えられたと言う事も含まれると思うのです。下手にこの世的常識下にいないほうが、かえってイエスの思いをよく味わうことができる結果が待っておりました。弟子たちもその仲間に加えられました。
 一体、はらわたがちぎれるほどに憐れみ、覚えられたのは誰であったか。イエスが見つめた人々がどのような人であったか。福音書は繰り返し描いています。私たち、分かったような人間に、分かったつもりの大人になりたくはありません。イエスのみ業を思い起こし、弟子と共にまず唖然としたいと思うのです。

天の神さま、すぐに分かったつもりになる私たちの愚かさを打ち砕いて下さい。イエスが祝福されたコドモたちのように、分からなくても受け入れ、包まれていることに感謝する者とならせて下さい。