北新地にゴージャスなトレーディングルームがある。いかにも惑わされそうだ。
 荒れ野は、目を奪われるもののない正反対の場所。そこに赴いたイエスは、しかし悪魔の誘惑に応えず、荒れ野を荒れ野のままとした。
 映画監督の森達也さんは、数々の報道体験から、事実は限りない多面体だと学んだという。
 ペルーからの労働者一家。両親がリストラされたが、その荒れ野のような体験から、得たものがあったと娘は語った。気は持ちようという話ではない。そこに愛があったという証しである。
 愛がある時、荒れ野はただの荒れ野ではなくなる。律法のみを真実としている時には分からない神の真実であろう。「不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」神の言葉をパウロは伝えた。
そこでイエスが修行したから、悪魔の誘惑に打ち勝ったから、荒れ野が変わったのではない。
そこにイエスが行った時点で、荒れ野を荒れ野のままにした時点で、ただの荒れ野ではなくなった。そこに愛があった。
世界を信じるメソッド(手順)である。

<メッセージ全文>
 大阪の北新地と言えば、通常歓楽街というか、値段の高い高級な夜の飲食店街を思い浮かべます。が、そんな町のビルにゴージャスなトレーディングルームが出来て、もう何年にもなるといいます。潰れないところを見ると、相応に需要があるという訳でしょうか。

 例えばそこは14階建てのビル。8階までは普通に飲食店が入居しているんですが、9階から上はトレーディングルーム。ふかふかのじゅうたんに高価なソファが用意されている、相当に豪華なトレーディングルームがあるそうです。トレーディングルームとは、言うまでもなく株の売買をするところです。他の場所がほとんど飲食店ですから、いわば場違いなところに作られた店です。まあ、私などは全く縁のない街ですし、場所ではあります。多分多くの人がそうです。

 何となく怖いというか、怪しげな雰囲気を想像させられます。そんな場所に出入りすることはまずあり得ないですから、心配はないのですが、でも、あり得ないような場所で、妙にゴージャスな作りでもって、金儲けの商売がなされている。目を奪われるような場所で、株の取引きをするなんて、お金があったらですが、いかにも心が惑わされそうです。うっかりつまづく人が出ないように祈ります。

 さていよいよ今年もレントに入りました。イエスが試練に遭った荒野の出来事を覚えます。旧約聖書・アモス書の3章3節に、荒れ野についてこんな言葉が記されているんです。「打ち合わせもしないのに、二人の者が共に行くだろうか。」ここで「打ち合わせ」と訳されている言葉は、もっと単純に訳すると、知り合うという意味の言葉です。そしてもっと原意に即して訳をすると、約束して出会う、という意味になります。

 預言者アモスは羊飼いでした。彼が普段羊を追って生きていた場所は、ですから町ではなく、町から離れたうら寂しいところ、つまり荒れ野であったのです。それこそ目を奪われるものの何一つない、何の目印もない、広大な荒れ果てた場所で、もし人が出会うとすれば、予め綿密な約束でもしなければ、絶対に会うことは不可能なところでした。偶然出会えるとすれば、天文学的確率によるでしょう。まごまご彷徨っているうちに、或いは猛獣にやられてしまう。その確率のほうがよっぽど高かったと思われます。だからこそ、打ち合わせもしないのに、二人の者が共に行くだろうか、という言葉となったのです。

 イエスはそんな人がいるとは思われないような場所へわざわざ赴き、皆さんご存知のように、そこで悪魔からの試みに遭ったというのです。悪魔はあれこれイエスを誘惑しましたが、中でも最初の誘惑は、神の子なら、石をパンに変えてみよ、というものでした。40日断食を続けられた末に与えられた誘惑です。それは「イエスは空腹を覚えられた」、とわざわざ書かれている状態でなされた誘惑です。空腹は限界だったでしょうし、疲れもピークに達していたに違いありません。ですから、その誘惑は大変魅力的でした。荒れ野に無数に転がっている大小の石をパンに変えることができるなら、そこがパラダイスに一変する訳です。まるで歓楽街の中のゴージャスなトレーディングルームのような変身です。この誘惑に乗るならば、荒れ野を荒れ野でなくさせることができたのです。

 けれども、イエスはそうしませんでした。続く誘惑にも乗ることはなく、結局、荒れ野は荒れ野のままであったのです。もったいない。何だかちょっと残念な気もします。ただ、最初紹介しましたように、歓楽街の中に忽然とトレーディングルームのような場所を作って、ガラリを気分を変えるようなことを人間ならばどこかで望むのだけれど、実はそれは思いがけず足元を掬われるような甘い罠であることも事実なのです。

 テレビディレクターである森達也さんが、ちょっと極端ですが、奥さんの面白い体験を書いていらっしゃいました。小学校の時のテスト。「太陽は東西南北のうち、どこから出てどこへ沈むのか」という問題。これに「西から昇って、東へ沈む」と答えたそうです。当然バツとなったのですが、納得できなくて先生に詰め寄りました。テレビアニメの天才バカボンのテーマソングで、「西から昇ったおひさまが、東へ沈む。これでいいのだ。これでいいのだ」という下りがあって、彼女はこれを完全に信じていたのです。「テレビが嘘をつくはずがありません」そう言い張る子どもに、先生は頭を抱えたらしいのです。

 映画監督やテレビディレクターの森達也さんは、報道現場に立つ者として、様々な経験から、「事実は一つだが、真実は一つではない」という事を学びます。「事実は限りない多面体であるのだ」、と。

 テレビなどなかった時代ではありましたが、預言者たちは、事実は一つであっても真実は一つではないことを知らされて行きました。パウロもまた、律法がすべてと信じ込んでいた時には、彼には真実は一つという答えしかありませんでした。

 悪魔のイエスに対する誘惑は、真実は一つだということを甘言でもって実証し、強要するかのようなものだった、と言えます。空腹は否定しようのない事実でした。しかし、空腹だから強引に石をパンに変えるような出来事は、悪魔的な真実に過ぎないのであって、神によれば、荒れ野を荒れ野のままとされることこそが、真実であったのです。

 ペルーからの日系人一家が日本に働きにやって来ました。その両親の勤める工場が不況でリストラを断行。両親ともに解雇を通告されました。娘は何とか頑張って、高校に合格しました。収入不安定な両親を助けて、クラブ活動を我慢し、週4日コンビニやラーメン店でアルバイトを続けた娘でした。大変だったと思います。けれども彼女はこう言うのです。「家族でこれからどうしようって考えるから、団結力が上がった。親もつらいんだって分かったし、それまで口も利かなかった兄とも話すようになった。だから、失業は悪いことばかりじゃなかったんですよ。」

 これは気持ちの持ちようでどうにでもなる、という話ではありません。両親の失業によって、いったんは救いがたい荒野に放り出されたかのように思われた娘の、証しであるのです。高校受験前に不安に襲われた彼女に、思いがけない手助けがありました。もう塾にも行っていられない、このままでは合格はおぼつかないと心配した彼女に、「お金を払わなくて良いから、今迄通り勉強にしにおいで」と塾側が授業料免除を認めてくれたのです。こんな塾の、愛の支えがあったのです。愛がある時に、荒れ野はただの荒れ野ではなくなるのです。

 律法を守る者が救われる。その者だけに神さまからの顧みがある、とパウロは信じていました。しかし突如3日間、目を見えなくされた、いわば荒れ野に放り出されたような出来事の中で、そうではないということをまざまざと知らされて行くことになりました。むしろ、神様の真実は、自分の信じていた真実の正反対であった、と。

 だから今日のテキストにも繰り返し、その言葉が登場して参ります。12・13節「ユダヤ人とギリシャ人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、ご自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。「主の名を呼び求める者は、誰でも救われる」のです。

 また17節、「実に、信仰は聞くことにより、しかもキリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」

 かつてイスラエルの人々は、神様の言葉を聞いたことがなかったのだろうか、そうではなく聞いたはずとパウロは語るのです。ただ聞いたけれど、パウロ同様、自分の真実を優先して真に聞くことができなかったのでしょう。にも関わらず、自分はイエスを通して神さまに引き留められた。つなぎ続けられた。同じようにイスラエルの人々に向けても神さまは神さまの真実を語られ続けて来たのだ。だからその神さまの言葉を、21節に記しました。「私は、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」。これはイザヤ書からの引用の言葉です。
頑張ろうとする人、応えようとする人、何かを残そうと自分で努力する人に私たちは手を伸ばします。それが私たちの真実です。でも神さまの真実は、真逆でした。不従順で反抗する民に、それも一日中手を差し伸べられる神さまでありました。

あの荒れ野が、荒れ野のままであったのは、そこに一人子イエスがいたからだったのです。イエスがそこで懸命に修行をなさったから。つらい修行に耐え抜き、悪魔に打ち勝たれたから。だから荒れ野に意味があるのではない、のです。そうではなく、荒れ野に神さまの愛のしるしであるイエスが赴き、そこに立った。もうその時点で、そして荒れ野を荒れ野のままにしたその時に、そこはただの荒れ野ではなくなっていたのでした。
こんな事が起こるなんて、もう世界が信じられない。これがどうにかならないうちは、信じるものがない。私たちにはそんなふうに思われる出来事が繰り返し与えられます。できるなら一気に変えたい。劇的に転換してしまいたい。そんな力を望みたくなります。でもそれが悪魔の誘惑でした。
現状は荒れ野のままだけど、そこに救い主がいて下さる。神さまの愛のしるしがある。このことこそが、世界を信じるためのメソッド、手順なのでした。

天の神様、私たちの人生にはいつでも荒れ野が与えられます。けれども、そこにあなたは救い主を共に立たせ、励ましを下さいますことを、ありがとうございます。どうぞ、そのことに気づき、くずおれることなく、もう一度の力を持てるよう、助けて下さい。