福島原発告訴団長の武藤類子さんは、「再生だけでなく「絶望」も奪い返したい」と語る。
テキストはイエスが「口を利けなくする悪霊を追い出した」箇所。何の病気だったか定かではない。が、治癒されたことを喜ばない連中の姿を見ると、モノが自由に言えない圧迫があったかもしれない。
口が利けないと訳された「コーフォス」には、無感覚・鈍感にするという意味がある。様々な圧迫によって、そうならざるを得ない人々がいたと想像する。
だからモノを語るようになった人を見て、人々は「驚天動地」した。彼らも心に感じるものがあったのだ。
「キリストは自身を否むことができない」とパウロは書いた(テモテⅡ2:13)。イエスにも課題があったに違いないが、捨てなかった。絶望を絶望として受ける人だった。
それ故に「私と一緒に集めない者は、散らしている」とはっきり語った。それは真実、友、神の愛と正義を指している。
 イエスの言葉は、確かに闇を照らす光だ。そこに青空が広がる。無関心・無感覚から解き放たれ、心を伴って生きたいと思う。

<メッセージ全文>
 武藤類子さんのことを御存じの方は少なくないと思います。福島原発告訴団の団長を務められています。全国各地で講演しておられて、つい先日、神戸にも来られました。週刊金曜日という週刊誌の先週号にインタビュー記事が掲載されています。そこにあった、彼女が2011年9月11日、東京の明治公園であった「さよなら原発集会」で語ったスピーチの抜粋を、掲示板に紹介しましたので、またお読み下さい。

武藤さんは、チェルノブイリの原発事故をきっかけにして、原発をなくすためには自分の暮らし方を変えなければということで、お爺さんが残した雑木林を開墾し、自給自足、なるべく電力に頼らない生活を、福島県でご夫婦で始めたのです。
そこに2003年「里山喫茶・燦(きらら)」を開いて、自然の中で生きることの大切さや学びを訪れる人たちとずっと続けていました。でも2011年の原発事故によって、閉店を余儀なくされ、それまでの生活は一変してしまったのです。

週刊誌のインタビューの全部を紹介する時間はありませんが、最後のまとめのところで次のように答えておられます。
「いま、現実・絶望・悲しみ・苦しみを見せないようにしたうえで、夢・希望・未来・絆といった言葉の世界が築かれていると思います。放射性物質は今もそこにあるのに。
傷ついているのに「傷つかなくていい」と言われ、心配しているのに「心配ない」と言われ、私たちの「再生」も、私たちではない人たちがプログラムしている。大きなお世話というか、本当にやめてほしいですね。

私たちは「再生」という言葉を奪い返したい。いや、それだけではなく「絶望」ということも奪い返したいのです。いま、私たちは「絶望」することをも奪われてしまっている。もっと、きちんと「絶望」したいし、それを経ることなしに、おそらく私たちの「再生」は展望できないと思います。
いま私たちを取り巻く絶望も、苦しみも悲しみも、そして再生も、私たち自身で選び取りたいです。」
このように語っておられて、大変深く突き刺さるものを感じてなりません。

さて、今日与えられたテキストにはベルゼブル論争という小見出しがつけられています。イエスはこの時、「口を利けなくする悪霊を追い出しておられた」と14節にありました。

 悪霊という単語は聖書の中で繰り返し登場します。その多くは、恐らく精神的な病によって正常ではない状態に陥った人々に対して、悪霊に取り付かれたと表現されたものでした。
 現代では、はっきり病気と診断され、適切な処置が取られ回復する場合も少なくないでしょう。しかし、原因がそういう病気ではない場合だってあるのです。色々な圧力によってそのようにさせられることがあるのです。

 もちろんこの聖書の病人がどのような原因でそうなったのか定かではありません。しかしイエスの業に対して、周囲であれこれもの申す者たちの言い分を聞いていると、どうも何かが臭うような気がするのです。本来、病人が癒されたのであれば、それが誰であれ、喜ばしいことであるはずです。或いはこれまで抱えて来たモノへの同情や共感があってもいいはずです。

 でも、ここでは何もそれが感じられません。並行記事のマタイ福音書を読むと、ここでイエスにモノ申した人々とは、ファリサイ派の連中だったことが分かります。社会に対して、一般人に対して影響力を持っていた人たちです。もしこの病人が当時の社会に対して何か都合の悪い言動をしていたならば、それはファリサイ派の人間にとっては由々しき事で、悪霊が取り付いたということで社会的に抹殺してしまいたい対象だったでしょう。座敷牢に閉じ込めておきたい訳で、間違っても再びモノが言えるようになってはならない存在であったのです。

 そもそも、口が利けないとは、どうした状態でしょうか?利けないですから、元から話すことができない、発音ができないということではないのではないと思われます。何等かの事情で、話せるのに話すことができなくなってしまった、ということです。

 口が利けないとは、もしかしたら差別や偏見によって、或いは抑圧や衝撃的事件によって、そうせざるを得ない状況に押しやられたという可能性が十分あり得ます。繰り返し劣等感をすり込まれ、いつも威圧的に力を振るわれる環境にいると、心が閉ざされ、人は黙ってしまうしかないのだと想像します。

 興味深いことに、この口を利けなくする、というギリシャ語のコーフォスという単語には、無感覚にする、鈍感にするという別の意味があるのです。例えば虐待され、日常的に暴力に慣れさせられると、心が自分を守るために自分の人生を捨て、人間的心情を捨てて閉ざされるのです。無感覚になるのです。痛められているのに、痛いことにすら気づかなくなる。鈍感になるのです。自分を自分で拒絶するとも言えるし、それは確かに悪霊によるとしか言いようのない状態であることでしょう。

 当時あからさまにモノが言えない事がたくさんありました。ローマへの反抗などあり得ませんでした。いや、実はあったのですが、正直にあるとは言えない状況に置かれていました。一方で乱れきった神殿の体制もありました。ファリサイ派や律法主義者が大手を振っておりました。その陰で不正が横行していました。それらを推進する人たちが大きな勢力を握っておりました。
そして敢えて押し込められた人々がいたのでした。おかしな事をおかしいと言えないで、真実を押し込め、自分を隠し、閉じ込め、あげくに偽る。時に本当におかしくなる。そういう人々とイエスは出会い、癒しを行い続けました。その結果、病人を癒しながら、当時の病んだ社会が浮き彫りにされて行ったのです。

 イエスはこういう病人をあるべき元の姿に返して行ったとも言えます。癒された人は、これまで押し込められ、片隅に追いやられ、これまで心の奥底に溜めに溜めてきた思いを自由に語ることができるようにされた。心が解放され、魂が回復した。単に病の症状を癒されたのではなく、心を見て取られた。それがイエスの癒しだったと思うのです。

 イエスから癒された病人が、モノを言い始めたことに、群集は驚嘆したとありました。ものを言い始めたとは、とはそれまで彼を抑圧したいたものが取り去られたこと、解放されたということでしょう。つまり人間の感覚が戻ってきたということです。群衆はそれに驚嘆した。実は彼らも息苦しさの中に生かされていたからです。この驚嘆した、とは、驚嘆したでも、まあ充分伝わりますが、敢えて言えば、ちょっと印象が弱い。これのもともとの意味は、驚天動地した、くらいの大きな、激しいニュアンスのある言葉です。正気を失うほどに驚いたと訳せばいいでしょうか。

 イエスはきっと、病人に真実を語るよう促したのです。真実を見るように諭したのです。癒された病人が、それまでの殻を打ち破って真実を語り出したからこそ、群衆は正気を失うほどに驚いたのです。

 ローマやそれに追随するイスラエルの人々。またファリサイ派のような影響力を持つ人たちが、自らを正当化するためにご都合主義で、不都合な真実を覆い隠そうとします。イエスの十字架はまさにそれの延長線上で起こされた悲劇だったでしょう。

 パウロと言う人がイエスを指して「私たちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストはご自身を否むことができないからである。」と文章を残しています(テモテへの手紙Ⅱ 2:13)。イエスとて、自身に悩みはあったし、人生の課題を抱えて生きたことでしょう。私たちはそういう課題をできれば解消したい、悩みなど持ちたくないと考えます。イエスもそう考えないことはなかったかもしれません。しかし、一切合切捨てようとはしませんでした。つまり自分の人生を拒絶しなかったのです。課題は、課題の或るまま、悩みを抱えたまま生きました。いわば絶望は絶望として受け入れたのです。そういうふうに神さまが導いたからかもしれません。それがキリストはご自身を否むことができないからである、と書いたパウロの言葉の意味でした。
こうしてイエスは、はっきり語ったのです。「私と一緒に集めない者は、散らしている」と。それは真実のことであり、一緒に生きるべき友のことであり、神さまの正義と愛と善のことを指していました。

 レントにあって克己の日々を過そうとしている私たちですが、この世のまやかしに習い、吟味せず主流・時流に乗りがちな私たちの弱さこそを克己せねばなりません。少なくともそうでありたいと願います。自分の決めたことも守れないとかすぐ挫折してしまうとか、そういう個人的な弱さは無論ある訳ですが、むしろこの世の真実から目を背け、偽りを受け入れてしまう真の弱さにも目を留めたいのです。

 色々な意味で、暗闇が続いています。どん底かもしれません。でもイエスの視点は私たちにとって、どん底を照らすともし火です。やっぱり光は暗闇を照らすのです。そこに青空が広がるのでしょう。今まで何故押し黙って来たのか。どうして無理やり受け入れて来たのか。沈黙や常識を強いて来たものは何であったのか。それは本当に恐れるべきものであったのか。これからは今までのように黙っていてはダメなのではないか。知らされた物事を何かしら語って行かねばならないのではないか。
イエスは「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。」と語りました。自分を捨て、自分の十字架を負うとは、ハダカになって自分を見つめ、無感覚や無関心ではなく、心を伴って生きることだと思います。そのことを語ることができるように、イエスを通して解き放たれたいと願います。

天の神様、私たちを憐れみ、顧みて下さい。無関心と無感覚から、私たちを救い出して下さい。集める者とならせて下さい。