年度末、引っ越しのシーズンである。片付けはやっかいだ。近藤麻理恵さんは、ただ捨てるのではなく、「ときめく」ものを「残す」方法での整理整頓を提唱される。
 テキストはイエスが伝道の旅から方向転換をして、エルサレムを目指す決断をなした箇所。
 群衆や弟子たちからの自分のありようを聞いたイエスは、もはやこれで終了と思ったのか。そして受難と十字架の予告へとつなげられたのか。 
 そのやりとりの重さを弟子たちは後からしみじみ味わったことだろう。記録媒体などない時代に、「ときめき」ではなく深い後悔を規準にして、聖書記者は酸っぱい思い出を記した(残した)。
この時に語られた「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って従え」とのイエスの言葉は、自分と共に十字架への道を歩むことへの覚悟を問うたものだったろうか。
恐らくそうではない。そんなことが弟子たちにできるはずもないし、要求でもなかった。「自分を捨てる」(アルネオマイ)とは、「私は知らない」という打消しの意味を持つ。
自分のことも神のことも知らない自己をひきずりつつ従うのだ。そこに神の愛が満たされる。

<メッセージ全文>

皆さんは、今お住まいの家に暮らして何年になりますか?私は東神戸教会の牧師館に来て、5年となりました。実は私は、子ども時代も含めて、同じ家に二けた年、つまり10年住んだことがありません。転勤ということもありましたが、建て替えというような事情もあって、同じ家に住んだのは前任の石橋教会の9年が最長でした。

同じ町での引っ越しも含めると人生で20回の引っ越しを経験しています。単純に年齢で割ると、一ヵ所平均3年ほどになります。だからこうして年度末・3月末を迎えると、何となく「引っ越し」が想像されて、ムズムズします。持ち物の整理が脳裏をよぎるのです。引っ越しって、整理を強制的に余儀なくされる出来事です。ところが、その整理がなかなかに難しいことを体験上、よく分かっています。簡単に「捨てられない」性格だからです。

最近たまたま見たテレビで、近藤麻理恵さんを知りました。御存じの方たくさんおられるでしょう。彼女が2010年に書いた「人生がときめく片付けの魔法」というサンマーク出版から出された本のことは知っていました。これ今や世界40ヵ国で出版されて100万部を突破するベストセラーです。

本は知っていましたが、本人のことは知りませんで、現在はアメリカ・ロスアンゼルスに住んで、アメリカ中を飛び回って片付けコンサルタントをしているのです。多分、アメリカで一番有名な日本人女性のようです。

プロフィールを知って驚きました。今34歳だそうですが、何と幼稚園の年長さんの頃から「エッセ」という雑誌を愛読して来たそうです。御存じですか?エッセ。扶桑社が出している人気生活情報誌です。
その本の影響だけではないんですが、整理整頓が子どもの頃から生きがいという人です。ただ、初めの頃は、ひたすら要らないものは「捨てる」ということだけが第一だったそうです。でもそれで行き詰ってしまい、何かを捨てるのではなく、何かを「残す」という方向転換をされたのです。それが「ときめき」という言葉に表されています。詳しく紹介できませんけど、心に「ときめく」ものを残す方法で、最も自分らしいありのままのシンプルな生活を実現しようと提唱されているのです。アメリカでは「コンマリ・メソッド」と呼ばれているようです。

さて、私たち受難節を過して来ましたが、今日第3週目を迎えました。荒れ野での40日の試練を終えたイエスは、再び故郷に戻り、ガリラヤ湖で漁師をしていたペトロたちを筆頭に12人の弟子を選んで伝道の旅に出かけました。あちこち行きましたが、エルサレムから見て、一番北の町までやって来た時に、一つの決断をなすのです。それが今日のテキストの最初に描かれている出来事です。色んなところを回って遠くまで来たが、そしてどの町でも様々な出会いを与えられて来たが、自分のやって来たことは、一体どの程度受け入れられたのか、分かってもらえたのか、その目安として、人々が自分のことをどう呼んでいるのか、弟子たちに問うたのです。答えは「バプテスマのヨハネ」であったり、預言者「エリヤ」であったり、預言者の一人であったりというものでした。

当時は現代とは圧倒的に事情が違います。テレビやラジオがある訳でも、週刊誌や雑誌やスマホがある訳でもありません。学校もありません。人々が文字を読める状況すらありません。基本的に口伝えだけが頼りです。弟子たちの返答を聞いて、イエスがどう感じたか明らかではありませんが、どの返答も的を得たものとは思われませんでした。

平行記事のマタイ福音書によれば、この問いかけがなされたのはガリラヤ湖北部にあるフィリポ・カイサリア地方だったと記されています。辺境の町と言って良いでしょう。そこでの自分の立ち位置を聞いた時、わずかに弟子のペトロのみが「メシア」だと答えた訳ですが、それとてイエスの心に合ったかどうか定かではなく、イエスはここで一つの決断をなすのです。それは、これから「南へ下る」という決断でした。エルサレムを目指して歩むのです。そしてそれはそこで十字架にかかる最後の時を迎えることを意味した道行の決断でした。

「引っ越し」と簡単に言い換えることは出来ませんが、イエスの人生において、大工の生業と家族を打ち捨てて荒れ野に出かけたのが第一の引っ越しだったとするなら、もうこれ以上遠くへ行かず、エルサレムを目指すとしたこの時が第二の引っ越しの決断であったという事ができるでしょう。しかもその後、第三はないのです。

イエスはこの時、人々からの呼び名を弟子たちに問うたあとで、受難の予告をしました。その中で有名な言葉を残したのです。「私について来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」

 今日のテキストのメインの言葉だと思います。イエスの受難、十字架とそして復活の予告の中でこれが語られました。予告ですが、言い換えれば遺言です。しかし誰もこの遺言に気を留めませんでした。最終的には繰り返し3回この予告がなされました。十字架の出来事が現実となり、また復活の出来事を目の当たりにした時に、弟子たちは主イエスが命をかけて語ったこの遺言の事を思い起こしたのです。

 ルカにせよ、マルコにせよ、福音書を記した人たちは、イエスと旅を共にした時、今のような記録媒体を誰も持ってはおりませんでした。日々の出来事を綴る日記すらないのです。紙は実に高価でしたし、持ち運べる代物でもありませんでした。自分で見た、弟子たちから聞いた、その膨大な出来事の中から最も心に残ったものを選びに選んで残したのです。それは「ときめき」ではなく「失敗」だったり「つまづき」だったりが選択の基準となりました。
あの時、主イエスは「群衆が自分のことを何者だと言っているか」と問われた。それに続いて受難と復活の予告をされた。その中で、「私について来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」と語られた。それがどれほどの厳しい現実の中で、またどれほど重い思いの中で語られたものか、あの時は全く分かっていなかった。
その後悔と反省にあふれて記録を残したのです。恥ずかしい思い出ではあっても、隠す訳にも、自分を騙し黙する訳にも行きませんでした。万一それをしてしまったら、イエスのすべてを否定してしまうことになるからです。

恐らく当初は、自分の十字架を背負って私に従いなさいと、イエスが語ったのは、自らがいずれエルサレムにおいて十字架刑に処されることを予測した上で、弟子たちにもその覚悟を問うたのだ、と思い起こしたに違いありません。
しかし無論そんな覚悟は弟子の誰一人持ってはおりませんでした。ただ十字架、そして復活の出来事を経験した後になってみれば、そんなことはすべてイエスの分かっていたことで、一緒に十字架刑で死ぬ覚悟を問われたのではなかった、このことが段々と分かって来たのです。

覚悟ではなく、イエスは「自分を捨てて」と言われた。この捨てると訳されているギリシャ語「アルネオマイ」は、何か自分の知識とかモノとかを捨てるということではなく、「知らない」「私は知らない」と打ち消す意味の言葉です。
自分のことは誰よりも知っていると誰でも思います。弟子たちもそうでした。それのみならず、自分たちの主イエスのことも全部知っていると勝手に思い込んでいた弟子たちでした。
そんな弟子たちのあり様をイエスはすべて知っていて、そういう傲慢、高慢、勘違いではなく、本当は自分のことも、神さまのことも何も知らない存在、そういう自分を認めて私に従いなさいと語ったのだ、確かにそうだった。そう確信してこの記述を残したのです。

モノを整理するには、コンマリさんの言われるように、心が「ときめく」ことを基準にしたら良いと思います。でも信仰の整理基準は、つまづきであり、失敗であります。本当は消してしまいたい。思い出したくもない恥ずかしい過去のあり様。思い起こせば赤面の酸っぱい失敗の数々。弟子たちも、聖書記者たちもそれをこそ第一に残しました。イエスによる酸っぱい大作戦です。
だからイエスの試練は、本当は荒れ野などよりはるかに宣教の旅の方が大きかったことでしょう。もしどんな力も振るうことが許されていたなら、貧しく愚かな弟子たちを一瞬で変えても良かったのです。と言うより、消して他者と入れ替えれば良かった。しかしイエスは、神さまは、そんな短絡を決してなさらず今日に至りました。
なぜなら強大な力に頼るのではなく、むしろその強さを捨て委ね任せるところに、温かい神さまの愛が満たされるからです。実に、それを知ることこそ救いであったのでした。

天の神さま、横暴な力を振るうことで強さを示すことが蔓延しているこの世です。イエスが命をかけて教えて下さった深い愛を今こそ思い起こします。何をそぎ、何を残すか、イエスに応えて歩む者と為して下さい。