風邪でも、花粉症でもなく一年中マスクをしている人がいる。心に自信がなくて、不安だからだという。
 40歳で自分の顔に責任を、という言葉があるが、本来何歳でも。逆に何歳でも、自分しか考えない人の顔は間抜けているのかも。
 高い山に登った時の主の姿に有頂天になり、「小屋を造ろう」と叫んだペトロ。シナイ山から降りて来ないモーセを待ちきれず、金の子牛を造ってどんちゃん騒ぎをしたイスラエルの民たち。いずれもはなはだ間が抜けていたろう。
 パウロは聖書を通してイスラエルの民の勘違いを知っていた。同時に熱狂的律法主義者として生きて来た自身の愚かさをも知らされた。だから「文字は殺し、霊は生かす。霊とは主の霊だ」と書いた。
彼には律法しか見えない人々が、まるでモーセの顔の覆いのように見えたのだろう。
 マスクには「真実を隠すもの」という意味がある。その意味において、私たちもたいがい、マスクである。
 マザーテレサは「思考に気をつけよ」と述べた。最初の思考こそ肝心。自分の努力ではなく、イエスを通して私たちは内面から輝かせられることを覚えたい。

<メッセージ全文>

 10年ほど前だったでしょうか、国内各地でタイガーマスク・伊達直人を名乗る人物たちから、児童養護施設にランドセルなどが続々と寄贈されて話題となりました。
その発端となった人が3年前、正体を明かし出ました。群馬県前橋市に住む会社員・河村正剛さん、今46歳の方でした。
今更なぜ素顔を明かしたとかというと、ランドセル運動が下火になって来て憂いを覚えたからです。彼は母子家庭に生まれましたが、その母親が幼少時になくなり、ランドセルを買ってもらえなくて風呂敷で学校に通ったそうです。そして「子どもたちは涙を流すために生まれてきたんじゃない。笑顔になるために、周りの人を笑顔にするために生まれて来たんだ」とメッセージを語りました。なかなか、タイガーマスクより凄いと思います。

 ところで、プロレスラーでもなく、花粉症でもなく、風邪でもなく、何かの予防のためにでもなく、マスクをしている人たちが少なくないといいます。「遮断機の向こう、全員白マスク」という川柳がありました。それくらいマスクの人が増えている訳です。でも花粉症とか風邪とかではなくマスクしている人、それは、とにかく素顔をさらすことが不安で、自信がないからだそうです。ですから彼らは、一年中マスクをしている。マスクをつけていると、安心するというのです。
 自信がないのは、自分の顔の作りということではないでしょう。自信が持てないのは、心です。心に自信がないことを他者に見られたくない、悟られたくない、それで年がら年中マスクで顔を隠しているというのです。

 かつて、アメリカ第16代大統領のリンカーンが、「男性は40歳になったら、自分の顔に責任を持とう」と言ったいいます。本当にリンカーンの言葉かどうかは、眉唾の部分がありますし、じゃあ女性はどうんはの?とか突っ込みたくなるんですが、時折学校やら会社で訓示のように紹介されている言葉です。私40歳になるまでは「ふ~ん」くらいにしか思っていませんでしたが、実際40歳になった時、まぁどうしようもないね、と開き直ってしまったのを思い起こします。
 ただ誰が言ったにせよ、この言葉は、多分顔の作りについて語ったものではなく、大人としての言動について語ったものではないかと思います。そしてそれは40歳でなくても、30歳でも、50歳でも幾つでも通用するものでしょう。

 一方で私たちは、例え何歳であっても、間抜け面を露呈してしまうことがあります。言葉は悪いですが、アホ面と言ってもいいです。それは、自分のことしか考えずに言動する時の顔です。
 自分の趣味についてのうんちくとか、贔屓のチームの自慢とか、とうとうとしゃべる人を見て、とりあえずうなづきながら内心「アホやな、こいつ」と思ったことはありませんか?私などは「アホやな、こいつ」と思われる方の一人ですが。アホだけど親しみを感じることもあるよね、とか言い訳をします。

 でも、ただただ自分の世界にはまって、周囲の思いが全く見えない場合は最悪です。聖書にも時々そんな出来事が描かれています。イエスがペトロたち3人の弟子を連れて高い山に登った時のことです。イエスはそこでモーセと預言者エリヤと出会って語り合ったと言うのです。その姿を疲れた寝ぼけ眼でペトロたちは目撃しました。疲れたならはっきり寝てしまえば良かったのですが、真っ白に輝いたというイエスの光景は、なまじペトロの功名心を刺激してしまいました。そこで「小屋を3つ建てましょう。イエス様のために、モーセのために、エリヤのために」と叫んだのでした。この時のペトロの顔は、間違いなくアホ面だったと想像します。主イエスの真意を受け取ろうともせず、目前の出来事に有頂天になってしまったのです。

 今日のテキストにも、とてもよく似た出来事をパウロが記しています。シナイ山で、モーセがいわゆる十戒を刻んだ石版を神さまから与えられた時の出来事です。イスラエルの民は、シナイ山に登ったモーセが、なかなか降りて来ないのに我慢ならず、ふもとで金の子牛を作ってそれを拝み、どんちゃん騒ぎをしていたのです。
 石版に刻まれた文字は、人々を戒めるための十戒でした。そうとも知らず、民たちは飲み食いし、立っては戯れた、と書いてあります。ペトロ同様、この時のイスラエルの民たちの顔は、悲しいくらい間抜け面であったでしょう。

 シナイ山を降りて来たモーセの言動が出エジプト記32章にこう記されています。「宿営に近づくと、彼は若い雄牛の像と踊りを見た。モーセは激しく怒って、手に持っていた板を投げつけ、山のふもとで砕いた。そして、彼らが造った若い雄牛の像を取って火で焼き、それを粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエルの人々に飲ませた」
 モーセはせっかく神さまから頂いた石版を投げつけてこわしてしまうほど、イスラエルの民たちの行状に激怒したのです。知らない人のまぬけ面より、知っている人、まして愛している人のまぬけ面の方が怒りを増幅させるように思われます。

 さてパウロは、イエスと出会うまでは自他共に認める超のつく律法主義者でした。律法について語らせるとすれば、右に出る者はないという自負を持っていたことでしょう。そんなに大事で、欠かせないものなら、そこにせめてひとかけらでも他者への配慮があれば良かったのにと残念に思います。けれども、自分のこと、自分のグループのことしか見えなかったパウロでした。それは趣味や贔屓のチームの自慢のレベルに留まらなかったのです。律法に飲まれ、律法が独り歩きするかのごとく、パウロ自身が律法の奴隷に陥っておりました。間抜け面だったに違いありません。どんなに熱心に語り歩いたとしても、多分聞く者に与えたのは恐怖心だけで、そこには希望も喜びもなかったでしょう。
 パウロはその愚かさを重々味わったのです。顔の作りなどよりよっぽど恥ずかしいことだったと思い知ったでしょう。本当に人を輝かすモノは、イエスが示した命を生かす霊でした。律法ではありませんでした。そこで言うのです。「文字は殺しますが、霊は生かします。」

 モーセは民たちに怒って石版を投げつけ壊してしまったので、神様はもう一度石版を授けられました。その時、モーセの顔は光を放っていたと言います。もしかすると、それは懲りないイスラエルの民たちの、はなはだ大きな勘違いであったかもしれません。栄光はモーセを通して示された神さまの栄光であるのに、彼らはリーダー・モーセを通して、その栄光が自分たちに与えられたとでも感じたのでしょうか。

 いずれにせよ、この時シナイ山で起こった事を皆に語ったあと、モーセは自分の顔に覆いをかけた。以後、神様と語る時は覆いをはずし、そうでない時は顔に覆いをかけた、と出エジプト記に書かれているのです。モーセにはモーセの思いがあったことと思います。ただ、120歳で死んだ時、「目はかすまず、活力も失せてはいなかった」、と申命記にあります。モーセはまだ十分元気であったうちに、ヨシュアを後継者として選び、自分は約束の地カナンへは向かわず亡くなったのです。

この辺りさすがはパウロでした。彼はこれらのことを聖書を通してよく知っていたのです。そして亡くなるまでたんたんとイエスの福音を語り続けたパウロにとっては、モーセのこれらの行動が、ちょっとええかっこしに思われたのかもしれません。

 モーセが顔に覆いをかけたように、その行動に重ねて、ユダヤ教、なかでも律法を大事にする人々の姿がまるで覆いをかけられた者のようにパウロには見えたのでしょう。自分の努力で顔を作らねばならないとすれば、それは結構な労力を伴います。努力は決して無駄ではありませんが、それが人やこの世の価値基準にだけ添う努力であるなら、ただ空しい徒労に終わるかもしれません。
 パウロは主の生涯から教えられたのです。あの十字架の死が何であったのか。復活は何であったのか。彼は彼なりに懸命に「顔」を作ろうと努力した人でした。熱き律法主義者として。熱心なユダヤ教徒として。でも顔を敢えて造ることの空しさを教えられたのです。仮面を被っていたに過ぎなかったのです。仮面、すなわちマスクには、真実を隠すものという意味があります。

 一年中マスクをしている若者たちが、異常なのではありません。素顔で生きることに恐れを抱かせるこの世の方がおかしいのでしょう。確かにこの世は真実を隠すものや隠す諸術に満ちています。私たちの多くは、それに惑わされて、造り顔を通します。すなわち真実を見つめえないと言う意味で、人はたいがい、マスク、そもそも仮面であるのです。ある人にとっては、学歴という名の仮面でしょう。またある人にとっては地位という仮面もあるでしょう。善人面、逆に悪ぶる仮面もあります。私たちにとって怖いのはクリスチャンという仮面です。
 ですからこそ、コリントの信徒だけではなく、私たちもまたいち早くマスクを脱ぎ去ったパウロから教えられるのです。正確に言えば、脱ぎ去ったというより、脱がされたと言うべきですが。

かつてマザーテレサはこう述べました。
「思考に気をつけなさい。それはいつか言葉になるから。言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。」

 パウロはイエスを通して、始めの思考の過ちに幸い気づかされました。私たちの顔を造るものは、内面を見つめ、そして照らして下さる神さまの力によります。パウロは気づいたのです。人を輝かせるものは、自己中心的な思い込みではなく、外から内に入って放たれるものだ、と。自分の中からではなく、神様からであり他者からであり、隣人からなのだ。まさしく最初の「思考」が出発なのでした。

 パウロは言います。「私たちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえらえてゆきます。これは主の霊によることです。」
私たちはイエスのように十字架にかかることはできません。けれども、イエスの復活を通し、それによってありがたいことに、イエスと同じ姿、輝き、希望と解放に与かることができるのです。そしてその時、自分で顔を造らなくても、偽らなくても、まるで自分が光っているかのように、内面から輝くものがにじみ出ることでしょう。

天の神様、救い主に聞き、従うところにおいて、救い主を通して働くところにおいて、輝くあなたの栄光があります。そのための器として、私たちを用いて下さい。