イエスの生まれた頃、ガリラヤでローマの圧政に抗議する農民一揆が起った。が、大群が送られ、首都セッフォリスの焼き討ちを始め、万単位の人々が空しく命を奪われた。その出来事をイエスは繰り返し聞いて育ったろう。
テキストの譬え話には、現実が色濃く反映している。ブドウ園の主人とそこに雇われた農民たちの関係である。もともと自分の土地だったところでこき使われる農民たち。だから、主人の送りこんだ僕や息子へ怒りがぶつけられたたとえだ。そんなバカな話はない!という正当な願いへ寄り添うこと。それがイエスの、神さまの正義に連なる行動だった。
イエスの意図は、暴力の肯定でも、扇動でもなかった。どうにもならない貧しい農民たちへの深い連帯の思いと、現実を知りながら口を閉ざす律法学者・祭司長たちへの厳しい指弾があった。
西成労働福祉センターの閉鎖に際して、「労働者、頑張れ~、負けるな~!」とマイクで叫び続けたIさん。イエスもまた「農民、頑張れ~、負けるな!」と心から叫び続けていたに違いない。 
以来、2000年の時が経った。今私たちはどうしたら良いか。

<メッセージ全文>
 先週3月31日、釜ヶ崎の日雇労働者たちの象徴の場所である西成労働福祉センター(別名:あいりん総合センター)が閉じられることになりました。単純に仕事を紹介する場所が移転するということでなく、そこを生活の場所にして来た人たちの居場所が奪われるということで、これまで閉鎖への反対運動を続けて来ました。最後まで声を挙げようということで、31日も行って来ました。
その日、雨は降るし、風も強いし、何よりめちゃくちゃ寒い中でしたが、一時は300人を超える人たちが反対のために集まりました。釜ヶ崎合同労組のIさんが主にマイクを握って、アジテーションを飛ばしました。彼が現在市会議員に立候補していて、機材もあるし、語るにふさわしい人物だったからです。

皆さん、「転び公防」という言葉を御存じでしょうか?公妨とは、公務執行妨害罪のことです。接触とかなくても、たとえあったとしてほんの少し体に触れた程度であっても、大げさに転んで、公務執行妨害罪で逮捕する、公安の汚いやり方です。そうやって別件逮捕して、運動組織をつぶすのです。冤罪の温床として弁護士会から強い非難が出されています。

31日、予定通りシャッターを閉めてしまいたい行政側は、当然相応の準備をしていたと思います。労働者側は、事前に何度も「非暴力・不服従」を貫くことを確認していましたが、時にやり取りの中でもみ合いに近い状態が発生することもあるのです。そうすると、全体を見まわしているIさんが「落ち着いて行こう、離れよう」「転び公妨でやられんようにしよう」とマイクで注意を飛ばすのです。お陰で、警察官たち待機していたようですが、出番はなく、大事には至りませんでした。

私は夜10時過ぎまで7時間ほどいましたが、根性なしで体力の限界が来たので帰って来ました。でも徹夜で頑張った人たちが何十人もいて、シャッターは閉められることなく、何と現在に至っているのです。
仮移転センターは、既に目の前に完成していて、3月11日から業務を開始しています。そして6年後には一応、新しいセンターが建設されることにもなっています。そんな状況で、何のために、何を求めて、逮捕の危険をも侵して反対行動をするのでしょうか?それはすべて労働者の声を聞かずに一方的に計画を進める行政への怒りがあるからです。センター移転は、労働者の意見を何も聞かずに進められて来たのです。んなバカな話があるか!ということです。

でももちろん、少々反対の声を挙げたとして、わずかな願いさえ聞かれないことを皆よく知っています。それでもなお声を挙げるのは、それが正しいこと、当然のことと信じているからです。それだけはなく、例えば沖縄の辺野古でも懸命に頑張っている人たちがいて、彼らに連帯したいと強烈に願っているからでもあります。ですから、負けは見えているかのような抗議行動を、むしろ喜んで引き受ける訳です。行政側は、そこが一番分かっていないのだろうと思っています。

さて、紀元前4年のことです。つまりイエスが誕生したのとほぼ同じ頃です。ヘロデ大王が亡くなったことを契機に、ユダヤの民衆を苦しめ続けて来たローマ帝国への大規模な抵抗運動が起こりました。いわゆる農民一揆です。年収の半分から3分の2も取られていた徴税への苦しみも耐えがたいものがあったでしょう。そこへ水不足やら飢饉やらが起きると、農民たちは土地を手放して更に重い借金を背負うことにもなります。若い女性たちが売られて行く悲劇も当然あったと想像されます。農民たちの不満がついに爆発したのです。

イエスが生まれ育ったナザレから1時間半ほどの距離のところに、「セッフォリス」という町がありました。農民蜂起に対し、ローマ帝国は大群を送ってセッフォリスを町ごと焼き払ってしまいました。エマオの村でも2000名のガリラヤ人の男女が磔にされました。全体で何万人という農民の命が抵抗空しく奪われたのです。

焼き払われたセッフォリスの町の跡地に、ヘロデ大王の息子ヘロデ王はヘレニズム調の大別宅を建てました。ローマ皇帝の名をそのままつけたティベリアスという町もガリラヤ湖畔に首都として作りました。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。しかし人の子には枕するところさえない」というイエスの言葉がルカ9章・マタイ8章にありますし、そう歌った讃美歌もあります(443番)。その狐とは、ローマに媚びへつらうヘロデ王へつけられた陰のあだ名でした。またセッフォリスとは鳥という意味の名です。イエスの言葉はヘロデ王に対する強烈な皮肉が込められていたのです。セッフォリスで起こされた悲劇を間違いなくイエスは聞いて育ったのでしょう。当然の権利を主張しながら、全く空しく理不尽に奪われていった農民たちの命への、深い連帯の思いがイエスにあったのだと信じます。

その思いがよく表れたたとえ話が今日のテキストであるのです。ある人がブドウ園を作り、農夫たちに貸して長い旅に出たと言います。ブドウ園から採れるブドウから葡萄酒を作るのに、まずは4年ほどかかったそうです。もともと都会に住んでいるお金持ちが、飢饉や借金などで農地を手放さざるを得なくなった土地を買って、ブドウ園にすることが普通にありました。それを農夫たちに貸す訳ですが、雇われた農夫たちからすると、もともとは自分たちの土地であり、そこから収穫を得ていた大事な財産でした。

収穫の時を迎えて、主人はまずは僕を送り込みました。が収穫を得られず、都合3人めの僕を送っても農民たちはみな袋だたきにして送り返してしまったというのです。最後に、自分の息子なら大事にしてくれると期待して送り出しますが、最もひどい仕打ちを受けてしまう。15節にあるように、「息子をブドウ園の外に放り出して、殺してしまった」という、まあ悲惨なたとえ話でした。
これはあくまでもたとえ話ではありますが、これを聞かされた農民たちはどう感じたでしょうか?彼らは「そんなことがあってはなりません」と答えていますが、そんなこととは一体何事を指すのでしょうか。

ブドウ園の主人は、当然の収穫を拒否されたばかりか、最愛の息子を殺されてしまった。あまりにむごいことだ、それに対する「そんなこと」でしょうか?それとも、農夫たちの仕打ちに怒った主人が、農夫たちを殺して、違う人たちを雇ったという後の出来事に対して、でしょうか?

それは間違いなく後の話に対してであろうと思われます。無論、イエスはこのたとえ話で、殺人をも認めて、暴力で解決しようと呼びかけたのでも、立ち上がれと煽ったのでもないのです。このたとえ話の元ネタは、平行記事のマルコ福音書にあります。そこではイエスは、「さて、このブドウ園の主人はどうするだろうか?」と問いかけています。現実の話ではないのです。

たとえ話とは言え、実際に農民たちがこのような手段を選ばず行動した現実の話はありませんでした。命をかけて蜂起しても、圧倒的な力によって滅多打ちにされる訳です。むしろ実際には、都会の金持ちに借金のかたに土地を奪われ、こき使われ、金持ちが更に儲けたとしても、農民たちにはその見返りはほとんどなく、いよいよ格差が開いて、上から目線で一生使われ続けた、モノも言えず軽く扱われるだけの一生だった。そんな例に満ち溢れていただろうと推測されます。
イエスの譬え話を聞いた人たちは、その不条理であり、理不尽過ぎる現実を「んなバカな話があるか!」と憤りの思いで聞いたに違いないのです。けれどそんなあり得ない状況が、実際に幾らでもありました。貧しい農民たちは必死で耐え抜く他はありませんでしたが、その状況を正す者はどこにもおりませんでした。普段偉そうにものを言う律法学者も祭司長も、現実を見て見ぬふりをするだけだったでしょう。農民たちの心の行き場がどこになかったのです。

でも、これが正しいことではない。不正な現実に過ぎない。見ている者はいる。それは神さまである。そう信じるイエスは、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」と農民たちを懸命に励ましたのです。誰にも覚えられず、片隅に追いやられたかのように見えるあなたたちこそが、真に用いられるのだ、と。そしてその石の上に落ちる者は誰でも打ち砕かれ、その石が誰かの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう、と農民たちの正当な思いを代弁したのです。それが神さまの正義に連なることでした。

律法学者や祭司長たちは、言うまでもなく、哀しい農民たちの現実を見聞きし、知っていたはずでした。ローマの圧政があるにせよ、せめても彼らが「それはおかしい」とつぶやけば良かった。つぶやきもせず、目を閉じ口を閉じ、己の身を守ったのです。それを指摘されたから、イエスに手を下そうとしたのです。
釜ヶ崎でIさんは繰り返し「労働者、頑張れ~!負けるな~!」と声援を送り続けていました。イエスも同じだったと思います。「農民たち、頑張れ~!負けるな~!」。
以来2000年が経ちました。さて、現代に生きる私たちは、どうしたら良いでしょうか。

神さま、私たちもこの世において、躊躇したり迷ったりする事例がたくさんあります。でもイエスの後押しを信じます。神さまの正義に連なる勇気と知恵を与えて下さい。