「尊敬する者を持っている人が光る、尊敬される人が光るのではない」と脚本家の倉本聰さん。神によって光ったイエスを思う。ご両親がクリスチャンだったためか、倉本さんの言葉にキリスト教の影響を色濃く見る。
復活の日の墓での出来事。共感福音書は基本的に女性とイエスの出来事を記す。が、ヨハネ福音書には、まず二人の弟子が登場する。ペトロとヨハネである。
共にガリラヤ湖の漁師で、何かとイエスに用いられたこともあって、互いにライバル的な思いがあっただろう。自分の努力で勝ち得たいものが多々あったと思われる。一切を捨ててまで従った主だ。すべて自分が選んだ道だった。
しかし、脱ぎさられたいわば抜け殻の覆いと亜麻布を見た時、悟るものがあった。「選んだのはわたしだ」と語ったイエス。
足りないものにバトンが渡されたのだ。光るイエスが共にいて初めて、自分が光って見える。イエスから渡されたものは、「未来」だった。それが「復活」だった。感謝!

<メッセージ全文>
 「北の国から」などの作品で知られる脚本家の倉本聰さん。少し前の「折々のことば」という新聞のコーナーで、「尊敬できる人間を持ってる人間が光るんです。尊敬される人間は別に光らない。」という倉本さんの言葉が紹介されていました。
「高倉健さんの映画は必ず上に人がいることで成立している」と。権力者も反逆児も「上に立つ人」がいないお山の大将。そこがだめなんだと。自分の不完全を知り、自分に優る者のほうから自分を量る。その人が後生大事にしているものは命を張ってでも守る。そういう「重し」が人には要る。―そう書いておられるそうです。
私はこれを読んで、あ~クリスチャンだったご両親を通して、倉本さんは相当に深いキリスト教の影響を与えられたのだなと納得しました。その目線が随分と作品に反映されていると感じました。
さて、今日は復活日、イースターです。十字架刑から三日目の出来事が4つの福音書すべてに記されておりますが、ヨハネ以外の3つの福音書、いわゆる共観福音書ではイエスを思わせる天使や若者、或いはイエスそのものが復活の時に登場しています。ただしそれは墓に急いだ女性たちに対してです。

 ところが今日与えられたヨハネによる福音書は違うのです。もちろん、墓に急いだマグダラのマリアのことは描かれます。11節からの一段落はマリアとイエスの出来事が記されています。そこは変わらないのですが、肝心の墓での一番最初の出来事として、マリアの知らせを受けて駆け付けた二人の弟子のことが綴られているのです。しかもそこに復活イエスは登場しません。これはヨハネだけの記録となります。

 いわゆる12弟子の中で、ケファ(岩)と名付けられたシモン・ペトロ。ボアゲルネス(雷の子)と名付けられたゼベダイの子ヤコブとヨハネ兄弟。ガリラヤ湖の漁師だったこの3人は、生前のイエスから随分重く用いられました。しばしば特別にこの3人だけを伴って行動したことが福音書には何か所も記されています。とりわけイエスが愛した弟子とされるのは、その一人のヨハネだったろうとされています。(はっきり名前を挙げるのは抑制されたということでしょうが。)

 イエスが高い山にこの3人を連れて登った出来事がありました。その時、イエスの姿が白く光り輝いて、モーセと予言者エリヤと語り合っていたとされています。3人の弟子たちはその光景を目の当たりにしたのです。
 それは弟子たちの見た、幻想或いは妄想だったかもしれません。ただ、倉本さんが言われる「尊敬できる人間を持ってる人間が光るんです」という言葉が重なる訳です。聖書的に言うなら、人間という単語には、ちょっと語弊があると思います。ですからこの場合は「存在」で良いと思います。尊敬できる存在、言うまでもなく神さまのことです。神さまそのものは光らないのだけど、神さまという尊敬できる存在を持っているイエスは光輝いたのだ、そうだと思わされる訳です。「自分の不完全さを知り、自分に優る者(つまり神さま)のほうから自分を量る。その人(つまり神さま)が後生大事にしているものは命を張っても守る。そういう重しが人には要る。これまさしくイエスの証ではないでしょうか。

 さて、その3人のうちの2人、ペトロとヨハネがマリアの知らせによって墓に駆けつけました。それは主が復活したという知らせではないのです。遺体がないという知らせでした。ですから、当然驚き慌てたことでしょう。しかし、ある意味駆けつけるに少なからず躊躇が働いたのではと想像します。

 弟子たちは、イエスの十字架刑を最後まで見届けはしなかったのです。イエスが逮捕された時点で、皆逃げ去ったと書かれています。最期まで従ったのはマリアら女性たちでした。ですからイエスの墓に出向くのは、いささか気が重い、はばかられるものがあったと思います。また、そこには番兵もいたのですから、下手すれば自分たちも捕らわれる危険性も予想されたでしょう。

 それらを超えても、二人が走って駆けつけたとすれば、どこかで本当に主が死んでしまったのかとの疑いがあったから、なお半信半疑の思いを引きずっていたからではないか、そう推測するのです。
 特にイエスに愛されていたというヨハネ。そのことは自分でも実感していたでしょう。いつも言動で一番目立つのはペトロでしたが、内心自分が一番との自負があったろうと思います。同じガリラヤ湖の漁師出身、そんなライバル意識もあったでしょう。そうして彼らは、いつの日か自分自身が光り輝く者となることを夢見ていたに違いないのです。
 その期待感が、ほんの少しでも残っていたからこそ、ヨハネはペトロより先に墓に到着したのに、すぐ中に入りませんでした。「身をかがめて中をのぞくと」と5節にあります。本当に亡くなってしまったとすれば、自分が光り輝くための関わりの根拠を失ってしまうことになります。それですぐには中に入らなかった、入ることができなかったのです。

 しかし、続いて到着したペトロが、そのまま墓に入ったので、釣られるように後に従いました。そこで二人が見たものは、外からも見えた亜麻布と、覆いでした。不思議な記述が7節でなされています。「イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じところには置いてなく、離れた所に丸めてあった。」というのです。

 9節に「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったからである」とわざわざ書かれていますように、この時まで彼らは「本当に死んだのか?」との疑問のほうが大きく、まさか復活とは夢にも思っていなかったのでしょう。

 けれども、ばらばらに置かれた亜麻布と覆いを見て、「信じた」のです。そこにイエスの姿はありません。或いは亜麻布と覆いが同じところに置いてあったなら、それは遺体を誰かがどうにかしただけ、と思ったかもしれません。ただバラバラに置かれた二つの布を通して、初めて知らされるものがあったとヨハネ福音書は書くのです。

 そこにあったのは、いわば抜け殻です。抜け殻を見て、悟るものがあったのです。それはイエスの真実に他なりません。福音書には都合三回、イエスが十字架と復活の予告をなしたことが書かれています。何度も繰り返して予告していた。でも弟子たちは信じることができなかったのです。信じることができなかった自分たちに、主イエスは何度も真実を語り続けて下さったのだ。抜け殻を見て、イエスの真実を始めて信じたのです。
ヨハネにしても、ペトロにしても懸命に弟子として従いつつ、自分の力で努力で、いつか光り輝く日がやって来る、それを勝ち取りたいとずっと願って来ました。だってすべてを捨ててイエスに従って来たのです。自分で選んだ道に強烈な自負を抱いていたに違いありません。しかしその人間の思いで満ちた勘違いが今こそ分かったのです。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」生前そう語ったイエスの言葉がまざまざと甦りました。
 もし自分が光り輝くとすれば、それはすべて主イエスあってのことでした。ああ、何と足りない自分たちであったことか!にも関わらず、イエスはこの足りない自分たちに、バトンを渡して下さったのだ、そこに姿は見えなくても確かに託された、抜け殻の中にそれを気づかされた二人でした。
 太陽の光を浴びて、月が輝くように。本当は主イエスが光っているのだけど、共にいて下さるお陰で、まるで自分自身が光輝いているようにされて行く。命を喜んで生きていけるよう、今どんなに足りなくても、未来を下さった。それが復活の意味でした。

 今年の本屋大賞に、瀬尾まいこさんの「そして、バトンは渡された」が選ばれました。
三か月前、書店で立ち読みした時、ラストの文章を読んで不覚にも涙が出ました。今年のイースターのタイトルがその時決まりました。そのまんまです。

 これから読もうという人、済みません。ラストの文章はこうです。
「本当に幸せなのは、誰かと共に喜びを紡いでいる時じゃない。自分の知らない大きな未来へとバトンを渡す時だ。」

 復活は、自分の知らない大きな未来へ向けてイエスが私たちにバトンを渡した出来事でした。

 感謝の祈りをささげます。
神さま、足りない私たちを赦し、用いて下さるあなたの深い愛をありがとうございます。あきらめず、次へとつないで下さるのはあなたです。この恵みの力に押し出されて今年も生きて行けます。どうか変わらず呼び続けて下さい。