作家・浅生鴨さん著の「どこでもない場所」。「ひと言の呪縛」の章で、高校時代何気なく教師や祖母から言われた一言に、「それを引き受けることで変えられた」と書いている。
テキストの場所は、エルサレムの隠れ家。復活の主の報告をするために集まっていたのに、そこに姿を現したイエスを、弟子たちは「亡霊だ」と恐れた。
復活の出来事は、どこまでも拍子抜けするほど、「普通」でありのままだ。信じない弟子たちに、イエスは両手・両足を見せる。触るようにも命じた。
それは復活とは思われない、「弱さ、限界を持った」肉体の提示だった。魚を食べてみせたのも同じ思いからだろう。
弱いままの姿を通し、裏切った弟子たちを赦して再び用いることを示したイエスだった。復活は特別な人間にのみ起こされた特別な出来事ではなかった。
空気が読めなくても良いのだ。足りないままに引き受けることが求められた。弟子たちは、そのように導かれた。私たちにも同様の呼びかけがなされる。

<メッセージ全文>
 神戸出身で、かつてはNHKで番組制作を担当し、今は執筆に専念している浅生鴨さんという作家がいます。本、めちゃくちゃ面白いです。
 「どこでもない場所」。出版元の左右社が出す本、これも大抵面白いです。浅生さんってゆるくて、強烈な物言いをしないという意味で、強烈なゆるさを持っている人です。読むと、肩の力が抜けてほっとします。帯には「迷子でいいのだ」とあって、その後に「前の人が曲がったら曲がる。バスが来たら乗ってみる。」とあります。また「方向音痴への道・総括」とあって、「目的地さえなければ方向音痴にはならない。目的地がぜんぶ悪い」と続きます。面白いでしょう?
 この中の「ひと言の呪縛」という章の中で、高校時代ひどい劣等生だったことが書かれています。それで授業にさっぱりついて行けず、隠れてこそこそ本を読んでいるか寝ているかどちらかだったというのです。

 或る日の現代社会の授業で、先生が何やら生徒に質問して、よく聞いてなかったけど文言の中に「小説」という単語が入っていたので、思わず耳をそばだてた。「減反政策と農作物転換の問題を扱った小説です」と先生は言い、それに思わず「ああ、だったら、井上ひさしの四捨五入殺人事件ですか」と答えたのです。彼はたまたま当時井上ひさしの本にはまっていて、片っ端から読んでいたのです。

 先生が言いました。「うん、君はよく読んでいますね。すばらしい。」落ちこぼれの同級生が思いがけない返答をし、先生に褒められたので皆不思議がっていたそうです。この時から、浅生君は少し変わったのです。

 「僕は自分が勉強尾せずに本ばかり読んでいることに、どこか劣等感を抱いていたのだけれど「君はよく読んでいますね」、そういわれることで救われたような気がしたし、先生の期待に応えるために、もっと読まなければならないような気もして、僕はますます本を読むようになった。誰かに言われた一言が、そのあとの自分のふるまいを変えてしまうことがある」そう、書かれてあります。大いに頷かされます。

 もう一つ、やっぱり高校の時の思い出で、おばあさんから「あんたは優しい子だから」と言われて、自分はそれほど優しい人間じゃないし、人に冷たくふるまうこともある自分だけど、そういわれてやっぱり少しだけ変えられたというのです。「人は誰かに期待されると、そのとおりにふるまおうとする。僕は少なくとも祖母の前では優しい子でいようとした」と書いているのです。これにも頷かされます。

 さて今朝与えられたテキストは、復活物語の一つです。今日の一つ前の段落、先週読んだ箇所ですが、二人の弟子がエマオへ向かう途中、復活のイエスと出会い、それを知らせにエルサレムに残っていた弟子たちのところへ戻った、と記されていました。その後のことになります。そこには描かれるのは、余りにも普通である復活のイエスの姿といつまでも頑な弟子たちの姿です。

 弟子たちが集まったそのところに、再びイエスが姿を現しました。そこは輝かしい王宮でもなければ、神殿でもありません。当局を恐れて隠れていた、恐らくは目立たない普通の家だったでしょう。
それにしても不思議なものです。彼らは「あるじイエスが復活した」まさにそのことを報告するために集まったのだし、実際それについて話し合っていたさ中でした。それなのに、そこに姿を現したイエスを見て、37節、「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」と言うのです。ガリラヤ湖で、水上を歩いたイエスを見て、「幽霊だ」と騒ぎ立てた生前の出来事が重なります。本当なら大喜びして良い時のはずです。でも今、現に目の前に見ても、なお信じることができないとは何なのかと思います。

 この弟子たちに対してイエスがしたのは、疑いを晴らすために、まずは体を「見せる」ということでした。「わたしの手や足をよく見なさい」と声をかけました。更には、「触ってよく見なさい」と、実際に肌で感じるよう命じたのです。そうして「手と足をお見せになった」(40節)、とあります。この手と足は、原文では共に複数形で書かれていますので、両手と両足を見せたということです。

 他の福音書の記事とも合わせて読めば、その両手・両足には十字架刑によってつけられた釘の跡が刻まれていたということになります。ですから、他の誰でもない、復活して別人になったイエスではない、あの十字架刑に処せられた紛れもない本人であることを、イエスは弟子たちに示したということでした。

 ところが本当に人間という者はやっかいです。そこまでされて弟子たちはイエスだと気づき、そして喜びに包まれたのに、やっぱり信じられなかったというのです。41節に「彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので」とあります。確かに余りにも嬉しいことがあると、それが現実のものだとにわかに信じることができない。ほっぺたをつねってみて初めて実感する、という事はあります。けれど、「不思議がっているので」とある箇所は、原文に近く訳すると「驚き果てているので」というものです。最初は恐れで信じられず、今度は喜びで驚き果てたという、弟子たちの有り様でした。

 ここまで来ると、もはや一種おかしみというか、ユーモアさえ感じてしまうのですが、イエスはそんな弟子たちに「何か食べ物があるか」と尋ね、出された焼き魚を一切れ取って、彼らの前で食べたというのです。お腹が減っていたからというより、敢えて食べてみせたのでしょう。両手・両足を見せ、触らせ、挙句、魚を食べた、その事を通して徹底的に「あなたがたの知っている通りの自分」がそこに生きて共にあることを示したのです。

 本当に拍子抜けするほど、以前と同じイエスが描かれています。奇跡の復活を果たしたなら、もっと劇的な場面であっても良さそうなものです。何か食べるにしても、焼き魚では何だか力が抜けるような気がします。

 でも、これこそが復活だったのです。考えてみれば、心のみならず、その心を宿す私たちの肉体は、まさしく弱さの象徴です。イエスが見せた手と足は、ありていに言えば弱さの象徴でした。本来はだからこそ私たち、体を鍛えようとするのです。しかし、しばしば心が萎えると、体にまで変調を来たします。まして肉体には常に限界が付きまといます。どんなに鍛えようとも、死が待っています。死んだら、おしまいです。終わりの不安と恐れにいつもどこかで包まれている私たちです。傷つきやすい肉体は、ですから不安と恐れの象徴とも言えます。ある意味、復活してまで「見せる」ものではなかったと言えます。

 そんな体を、イエスはなぜ弟子たちにかくも執拗に見せたのでしょうか?あり得ない形で復活したなら、永遠に壊れない鋼のような肉体に変わっていたら良かったのに。せめて釘跡が嘘のように消え去り、すべすべのきれいな肌に蘇っていたら良かったのに、などと思ってしまいます。

 けれども、イエスが示した「復活」は、あくまでも「変わらぬまま、ありのまま」に生きるということだったのです。全く違う者として復活したのだとすれば、それは一人神のみ子のみに与えられた、他の誰も与れない特別な体験として、そこで終わってしまうことでしょう。そうではなく、復活は、誰にも与えられる生きた体験であったのです。

 例えどんなに弱くて、限界があって、不安と恐れの象徴である肉体であっても、その肉体をまとって生きている私たちである以上、それをもって生きるしかないのです。引き受けるしかないのです。他の生き方など決してできないのです。私たちは実は初めから弱さと限界と不安と恐れを抱いて生きる存在であるのです。イエスの復活を通して別人にされるのではない。なぜならば、私たちを作られた神さまは、弱さと限界を持っている人を見て、よしとされたからです。弱さと限界をよしとされたのではなく、それらを抱えながら生きることをよしとされたのです。復活は、嘘も方便のような出来事ではなく、愛の込められたこの上ない力強い励ましでした。

 イエスが執拗に体を見せながら、弟子たちに示そうとしたのは、弱くて、信じられなくて、限界も不安も恐れも大いに合わせ持つ人間を、なお許し、もう一度み前に立たせ、そのまま、ありのままで用いて下さる神さまの愛と力にありました。すなわち、復活という出来事は、もうアカンという諦めや絶望から、再び希望を繋がれる出来事だったのです。

 こんな自分でも生きている意味があるんだろうか。何かの役割を担えるのだろうか。自信のある人はそんなにいないことでしょう。十字架の出来事の前に逃げ去った弟子たちこそ、そう思ったでしょう。でもイエスはその問いに「肉体」を見せることを通して、答えました。すべて許され、用いられるのです。こんな私でも、誰かを支える存在になれる。隣人に仕えることができる。
改めて、イエスの復活を感謝したい、そして神さまの思いを確かに受け取りたいと思います。浅生さんはこうも書いています。「人は任されることで成長する。期待されることで新しいふるまいを身につけてゆく。」そうだと思います。
少し前、空気が読めない人はKYと言われ揶揄されました。復活のイエスに対し、弟子たちはあり得ないほど場が読めませんでした。その弟子たちにイエスは証人としての働きを託すのです。そして弟子たちはそれを足りないままに引き受けて行くのです。
場の空気は読めたら良いと思いますけど、良いんです、読めなくても。託されたものを、引き受ける者であれたら、そのほうがよっぽどよろしい。イエスは、足りない私たちに期待し、次を任せて下さいました。

天の神さま、今日のテキストの出来事を思う時、私たちは私たちにも復活の時が与えられている事を知ります。弱い時、くじける時、どうぞ繰り返しその事を教え、示し続けて下さい。