《日本国憲法第九条》 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。②前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 9条は普通に読めば、否定しようもない徹底的な平和主義宣言だ。
 5000人の給食に預かった人たちは、イエスの力に感動し、「王様」へ持ち上げようと、後を追った。
 一食の重みが大きかった当時の食事。イエスはそれをよく知っていたからこそ、「なくならない永遠の命に至る食べ物のために働こう」と群衆に呼びかけた。
 上馬キリスト教会の信徒が書いた「世界一ゆるい聖書入門」(講談社)は、ゆるい言葉で分かりやすい。
「わたしが命のパンである」と語ったイエスも、群衆に分かりやすいゆるい表現をしたのだ。だが、強さを求める頑なな彼らに理解されなかった。群衆ばかりか弟子たちすら去った。
 命のパンをいただけば、命の尊さを知ることになる。ゆるさは、したたかさの源だ。

<メッセージ全文>
 我が家のトイレに貼ってあるカレンダーの5月の欄に「それ行け 日本国憲法9条」と題した文言がこう書かれています。「戦争の放棄 戦力不保持 交戦権否認」という決意 人類最高の英知 「日本国憲法9条」は それを宣言しています 「日本を守る」から「世界の平和を守る」 世界のあらゆる国家の憲法に 日本国憲法の9条が活かされたら この地上から戦争は無くなっていく 必ず無くなっていく!」
トイレに入るたびに、それを読んでは勇気と元気をもらっている気がします。憲法9条を、素直にそのまま読むなら、確かにそう書いてあって、本当に人類最高の英知と思えて来るのです。

しかし残念なことに、解釈によっては自衛権は否定されていないという意見があって現在に至っていますし、そのために自衛隊の存在を書き加えて改正しようという動きがあることは、皆さんもご承知のことでしょう。

さて、今日与えられたテキストは、一言で言えば「イエスは命のパン」だということのイエス自らの宣言です。小見出しの通りの内容です。22節から始まって、71節、6章の終わりまでが実は全部それに関係する出来事として描かれています。さすがに長いので34節から40節までを読んでいただきました。

少し舞台を説明すると、場所はガリラヤ湖北部のカファルナウムという町です。6章初めに、いわゆる「5000人の給食」の出来事が記されていて、カファルナウムまでイエスを追ってやって来た群衆たちは、その給食に預かった人たちでした。59節に「これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである」とありますから、群衆はカファルナウムの会堂まで追いかけて来たということになります。

その彼等に向って、イエスは「はっきり言っておく」と強い口調で語っています。26節に「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」と記されています。
食べ物を調達しようもない場所に、大勢の群衆が押しかけました。そこで集められたのはパン5つと魚2匹しかなかったという状況でした。イエスが奇跡の力をふるったのは、寄る辺ない人たちへの深い哀れみからに違いありませんでした。

振り返って、福音書にはイエスが様々な人たちと食事を共にした出来事が幾つも記録されています。それは一つには、一緒に食事をするということが人間関係を作り深めるための大事な時間だったからだと思います。

ただもう一つには、当時食事を取るということが、現代の私たちとは比べ物にならないほど重要だったということがあるからだと想像するのです。例えば、今日はうどん食堂がない訳ですが、それで皆さん困るということは多分ないでしょう。帰りにどこかで食べる、或いは何かを買って帰る。或いはまた、帰ってから家で何か作って食べれば良い訳です。多少時間が遅くなったとしても、まあ大丈夫です。よほど空腹でなければ、たまに一食抜いたところでそれほどたいしたことではないでしょう。その分、夜に食べたら済むのです。

でも当時は違います。電気がないですから、食べ物を何でもかんでも保存したりできません。夜遅くなって調理したりする環境などありません。食堂や店があちこちにある訳でもありません。王様とか経済的に非常に裕福な人たち以外は、一食食べることがとても重要だったはずです。そもそもの貧しさのみならず、飢饉の年も結構あって多大な影響を受けました。毎日三度の食事を当たり前に取るという生活では決してなかったのです。

だからこそ、イエスの力によって5000人が給食された出来事は、私たちが思う以上のとてつもない出来事だったのです。それをまじかで見て経験したその人たちは、イエスこそ王にふさわしい人物だと驚嘆し、持ち上げたのは何も無理のないことだったのです。22節に「その翌日」とあるように、その出来事からまだ一晩しか経っていませんでした。興奮冷めやらぬ群衆たちは、いったんイエスたちと別れたはずでしたが、なお後を追いかけて来たのです。

その彼らにイエスは「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」と語りました。そのパンとは人の手によるものではなく、「神のパン」であって、世に命を与えるものだ、と説明したのです。
イエスは一食の重みを非常によく理解していましたが、それが豊かに満たされたことが今の事態を招いたこともよく分かっていました。だから「あなたがたが私を捜しているのは、パンを食べて満腹したからだ」と強く語ったのです。満たされた結果、彼らは強さを求めてしまったのです。

けれども、群衆たちには理解できませんでした。何度も言いますように、一食の重みが大変重かった時代でした。彼らにはイエスの語ったパンが、食事として食べるためのパンとしか受け入れることができなかったのでしょう。
だからこそ、なくならないパンなら「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」というお願いをしたのです。それに対してイエスは「わたしが命のパンである」と応えたのでした。
ところで、上馬キリスト教会の「世界一ゆるい聖書入門」という本が、メジャーの講談社から出されていて、結構売れています。おもしろいので、「右頬を叩かれたら、左頬も・・の本当の意味は?」という章をちょっとだけ紹介します。

「この言と並んで記されているもう一つの言があります。「一マイル行けと言われたら二マイル行きなさい」これだと、あんまり「迫害を受け入れる」感じはしませんよね。これらの言の意味は、「迫害から逃げるのではなく、積極的に受け入れてしまいなさい。そうしたら相手もビビるでしょ?」と、こんな感じの意味です。「無抵抗に受け入れる」のと「積極的に受け入れる」のとではニュアンスがだいぶ異なりますよね。
要するにこれは宿題にたとえるなら、「宿題を出されたら従順にそれをやりなさい」ではなく、「宿題を3ページ出されたら、さらに6ページやってしまいなさい」ということ、部活にたとえるなら、「腕立て伏せを10回やれと言われたら20回やりなさい」ということなんです。そうしたら宿題や部活を乗り越えて、相手が思うよりもさらに賢く、強い人間になるぞ。と、こういうことなんです。
ですからこの言はクリスチャンの優しさや従順さを示しているのではなく、クリスチャンのしたたかさを示しているわけです。クリスチャンって、一般に思われているよりもずっとしたたかに生きているんです。」

とあります。なかなか刺激的ですね。でイエスの言葉に戻ります。何が関係あるかと言って、「私が命のパンである」と語ったイエスも、少しでも群衆に分かってもらおうと、懸命に「ゆるい言葉」を用いたような気がするのです。人々にとって食べるためのパンがどれほど重要だったか、誰よりも知っていたイエスでした。だからこそ、そのパンより、もっと命のため、人生のために大切なパンがあると知らせたかったに違いありません。ここでイエスが語った「命」とはギリシャ語原文では「ゾーエー」という単語が使われています。心臓が動いて生物的に生きるという意味の命は「ビオス」という違う単語があります。わざわざビオスではなく、精神的な意味合いにおいて生きる命「ゾーエー」が用いられているのです。

でも、食べることの意味に捕らわれ過ぎた、しかも5000人の給食の出来事に触れて気持ちが高揚し、イエスを「王にしたい」と考えた群衆には、哀しいかな届きませんでした。イエスは、命のパンの意味を再三説明しましたが、群衆たちはついにはパンの意味から逸脱して、天からのパンなどと言ってるが、こいつはヨセフの息子じゃないかという血筋の話に流れが変わり、最後にはどうして人間の肉を食べることなどできようかという激しい議論になったのです。事は群衆たちだけに留まりませんでした。最終的にはイエスの弟子たちさえもあるじの真意が理解されず、66節には「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」とあるのです。

イエスは分かってもらうために、ゆるい話をしたと思います。頑なな群衆たちの心がそれを妨げました。「王たるにふさわしい」ものは、確固たる言動であり、堂々たる威厳でした。ゆるさは弱いのです。強さを求める時、普通に聴けば分かること、普通に読めば分かることがゆがめられてゆくのでしょう。

「腹が減っては戦はできぬ」と言います。何か事に当たるために、充分な備えが必要という意味合いで使われる言葉かもしれません。しかしもともとは「戦さ、戦い」です。
充分に食べることが、戦いのためであるなら、腹が減っているほうがマシです。弱さを抱えているほうが命に優しいのです。イエスが語った「命のパン」を食べるなら、それが分かるようになるでしょう。どこの誰でもが永遠の命に招かれているからです。どんな存在も等しく大事なのです。
実はゆるさにこそ強さが宿っているのです。それがクリスチャンのしたたかさの源だと思っています。

天の神さま、命のパンをありがとうございます。み子イエスに従い、共に交わり、いよいよその味をかみしめたいと願っています。そのように固く導いて下さい。