人間の恐怖感は、一つは先が読めない不安からもたらされる。だから事前にコースをよく頭に入れて、予習するとジェットコースターが怖くなくなるという。
テキストはカファルナウムの百人隊長が重病の部下のためイエスに頼った話。その信頼の深さを、イエスは最大級に褒めた。
映画「僕たちは希望と言う名の列車に乗った」。1956年、冷戦下の東ドイツで起こった実話。民主化運動の犠牲者のために高校生らが2分間黙とうした。たったそれだけのことが後にクラス閉鎖まで至る大問題となっていった。
エルサレムから偉いファリサイ派や律法学者たちがやって来て、手を洗わず食事した弟子たちについて、イエスを批判した出来事(マルコ7章)。これもやがて神の冒涜として、イエスを十字架へ追いやることに繋がっていった。
疑いと恐れはキリがない。それを打ち壊すのは「信頼」しかない。疑いを繰り返すのはダメ。隊長への賛辞の裏に、イエスが込めた思いがあった。
<メッセージ全文>
4月頭からざっと二か月、歯医者に通っていました。以前治療していた歯の詰め物が駄目になって新しく入れ替えたのです。歯医者が好きって方、まずいないと思います。私ももちろんそうで、先週治療が終わってほっとしましたけど、行く前はいつも気分が暗いです。何故かというと、怖いからです。原因は二つあって、一つは何をされているか自分で見えない不安です。もう一つは、痛いかもしれないという恐怖です。まあ昔の歯医者と違って、今は相当大丈夫ですけど、私は歯医者というところは、人間の恐れの象徴の場だと思っています。お世話になってて申し訳ないですが。不安と恐怖の二つが襲って来るところは、多分そうそうないですよね。
って言いながら、振り返ってもう一つありました。ジェットコースターです。私、ポートアイランドのジェットコースターに学生時代乗って、吐いたことがありました。目を開けておれないほど怖いので、乗る前にお酒を飲んだのが間違いでした。ともかくジェットコースターって奴は、先が見えない不安と恐怖の連続です。ちょっと前、「試してがってん」という番組で、それを乗り越えるコツを伝授していました。要するに、先が見えないから怖い訳で、事前にコースを調べて、どこで曲がるとかひっくり返るとか徹底的に予習して頭に入れておく。そしたら両手を挙げて楽しむことができるようになるそうです。なるほど、と思いましたが、一方でそこまでして乗るか?とも思いましたね。
さて、今朝与えられたテキストは、「百人隊長の僕をいやす」と小見出しにつけられた出来事でした。小見出しの通りの出来事でしたが、なかなかに興味深い出来事でした。百人隊長というのは、ローマ帝国の軍の部隊の一つの長のことです。百人という名前が付けられていますが、実際には80名で構成された小隊で、通常この小隊2つで中隊が作られていました。カファルナウムには、その駐屯地が置かれていて、国境の警備に当たっていたものと思われます。
更に、基本的にはローマの軍隊ですから、多少の例外を除いて、ローマの市民権を持つ者、ローマ人が隊長となります。ユダヤ人からすれば異邦人である訳です。もちろん、この隊長がイエスとこれまでに面識があったはずはありません。その彼が重病の部下のために、イエスのもとへ使いを出したのです。興味深いのは、そんなの出来事の中でさえ、両者は顔さえも合わせていないのです。
にも関わらず、イエスはこの隊長を最大級の言葉で讃えています。9節、「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」一体、会ったこともない百人隊長の何が、イエスをここまで感心させたのでしょうか?
もっともマタイによる福音書の平行記事では、最初隊長自身がイエスのもとに来たと記されていて、どちらが正しい記録であるか、よく分かりません。ただ直接来たかどうか、それがイエスの賛辞に繋がってはいないのです。マタイでもイエスの最大級の賛辞は記されています。
ルカの記録では、まずユダヤ人の長老たちがやって来たと書かれています。しかも、彼らが言うには、隊長はユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれた、として、部下を助けに来て欲しいと熱心に願った、とあるのです。
実はこの時点でイエスの思いは定まっていたでしょう。隊長の願いどおり部下の所へ行く、と。長老たちからあり得ない話を聞いたからです。ローマの軍隊は、ユダヤ人にとって恐れです。彼らは普段から威圧的に行動していたに違いありません。武器を持っています。表面上従わざるを得ません。が、内心は敵意の塊であったことでしょう。何か少しでも不満を募らせるなら、直ちに彼等が出撃して打ちのめすのは分かり切ったことです。これまで何度そんな仕打ちに合ったことだったでしょう。それが通常の外国の軍隊がなすあり様です。
しかし、この異邦人の隊長は、ユダヤ人を愛し、自分の宗教ではないはずのユダヤ教の会堂を、自分でお金を出して建てたというのです。そしてそれが事実であればこそ、その会堂の長老たちが使いを受け入れ、しかも代わりに熱心に願ったという、まずあり得ない話をイエスは聞かされたのです。
だから決意し、一緒に出掛けた。ところがごく近所まで来た時に、隊長は今度は友だちを使いに出して「御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません」と、イエスの来訪を自分から断ったというのです。そしてただ一言おっしゃって下さいと、言葉を希望したのでした。
これ、もの凄い謙虚、へりくだりという話でしょうか?それはあると思います。しかし謙虚ということだけではない現実がありました。彼は外国の軍隊の長である訳です。占領軍の一ポストの人間です。宗教も違う訳です。本来はそんな人物と交流すること自体、許されるものではありませんでした。家に招くのも招かれるのも、ローマ、ユダヤ双方がしないことでした。
隊長は自分と部下の関係を明らかに語っています。軍という権威のもとで構成された関係でした。そこでは上下の規律が最優先となります。上官の命令は部下にとって絶対であるのです。
部隊の中に、ユダヤ人との交友関係を持ち込むことは、軍の規律としてもしてはならないことだったでしょうし、イエスたちユダヤ人からしてもあり得ないことでした。そういうこの世的制約を熟知し、互いの立場を十分に考慮して、隊長はイエス自身の来訪を留めたものと想像します。そしてその制約の中でなお、部下のためにイエスの言葉を求めたのです。
さて、「僕たちは希望という名の列車に乗った」という映画を観ました。舞台は1956年、冷戦下の東ドイツです。まだベルリンの壁は築かれていませんでしたが、東西両陣営の関係は日に日に厳しくなる一方でした。ハンガリーでの民主化運動で犠牲者が出たというニュースを聞いたある高校の生徒たちが授業の初めに2分間、黙祷をささげたのです。それは多数決で決めたことでしたが、「誰が先導した」「主導したのは誰だ?」という当局の犯人捜しとなって行きます。自由行動を認め、そのまま放っておいたら社会主義がねじ曲げられるという恐れが大人を動かしました。まず教師の怒りを買い、校長の怒りを買い、やがて教育委員会がやって来る、ついには教育大臣がやって来る、予想外の大事件となって、ついにクラスは閉鎖されてしまうのでした。実話だそうです。
ちょうど水曜日の「聖書を学び祈る会」でマルコによる福音書の7章を学んでいまして、まさに同じことを知らされたばかりでした。イエスのもとにわざわざエルサレムから偉いファリサイ派や律法学者たちがやって来て、行動を監視するのです。カファルナウム近辺の出来事です。そして食事の前に弟子たちが手を洗わずに食事するのを目撃し、たちまち抗議をするという箇所です。確かにユダヤでは食事の前の手洗いは、常識であり大事な習慣でした。その文化は認識せねばなりません。しかしそれでもそれを守らなかったという誠に小さな事件が、どんどん膨らませられ、最終的にはイエスを十字架へと追い詰めて行くことになります。あなたの弟子は手を洗わない、常識を守らない連中だ。それは秩序違反に他ならない。それを放置することは神を冒涜することになる。恐れと疑いがエスカレートして行くばかりとなるのです。東ドイツの高校生たちの事件と全く同じ構造でした。
悪い妄想は本当にキリがありません。戦時中の日本だってまるで同様でした。誰彼となく天皇に成り代わって非国民を罰したのです。一度疑い出したら、みんながスパイのように思えて来る。家族でさえも危険分子のように感じられて来る。ジェットコースターどころの話ではないのです。どんなに怖くてもジェットコースターは数分で到着して決着が付きます。しかし人への疑いは、最終的には破局しかないのです。
百人隊長だって、同じだったはずです。悪く取るなら、どんなに表面上親切そうに行動したところで、しょせんはローマ軍の隊長に過ぎません。いつ裏切られるや分かったものではありません。親しく振る舞いながら、ユダヤ市民の生活を監視していたのかもしれない。疑いは本当にキリがないのです。
イエスですら、弟子たちから「お化けだ」「幽霊だ」と騒がれたと聖書は記しています。人間の本性というものには、ため息が出てなりません。無論、他者のことを言っているのではなく、私は自分自身の中にキリのない疑い深さを実感しています。物事、出来事のほんの切れ端をかじっただけで、自分で話を作って完結させてしまいます。例えば、たまたま一回道端で挨拶なしだった人について、あの人はいつもそうだ、実は俺を嫌っているのだ、などと妄想を膨らませ、挙句の果てに他者にまでそれを広めたりするのです。
あ~情けないとつくづく思います。今日のテキストでイエスは、そんなあり様をこそ否定したのです。人は勝手に妄想を膨らませる存在だけど、その実態を知った上で、知ったのだから二度目はダメだよ、と暗に語ったのです。繰り返してはいけないよ。恐怖、恐れのもとは実は自分の中にあると分かったなら、もう恐れなくて良いのだよ。
多くの場合、ユダヤ人に嫌われて当然のローマの百人隊長。だけど部下のためにこんな熱心に動いた人がいたのだよ。そのためにユダヤ人たる自分イエスを全面的に頼って、行動したのだよ。そこにあったのはただただ「信頼」だったのだよ。疑いや恐れを打ち壊すのは、信頼しかないのだよ。この隊長の誠実さ、信頼の深さ、これが今イスラエルで失われている姿だよ。よく覚えておこう。
賛辞の裏に込められたイエスの思いが確かにありました。
そして同じことを、イエスは今も語り続けていると思えてなりません。
天の神さま、新約の時代から2000年経っても、人間の中身、世界の構造が変わっていません。疑心暗鬼が世を覆っています。間にイエスを立てて、信頼を第一の姿勢にしたいと思います。その知恵と勇気を与えて下さい。