バイキング形式の食事は、その人の好みが如実に表されて興味深い。
テキスト後半は、「一つ」となって生きる信者の共同体が生まれた記録。それはペトロの証言によって「心を打たれ」、神さまの招きに応えた結果だった。
「心を打たれ」は、そもそも「心を刺され」という意味。人々には刺し貫かれるような衝撃と悔い改めが与えられたのだろう。
更に、「神に呼ばれるだろう人にはすべて」約束の聖霊が与えられるとペトロは語り伝えた。
それは一切の条件をつけない、360度開かれた神の招きだ。人間ではそうはゆかない。無条件の神の招きに裏打ちされたから、人々の応答が与えられたのだ。
そうして人々は「一つ」とされた。同じ食事であっても、それぞれ食べ方も食べる順番も違う。「喜びと真心をもって一緒に食事した」とは、そういう気づきが与えられたからに違いない。
同様に、「一つ」とは同じやり方を強制してなすものではない。違うことを認め、違いに気づく「一つ」だった。
私たちもそういう「一つ」を目指したい。

<メッセージ全文>
 今年5月にあった兵庫教区総会は、ご承知のように淡路島で行われ、Wホテルに一泊しました。さすがはWホテルというか、当然というか、部屋も良かったですが、朝ごはんがとてもおいしかったのです。これはもうみんなが言っていました。普段は朝ごはんを抜いている友人牧師などは、1時間半かけて5食分くらい食べた、と満足気でした。
いわゆるバイキング形式の朝食で、好きなものを好きなだけ各自が取って食べる食事です。これがたくさん作り置きしてあるタイプではなくて、全部じゃないんですけど、その場で作ってくれたりするのです。バイキング形式だとどうしても余分に食べてしまうのですが、余計でした。何をどれくらい食べるか、その人の好みが如実に現れて見えるので、光景が楽しかったです。

さて、今日読んだテキストは先週の続きになります。聖霊降臨の出来事のあと、ペトロが力ある証言をなしたのでした。一言で言えば、傍観者から主人公へと立ち位置を変えようという、強烈なお勧めだったと思います。証言の中で、ペトロは「あなたがたがイエスを殺した」と重ねて人々に迫りました。しかし責任を追及したのではなく、それは神の計画だったとし、死んだイエスを神はメシアにしたのだと語ったのです。

この証言に感動した人たちが、何と3000人もその日洗礼を受けて信徒に加わったというのが、テキスト前半の話でした。その数自体は真正な物か分かりませんが、とてつもなく多数だったろうということは分かります。それほどの衝撃が与えられたということでもあります。

そして後半には、信徒たちの新しい生き方が記されていました。44節からもう一度読むと、「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していた」、ただただ一つとなって行われた生活でした。

すべての物とは、文字通り一切合切のことです。土地など不動産も財産などの動産も共有し、分かち合ったというのです。まあまるで社会主義というか共産主義のお手本のような在り方がなされた訳です。そこに「一つ」ということが繰り返し強調されています。一つになって共有し、分かち合い、心を一つにして神殿に参り、一緒に食事をした。ほんの少し前までは想像もしなかった共同体がそこに生まれました。これなら年金も要らないし、2000万貯めなくてもきっと大丈夫でしょう。

決して皮肉で言ってるのではありません。共産主義の国でさえ、今や経済格差が物凄い現状を見ますから、例えいっときであれ、こんな分かち合いの豊かな共同体が生まれたのは凄いことだったと思うのです。奇跡と言っても良いでしょう。

この生き方への転換は、言うまでもなく先に語られたペトロの証言によるものです。37節に、「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ」とありました。心を打たれたと訳されている原語カタヌッソーの元々の意味は、刺す、刺し通すというものです。貫徹するという意味もあります。「あなたがたがイエスを十字架につけた」と率直に語ったペトロの証言を聴いて、彼らは心を強く刺された、刺し貫かれたのです。

その上で、聖霊は、「わたしたちの神である主が招いて下さる者ならだれにでも、あたえられているものなのです」とペトロは強調しました。もう少し直訳すると、「私たちの神なる主が呼ばれるであろう人びとすべて」となります。神さまが呼ばれるだろう、呼ばれるに違いないすべての人々に聖霊が約束されるとペトロは語ったのです。

これが人間ならそうは行かないでしょう。招くためには、必ず条件が付きます。年齢や学歴や性別や何やかや。その応募条件を満たす人を、更に選別するのが通常のあり様です。しかしペトロは今やイエスの生前の言葉を深く刻んでいました。「あなたがたが選んだのではない。私があなたがたを選んだ。」しかも、選ばれるにどう考えても相応しくない自分を、ペトロは誰よりも自覚していたに違いありません。裏切った私こそ招かれるはずはなかった。しかしこのように用いられている!人間のつける条件は神さまには当てはまりませんでした。神さまは360度オープンでした。この広く深い心の解放と受け止めがあって、ついに人々の応答がなされたのです。

今年1月末、教区の礼拝交流でS教会に行って来ました。S教会の建物は、もともと布団屋さんだった店舗を買い取ったものです。今もその名残のままに使っているので、初めて行って、驚きました。礼拝堂の中が道路から丸見えなのです。道路に面した片側が全部ガラスでした。人によっては引いてしまうかもしれませんが、まさしく「開かれた」教会でした。

心を突き刺され、開かれた神さまの呼びかけに集められた人々が一つとされました。

自分たちが決断し、自分たちで団結したのではありません。一つとなるようにされたのです。高知出身の漫画家で、西原理恵子さんという方がいます。家庭環境があまり良くなく、若い頃荒れたそうです。でも、高校を強制退学になった日に、二番目の父親が、家できちんと着物を着て待っていて「世界中の人がお前を悪いと言うなら、世界中が間違うとる」と言って、ひしと抱きしめてくれたといいます。条件をつけないとは、例えばそういうことだろうと思うのです。無条件に受け入れられる経験を持つと、自分を変に卑下することも、過大に評価することもなくなるのでしょう。「ただし○○」という条件がつけられた招きであったら、一つには多分なれないことでしょう。

 ですから「一つ」とは、同じことを意味しません。バイキングの話を最初にしました。一緒に食事をすると、一人ひとりが違うことを発見します。例え同じ物を食べたとしてもそうです。食べ方、食べる順番、みんな違うのです。

 この頃、同じものも食べられない人がいることを強く意識させられています。発端は、私の娘です。最近になって分かったのですが、小麦粉アレルギーがあることが判明しました。小麦粉って結構色んな料理に使われているので、娘だけ違うものを食べざるを得ないことがしばしばあるのです。可哀そうに思います。

 アレルギーでなくても、信じる宗教によって、食べてはいけないものが定められていることがあります。良い悪いとかの問題ではなく、その人の生き方の問題ですから、ただ受け入れるのみです。相手を認め、違いを受け入れながら共に食事するのです。

 こうして一緒に食事をするということは、何も同じものを、同じ作法で、同じ在り方で食べるということではなくて、むしろそこでこそ違いを発見し、違いを教えられる場であるのです。実は食べ物のことだけに留まらず、食べる人そのものが違う存在であることを知らされて行くのです。

 一つということは、押しなべてそうで、違いがあってなお一つということなのでしょう。一つであるとは、同じ在り方・同じ方法を強要されることではないのです。同じことをするから一つなのではなくて、違うことをしても一つ。違う存在を教えられる大事な場所に立つことが「一つ」、「一つ」にされるということなのでしょう。喜びと真心をもって一緒に食事したとは、そういう喜び、隣人に対する真心という事だと思います。

S教会に到着した折、ちょうど子どもの教会の時間でした。スタッフの方が、大きな絵を持って、何かを説明していました。後でそれは地球の歴史という壮大な話だと知らされましたが、その時は内容を知りませんでした。スタッフが一生懸命話している最中、一人の子どもが後ろを振り向いて、鼻をほじっているのが見えました。おいおい、外に丸見えやで、と一瞬思いましたし、行儀悪いでとも思いました。がすぐに、でも見えていようがいまいが、自然とそこにいることを受け入れられている空間なんだ、と悟りました。

 先週も語りました。聖霊は外から与えられるやる気スイッチ、力のようなものと言いました。自分で変える力ではないのだと改めて思います。その力は、条件をつけず誰をも招く、360度オープン、「無条件」という神さまの開かれた姿勢に裏打ちされて与えられるものなのでしょう。同じ背景のもと、私たちもまた招かれており、招かれてここに集っているのです。

 香港と香港の教会を支える緊急集会で、紹介がありました。何万人規模のデモとなると、当然トイレも必要ですし、休憩所も不可欠となります。香港の教会は、24時間オープンにして、その場所を人々に提供したそうです。
 私たちも、そんな「一つ」を目指したいと思います。

神さま、あなたの無条件の招きを心から感謝します。違いの分かる「一つ」のために、
聖霊を豊かに注いで下さい。