挫折感にも、A:頑張った末あと一歩足りなかった。B:中途半端で後悔をひきずる。の2種類があると思う。
テキストの主人公フィリポはタイプBではなかったか。初の殉教者が出たあと、エルサレムの教会に大迫害が起った。使徒をのぞいた人々はユダヤとサマリアへ散った。散ったとは「逃げた」ことを意味する。
使徒のうちフィリポだけが、仲間を見捨てるように安全なサマリアへ逃げた。その地での伝道が大きく実を結んだので、エルサレムからペトロとヨハネがやって来た。
裏切り、逃げ出したことの後ろ暗さに耐え兼ねて再び逃げたガザへの寂しい道行で、不思議な出会いが与えられた。エチオピアの高官も救いを求めて暗い思いを抱えていた。彼から「手引きしてくれる人」と声をかけられ、初めて自分をガイドし続けたイエスに気づいた。
その後もエルサレムから離れて行く町々で伝道を続けたフィリポだった。しかしそこには真のガイドがいつも共にあったことだろう。
逃げず真正面からことに向かえれば幸いだ。だが、後ろ向きであっても、逃げても用いられる。イエスは生前語った、「安心して行きなさい」と。。

<メッセージ全文>
 人生で挫折を味わったことがない、という人はそういないと思います。誰でも少しは挫折感に打ちひしがれた経験があろうかと思います。

 ただし、それにも種類があって、例えば大きく分けて2つのタイプがあるように思うのです。一つは、懸命に努力して、後もう一歩のところで手が届かなかったという挫折感です。これをAタイプとします。そしてもう一つのBタイプは、中途半端に終わってしまっていつまでもひきずるという挫折感です。

 私などは典型的なBタイプなので、夢やら目標に向かって最大限の努力をしない、というかできないのです。だから想像でしかないのですが、懸命に頑張って手が届かなかったら、どんなに悔しいだろうと思うのと同時に、頑張った結果無理だったなら、スパッと気持ちが切り替えられるのではないか、そんなことを思ったりもします。あくまで想像です。

 面倒なのはBタイプです。さしたる努力もしないくせに、やったらできたはずなどと妄想して、諦めきれない。実際、到底無理なのに、現実を受け入れられない、認める勇気もない。本当にやっかいです。

 今日与えられたテキストの主人公フィリポが、まさにこのBタイプだったと言えます。
8章の冒頭を読むと、エルサレムの教会に大迫害が起ったと書かれています。約束の聖霊が与えられ、分かち合いの共同体が誕生し、麗しい生活が続くものと思われました。それが破壊されたのは、当局による教会への迫害によりました。それもただの迫害ではない、「大迫害」だったのです。イエスに続いて、ついにステファノが人々から石を投げつけられ命を失いました。初の殉教者です。

 そうして、8章1節にあるように、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った。散って行ったと訳されていますが、要は逃げたのです。そのうち、サマリアに逃げた一人がフィリポでした。5節に「フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。」とあります。

 偶然サマリアにたどり着いたということではなかったでしょう。知られているように、サマリアはユダヤ人の嫌う地方でした。まず普通は付き合ったりしない間柄です。互いに近寄ったりしません。ですから、たまたまサマリアに行ったのではなく、そこなら当局の追跡から逃れられるという明確な算段があって、そこへ行ったに違いないのです。

 ここで1節の記述を今一度思い浮かべたいのですが、エルサレムの教会に大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った。大迫害が起って命を守るためではあったのですが、皆蜘蛛の子を散らすにように逃げた訳です。それは当然のことで、誰も責めることはできません。むしろエルサレムに留まった使徒たちのほうがおかしいとさえ言えます。でもきっと恐れのうちにも力を与えられ、使徒たちは勇敢にもエルサレムに留まったのです。フィリポ以外は。

 フィリポもこの12弟子の一人でした。12弟子であっても、その生涯や歩みは詳細には分かりません。でもフィリポは、漁師だったペトロたちや徴税人だったマタイに並んで、イエスから声をかけられ弟子とされたことがきちんと書かれている(ヨハネ福音書1:43)、数少ない弟子の一人であるのです。

 他の弟子たちがエルサレムに留まる中で、一人フィリポは逃げました。それもサマリアへ。そこでキリストを宣べ伝えたというのです。ここが大変興味深いのです。というよりも、どうしてそこで伝道活動となるのか、不思議な気がします。彼は他の十二弟子たちをある意味見捨てて逃げたのです。そもそもあるじイエスを見捨てて逃げました。その裏切りは、イエスの十字架と復活を通して赦されました。聖霊が与えられて、例えばペトロやヨハネたちは、かつての弱さが嘘だったかのような、非常に目覚ましい働きをする人へと変えられました。二人ほどではなくても残りの弟子たちも同様であったはずでした。12弟子以外の人たちはいざ知らず、今大迫害という未曽有の危機の渦中にあって、12弟子はエルサレムに留まる決意をなした。みんなで心を一つにして、危険を顧みずに戦い抜こうと誓ったのかもしれません。

 それなのに一人、フィリポはサマリアへ逃げたのです。二度目の裏切りとも言える行為でした。常識的に考えるなら、もう弟子、少なくとも使徒と呼ばれるには相応しくない立場ではないでしょうか。逃げたこと自体は、致し方ないとしましょう。でも、仲間たちが危険なエルサレムに残っているのに、逃げて来た自分は安全なサマリアで伝道するとは、どういう神経なのでしょうか。

 結果から言えば、このサマリアの地で、フィリポの伝道は大いに実を結ぶのです。病人の癒しも行って、大変喜ばれたのです。あのサマリアで。その奇跡的な結果がエルサレムにもやがて伝えられました。そこでペトロとヨハネがサマリアに派遣されることになります。いわば様子を確認しに行ったということでしょう。

 フィリポからしたら、エルサレムから筆頭弟子のペトロとヨハネがわざわざ来たのですから、結果論とは言え、自らの伝道活動の成功を恥じることはなかったと思います。人間的に言うなら、誇っても良かったかもしれません。にも関わらず、フィリポの心を占めたのは、自分は裏切って逃げたという引け目、そして中途半端な者が本来はもう捨てるべきだった伝道に携わってしまったという後ろめたさではなかったか、そう想像するのです。

 だから、彼はまたサマリアから逃げ出したのです。それが今日のテキストの出来事です。ペトロとヨハネは何もフィリポを叱りに来たのではありませんでした。むしろ手助けに来たのです。でもフィリポは自らの後ろ暗さに耐え兼ねました。天使からのお告げに従った道行とは言え、ガザへ下る寂しい道は、当時のフィリポの心情に全くはまった道だったと言って良いでしょう。誰に会うこともない、ガザへの寂しい道のりは、中途半端な自分の恥ずかしさを慰めるにぴったりの行程でした。

 ところがそこがまさに天のみ使いの示しだったのです。誰にも会うことがないはずのその道行に、もう一人中途半端の後ろめたさを抱えて悩む人間がいたのです。エチオピアの高官でした。彼は女王の全財産の管理をしていたとあるほどの位の高い人でした。しかし一方で宦官であり、何かしら救われない思いを抱えて生きて来たのです。それでエルサレムまで礼拝に来た、しかしユダヤ教の厳しい規定によれば、彼は救いに預かれる立場になかったのです。この人にとっても、暗い思いを抱えての帰り道でした。身分の高い人ですから、本来は堂々と人通りのあるメインの道路を通れば良かったのです。でもその気にはとてもならなかったのでしょう。

 またしても逃げて来たフィリポにこういう人との出会いが備えられました。彼は高官から馬車に乗って読んでいたイザヤ書の説明を求められるのです。そして「お分かりになりますか」と問うたフィリポに「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と答えたのです。

 この高官の返答で恐らく初めてフィリポは、自分が用いられていることを実感したのではないかと思います。ずっと逃げて来ました。足りない中途半端さを恥じながらの伝道でした。半分伝道ごっこのような忸怩たる思いもあったかもしれません。フィリポに手引きを求めたのはエチオピアの高官でした。でも自分こそ手引きが必要だとこの時強く思ったのです。思いがけず自分を手引きしたのはこの高官でした。しかも真の手引きは既に与えられていました。イエスと言う名のガイドです。

 翻って、聖書には実のところ逃げ出した人たちがたくさん登場します。ヤコブはお兄さんであるエサウを騙して逃げました。モーセはエジプトの追及を恐れてミディアンに逃げました。エレミヤは自分はまだ若いと神さまに言い訳して逃げましたし、ヨナはニネベの町へ行きたくないので逃げました。フィリポやペトロたちはあるじを見捨てて逃げました。しかし、彼らは皆、逃げたところで神さまから用いられて働きをなすのです。
決して自ら望み、決意し、勇躍選んだ道で全うしたのではなく、逃げた場所で後ろ向きで何かをさせられて行ったのです。ですからある牧師はこう言い切っています。「逃げることは信仰の始まり」だと。

 この時フィリポは高官に洗礼を授けて別れました。40節に「フィリポはアゾトに姿を現した。そして、すべての町を巡りながら福音を告げ知らせ、カイサリアまで行った」とその後のことが書かれています。アゾトと言い、カイサリアと言い、エルサレムから見て、どんどん離れた地であるのです。使徒言行録21章を読むと、地中海沿岸の町であるカイサリアにパウロが行った時、福音宣教者フィリポの家に泊まったということが記されています。彼はどんどんエルサレムから離れながら、悪くいうと逃げながら、しかしそこで用いられて諦めることなく辞めることなく、歩んで行くのです。

 これ、福音宣教のことのみではきっとありません。私たち、人生において課題や目標に真正面から取り組み、大胆に闘い、打ち勝ち、乗り越えることができたら、それは素晴らしいに違いありません。けれど、いつもどこでも誰でもそうできるとは限りません。私たちはそう強くないからです。

 でも逃げた場所で用いられる。後ろ向きであっても託される。どんな人にもその人に合わせたガイドが与えられる。それが私たちのキリスト教であり、あるじイエスであるのです。イエスは自分に自信がなく不安を抱えている人にいつもこう言われました。「安心して行きなさい。」

神さま、イエスと言う名のガイドをありがとうございます。あなたはどんな人にも、その人に応じた手引き、導きを備えて下さいます。どうかその力に助けられ、例え逃げながらでも用いられる人生を歩ませて下さい。