余りにも疲れ果て、空腹も忘れて、ただ眠るほかないことがあると知らされる。
テキストはパウロの長い話に眠りこけ、挙句に3階から落ちて死んだとされた青年の話。
もともと、それは食事会のはずだった。青年も含め、食事に誘われて参加した人が多数だったのでは。
晴佐久昌英神父が「福音家族~神の国の一緒ごはん~」という講演で、「いつもの食卓があるから最後の晩さんが成立する」と語っている。一緒に食事することの大切さ。パウロだって分かっていたはずだ。
ところがその町最後の夜だったので、つい力が入り過ぎで話が長くなったパウロ。慌てて青年に覆いかぶさってみれば、どうやら空腹だったと悟っただろう。
回復した青年もともに後の食事に与れたとすれば、これほど幸いなことはない。
延命拒否を告知された患者に、心臓マッサージの真似事をして仕事とする救急隊員の切ない話。生死の境目をつなぐ発露の業だ。
真に生死をつなぐ方は、言うまでもなく神である。その業の一端に私たちが用いられるなら、本当に幸いに思う。
<メッセージ全文>
今月3日に開いた釜ヶ崎公民権運動の運営会議のことです。メンバーの一人にHさんという人がいて、彼は釜ヶ崎に住んでいる日雇い労働者です。その日の会議の一番大事な議題は、前回の会議で彼が発案した集会についてでした。
ところがいつも必ず出席するHさんが来なかったのです。欠席するという連絡もありませんでした。大事な議案を協議することができず、普段より早く会議を終了しました。
その会議中もそうですし、終わってから行ったお店でも、仲間たちが何度もHさんのスマホに連絡を入れたのですが、繋がらず、返信もありませんでした。
そのうち、昨日は会ったという人が、何か妙に疲れてた様子だったと言いました。それをきっかけに、そう言われるとHさん最近痩せたよな、という話になって、みんな頷いたのです。Hさん、もともとやせ型の方で、余りがっつり食べるほうではないので、みんな段々、何か病気じゃないよねって、深刻に心配したまま別れることになりました。
結果から言うと、Hさん疲れ果てて寝てたのです。その日のうちに幸いにも連絡がついて、とにかく空腹も忘れ、会議のことも忘れ、死んだように眠りこけていたそうでした。まあ、一安心、ほっとした次第でした。
私など、ご飯も忘れるほど疲れ果てるという経験がほとんどないのですが、釜ヶ崎の日雇労働にもかなり幅がありまして、今日は当たりやったとか外れやったとかの話を時どき聞きます。外れた時は相当しんどいのです。Hさんほどのベテランであっても当日の仕事内容では、きつい厳しい作業を一日こなさねばならない時があるのです。それも結構しょっちゅうあるようです。
さて、今日与えられたテキストは、パウロの長い説教に疲れて眠りこけて、3階から落ちた青年の出来事でした。その青年の名前がエウティコと言って、これ「ラッキー」という意味の名前なのです。落ちて死んでどこがラッキーか、その意味では不謹慎ですが、その原因がパウロの長い説教だと言えば、牧師としては自分を自戒するための面白い出来事だったと思います。4年前の7月にもこの箇所でお話ししました。教団の聖書日課では旧約、新約それぞれ2か所が定められているので、別の箇所を選んでも良かったのですが、余りにも面白いので、結局この箇所にしてしまいました。
7節にあるように、トロアスという町に一週間滞在し、翌朝次のアソスという町へ出発するという晩の出来事でした。その町最後の夜ということで、パウロはよしと力が入っていたのでしょう。或る先輩牧師が、この時のパウロの様子を描いています。「パウロは最後の晩なので、大いに語った。説教は大いに語ってはだめだ。気張れば気張るほど長くなる。実に迷惑なことである。」・・・・。ほんまにそうですね。「パウロの話が長々と続いたので、ひどく眠気を催し、眠りこけて3階から下に落ちてしまった」、この9節の記述を読む度、必要以上に気張ってはならないと戒めます。
そもそも、この晩の集会は、第一の目的は食事会だったはずでした。7節はじめにちゃんと書いてあります。「週の初めの日、わたしたちがパンを裂くために集まっていると」と。パンを裂くため、とは言うまでもなくイエスを思い起こすための、今でいう聖餐式の意味合いが込められています。でも当時のその式は、ただパンとぶどう酒の儀式なのではなくて、ともかくみんなで食べる食事会であったのです。イエスを偲びつつ、共に食事会を催したのです。
昨年の7月、東京で行われた超教派のとある集会で、カトリックの晴佐久昌英神父が「福音家族~神の国の一緒ごはん~」という題で講演されました。全部を紹介できませんが、タイトルどおり、一緒にご飯を食べることがどんなに大事なことかを懸命に語られました。その一部を少し紹介します。
「皆詰めかけてでも、一緒に暮らして、一緒にご飯食べて、一緒に祈って、それはもうカトリックとかプロテスタントとかどうでもいいですよ。神さまが結んでくれるその仲間たちと、本当にキリストを中心とした食卓を作ることこそが大事なんです。そのいつもの食卓があるから最後の晩さんも成立する。いつもの食事なしに何が最後の晩さんでしょうか。聖餐式だとかミサだとかって、最後の晩さんの記念ですとかって言ってるけど、いつもの晩さんなしに何で最後なの。それは最後の晩さんとは呼びません。」
相当にぶっ飛びの話をされて、聴衆からは拍手大喝采だったそうです。でもその通りです。パウロたちもそのつもりで、その日の夕食会を予定していたはずでした。ところが、さっきも言いましたように、食事会がメインなのに、最後の夜でつい力が入ってしまって、余りにもしゃべり過ぎたのでしょう。実に迷惑な話です。
青年エウティコからすれば、もちろん他の多くの人たちもそうだったでしょうけど、食事会だからこそ、期待して集まったに違いないのです。一日の厳しい労働を終え、疲れた体をひきずって、みんなで晩御飯が食べられると思って、その家に集まった。
それなのに、パウロの話がやたら長い。恐らくはなからほとんど聞いていなかったのでは、と想像します。そうでなくても疲れているのに、空腹が追い打ちをかけます。そうして眠ったまま落ちたのです。
3階から人が落ちたとなると、一大事です。すぐさま誰かが駆け寄り、容体を見たことでしょう。それは医者だったルカではないかと言われています。その見立てでは「死んだ」としか思えない状態だったのでしょう。
でも普通の状態で落ちたのではなかったのです。これぞラッキーでした。空腹も手伝って、疲れ果て、体が非常に柔らかい状態で落ちた。それで傷つくことから免れたのではないか、そう推測します。
もちろん、他の誰よりもパウロが慌てたのです。もう死んだと誰かが言おうと、それが仮に医者のルカの見立てであろうと、関係ありませんでした。済まん!調子に乗ってしゃべり過ぎた!もともと食事会だったのに、俺は何という事を!などと思ったかどうかは別にして、ともかくパウロはエウティコを抱きかかえたのです。10節に「彼の上にかがみこみ、抱きかかえて」とありますが、かがみこみとは、覆いかぶさってという意味です。心から心配してそうしたのです。
ところが、これは勝手な想像ですけど、もしかしたら抱きかかえた時にエウティコの腹の虫がぐ~とでも鳴ったのではないでしょうか。パウロはつくづく自分の長話が原因だったと瞬時に悟ったことでしょう。慌てふためく人々に「騒ぐな、まだ生きている」と冷静に叫んだのは、食べさせれば大丈夫という確信が与えられたからだと思います。
実際、11節に「そして、また上に行って、パンを裂いて食べ」と続けられています。詳細は書かれていませんが、意識を回復したエウティコもその食事に一緒に預かったのだとすれば、再び元気を与えられ、共に食事をする喜びに満ちて、その後の夜明けまで続いた話に付き合うことができたのではないか、そう思うのです。
この時、多くの人が一瞬、もう駄目だと諦めたかもしれません。だって3階から落ちた訳ですから。でも繋げられた。空腹だったことがかえって良かった。そのあとエウティコも一緒になって食事ができたとすれば、落ちたことすら食事どきの大笑いのネタになったかもしれません。これほどのラッキーはないでしょう。
救急隊員の切ない話を最近聞きました。心肺停止で駆けつけたものの、生前から延命措置を拒否していて、家族からそれを通知されることがあるそうです。そうすると隊員は呼ばれたにも関わらず、何もできないのです。隊員からすれば、今なすべきことは心臓マッサージをし、人工呼吸をし、ただただ目の前の命を生かすこと、それが使命であり、働きであるのに、それができない。だからと言って何もしないこともできない。苦渋の選択の中で、彼らは真似ごとをしばらくやって終わりにするというのです。マッサージの真似事。或る意味空しいけど、そうするしかない、そうせざるを得ないそうです。
しかし私は、それを空しいとは思いません。生かすことはできなくても、暖かい心の配慮です。生死をつなぐ作業だと思われます。諦めないという思いの発露でもあろうと思うのです。
皆さん、これまでの人生で、「もうあかん」「もう死んでしまいたい」と思ったことがきっと誰にもあると思います。私にもあります。あかん、死にそうやわ。そうつぶやいた私に、「でも生きてるやん。生かされてるやん。」と言ってくれた人がいました。思わずハッとしました。実にささやかな一言ですが、真実でした。
もし本当にそこで終わりだったら、誰もここにいないはずです。自分の小さく狭い見通しで、もう終わりだと思ったとしても、決して諦めない方によって繋げられ、生かされる。そういうことが確かにあるのです。例え自分は諦めても、少なくともクリスチャンは「神さまは諦められない方である」ことを忘れてはならないでしょう。
生死の境目を本当につなぐのは言うまでもなく神さまです。それは忘れたくない。でもどんなにささやかでも良いから。私たちが誰かの命をつなぐ業に用いられるなら、用いて欲しい。生死の境目をつなぐ、小さな働きをなす者として用いて欲しい。心からそう願います。
天の神さま、あなたこそが私たちの命をつなぐ力です。感謝します。み心であれば、その業の一端に私たちを用いて下さい。