景観を損なうという理由で、大学から立て看板が撤去されている。ひと昔前は、学生たちの存在の証しのような立て看板だったが。
ガラテヤに教会が生まれ、何年か経った。現代とは仕組みが違う。必然的にこの世的価値から人が選ばれ用いられることもあったろう。
パウロの忠告の言葉から、「自分をひとかどの者と思う」存在が、分かち合いをしないでのさばっていたことが想像される。今日の教会でも注意せねばならないだろう。
辛淑玉さんのドイツからの通信が非常に面白い。例えば日本の「ヤンキー」は、ドイツでは余りにも普通で、問題にもならない。日本での理解は一方的で一面的なことの一例だ。
パウロは更に、「互いの重荷を担い合え」、「めいめい自分の重荷を担え」と相反する勧めを説いている。それはパウロの心に立てられた教会人としての看板である。
大谷大学の駅公告看板から、大学からの強い訴えと姿勢を教えられる。
私たちも、高邁な理想に裏打ちされた「ここに立つ」という教会の看板を打ち立てよう。

〈メッセージ全文〉
30数年も前になります。鳥取の地方大学を出て、同志社に入学した時、ああ都会の大学ってこんなんや!って驚いたことが2つありました。一つはチアリーダーがいたこと。単純にすげぇと思いました。もう一つは、正門から神学館に至るまでの両脇に大量の立て看板がずらっと並んでいたこと。立て看は鳥取でもありましたが、とにかくその量の違いに圧倒されたものでした。
京都市の景観条例に違反するとして、今春、京都大学では大学周辺の立て看板を禁止しました。反発する学生たちとのいざこざは今も続いているようです。私学の同志社では、とっくの昔に立て看の許可制が導入され、徹底されています。今は余り目立たないところに許可されたものだけが少量立てられている程度となっています。だからキャンパスが異様にきれいです。私がいた頃は、ほとんどどこでも喫煙可でしたので、神学館前には多数の神学生がゴロゴロしてタバコを吸っていて、異空間のようでした。
今は別の意味で異空間になっています。いつ行っても、キャンパス訪問する中高生たちの集団に出会います。修学旅行で来たらしい一群が、旗を持ったガイドさんに先導されて歩いていたりして、言葉は悪いのですが、一種のテーマパークというか、お子ちゃまランドに見えたりします。

 時代と言えば時代です。いいとか悪いとかではないのです。ただ、確かにごちゃごちゃしていて、乱雑・猥雑だったけど活気もあった当時を知っている旧人類の私などは、かえって将来が心配になるのです。多数の清掃職員や警備員を雇って自転車はきれいに並んでいるし、訳の分からない人物はまず見ないし、ごみ一つ落ちていない美しいキャンパスを眺めながら、ここから何かが生まれ出るのだろうか、と思ってしまうのです。とりわけ、共に戦おうとか、○○館○○教室へ集合せよとか書かれていた立て看板が全くないキャンパスで、学生たちは皆スマホ見ながら歩いていて、訴えも声も聞かれない、これで大丈夫か、と不安にさえなる訳です。

 組織を作ると、人はどうしても原初の乱雑感から抜け出して、洗練さ・スマートさを求めるようになるものです。当初は何をするのもシンプルだったものが、様々ルールが取り決められて、次第に複雑化して行くことにもなります。多くの場合、見えるところが整理されて行くのです。

 今日与えられたテキストの文章中、気になる箇所が幾つかあります。例えば3節、「実際には何者でもないのに、自分はひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。」、6節、「御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。」

 他にもありますけど、この二つだけを取ってみても、ガラテヤの教会に起こっていたことが相当に想像されます。ただし、6節の「持ち物をすべて分かち合いなさい」は良い訳ではありません。持ち物ではなく、「すべての良い物」を分かち合いなさいという訳が正しいです。

 ガラテヤに教会が生まれて何年か経ちました。もちろんまだまだ現代のような教会とは違う、家の教会でしたし、原始教会でもありました。しかしだからこそ、誰かの家を教会として集まるための、特別なルールも決められて行ったに違いありません。きっとそこに普遍的な根拠はなかったろうと想像します。この世的な取り決めが進んだのです。また、司祭とか牧師とかの職業的身分も何もなかったのですから、必然的に声の大きな人が用いられて行く構造となったことでしょう。
「実際には何者でもないのに、自分はひとかどの者だと思う人」が出現したのです。
そして、御言葉を教えてくれる人に対して、表面上だけの軽い扱いをしたものと思われます。こういう思い違い・勘違いの人に限って、物事を一面的に、一方的に、この世的に見がちなものです。ですから教えられることに対して、良い物を分かち合うことをしません。悲しいかな、それは今現在に至っても同じですし、こうして偉そうに分析して語る私自身が最も注意しなければなりません、と思っています。それこそパウロもよく分かっていますから、「あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい」と1節で語っています。

 在日三世で、人材育成コンサルタントの辛淑玉(シン・スゴ)さんという方がいらしゃいます。現在はデュッセルドルフ大学の現代日本研究所の研究員としてドイツに在住しておられます。ドイツからと或る雑誌に、「どたばたドイツ日記」という連載をしているんですが、髪を染めて来た同僚に、他の人が「なんか、ヤンキーみたい」と何気なく言った一言にドイツ人がそれどういうこと?って反応した時の記事がありました。

 その「ヤンキーって何?」という問いにシンさんたち日本スタッフの何人かが返答するのです。例えば「ヤンキーって、髪を染めてる学生」。すると学生であれ、髪を染めようが、ピアスしようが服装も自由なドイツ人は全く理解ができないのです。「何故それが駄目なの?」そこで「教室の黒板壊したり、授業に出ずにへたってだべったりする人」
とか答えると、これまた一方的な授業をしないドイツで、移民も多くて、黒板が壊れることが別に特別なことではないので、また理解できない。「お酒を飲んで~」とか言っても、16歳から飲酒OKのドイツでは問題外。要するに変わった奴ということを言いたいがため必死に説明する訳ですが、ことごとく通じない。最後に仕方なく「とにかくみんなと違うことをする人」って、もうだいぶヤンキーの定義からはずれた説明をすると、「ああ、まじめに授業に出て勉強する人のことだね!」と返されたというのです。なかなかに笑えます。

 この文章には「日本のヤンキーはドイツのカタギ」という題が付けられています。日本で「ヤンキー」は、ちょっとしたやんちゃな存在で通っている訳ですが、ドイツではそうは行かない。おかしくも何ともない普通の子でしかないのです。少なくともドイツと比較した時、日本だけでしか通じない、全く一方的な、一面的な理解があるということの、一つの具体例であるでしょう。

 ただ、最後に書かれていた、ドイツの「子どもの頃から徹底的に自分の尊厳を教えられ、主張することを学んでいるのだから」という文言が、とても心に残りました。「自分の尊厳を学び、主張すること」、これは人として最も大事なことです。命の尊厳を知らないと、当然命を軽んじることになります。自分の命も他者の命もです。そうなら、その大切さについて発言するということには繋がって行かないでしょう。ドイツでは、それを学んでブレがないということでした。本当は日本でもそうであるべきことです。

 今日のテキストで、パウロは一見矛盾する二つの言葉を語っています。一つは2節の「互いに重荷を担いなさい」という言葉であり、もう一つは5節の、「めいめいが、自分の重荷を担うべきです。」という言葉です。言葉だけ読んだら、相反する言葉です。でもきっとパウロ自身には何の矛盾もないし、ブレもないことでしょう。これは人に対して一面だけを見て判断しない、立体的で多角的な人間理解のお勧めだからです。
お互い仲間の抱える課題を知って分かち合うこと。しかし同時に自分自身の課題は人任せにはできない。しっかりと自ら担わねばならないということ。一人でもやらなければならないことがあり、一方で一人では大変だからみんなで一緒にやる。これこそが教会に集う者の大切な姿勢だからです。無論本来は教会だけではないと思いますが、これが、この時パウロの心に立てられた看板の文字であると思うのです。

 最近、阪急「御影」駅の広告看板に、大きな文字で「無知は罪か」と書かれているのを見ました。大谷大学の広告でした。即座に、知ろうとしない無知なら、やっぱり無知は罪だろう、と思いました。その大きな文字の下に、何やら小さな文字が書かれていて、反対側のホームからは読めませんでした。気になったので帰りに降りて確かめると、「知れば知るほど 無知を知る。そして人間は深まる。」とありました。やられた、さすがは大谷大学だと思いました。こういう力強い言葉を発信することが、看板を立てるということの意味だと思わされます。大谷大学のあと、某女子大学の広告に変わりました。そこには「梅田に一番近い女子大」って書かれてありました。悪いけど、それがどーした?です。大学の中身に何も関わりません。

 私たちもそうです。ここに立つ、というブレない思いと主張を掲げることは、とても大切なあり様です。できるだけ高邁な理想に立ちたいと思います。今日のテキストの小見出しには「信仰に基づいた助け合い」とあります。岩波書店版では「何を刈り取るか」となっていますし、聖書協会共同訳では「互いに重荷を担い合いなさい」となっています。どれを取っても、ガラテヤの教会だけでなく、どの教会にとっても大切な看板だと思います。

 トランプ大統領は、彼ほどの地位にあり、力を持っていても、本来個人がつぶやくための媒体・ツイッターで、重要発言を繰り返しては世界を混乱に陥れています。やり方がセコイです。語るべきところで、堂々と発言、発信すべきです。
翻って東神戸教会の看板が古くなったままになっているのが気にかかっています。それは修復せねばなりません。が、私たちの心に掲げる看板は、さてどういうものにしましょうか。
 
 
 
天の神さま、あなたが建てて下さった東神戸教会です。感謝です。あなたの思いにこたえる姿を外へ向けて発信したいと願っています。私たちのあり様をどうぞ導いて下さい。