人は鏡を見て自分の姿を確認する。そこで行われることは「修正」だと知ろう。でなければ、大いなる思い込みに陥ることとなる。白雪姫の継母のように。

 筑豊で長く働いたI牧師は、若き日に、現場を見ていたつもりで見ていなかったことを知らされショックを受けた。が、その失敗を起点としてその後を生きられた。自分の枠でしか見られない人間ではあるが、その枠を何とか壊して生きることが信仰なのだ。

 18年も病いに苦しんだ女性をイエスが癒した。その日が安息日だったので、たちまち会堂長らからの反発を受けることとなった。もちろんイエスは「安息日であっても、束縛から解かれるべき」と反論した。

 この出来事は、単にイエスの奇跡の業についての記述ではない。人々は「神の栄光に満たされたすべて」を見て喜んだのだ。いつであろうと力を振るわれる神である。
「悔い改め」と訳されるメタノイア、シューブだが、本来は「立ち帰る」という意味。私たちの枠組みを打ち壊す力は、神さまに立ち帰り、永遠のいのちにつながれていることを知るところで及ぼされるのだろう。

〈メッセージ全文〉
 振起日を迎えました。まだもう少し暑い日もあるかもしれませんが、少しずつ秋となります。夏の猛暑で火照ったり、疲れた体と心を、秋の風にさらし、また目を覚まして、これからの信仰生活を歩みたいと思います。
さて、皆さん、どなたも一日に何回かは鏡の前に立って、自分の顔を見られることでしょう。その時、俺も年食ったなあ、くたびれた顔をしてるわなんて思ったり、あ~、今日は疲れたな~、目の下にクマができてるわなどと思うこともあるでしょう。鏡に映る自分を見て、点検することは大切です。それをしないと、うっかり鼻毛が伸びたまま外出することになって、後で恥ずかしい思いにかられることになりかねません。私にはそういう経験があります。

 ただし、鏡の前で行うチェックは、あくまで修正であることを忘れてはならないのです。基本的に、そこで見たものが、そのまま他人にもさらされる訳です。ですから、髪の毛を梳いたり、ひげを剃ったり、化粧をして、しわやらしみやら、ありのまま見せたくない現実を、ちょっと自分なりに修正するのです。修正ですから、あくまで根本課題が解決するのではありません。そこを勘違いすると、白雪姫に登場する継母のような間違いをしでかすことになります。あの継母はこう思いました。そこに映る極めて小さくて狭い現実だけを見て、「私が世界で一番美しい」と。世界は広い。美の基準も価値観も様々なのに、そう思えなかったのです。それで白雪姫を憎みました。

 先週は、関西労働者伝道委員会の年度報告会がありました。今年は九州からI先生を講師にお招きしました。I先生は、学校を出るとすぐに、学生時代から関わっていた筑豊の炭鉱の町に、福吉伝道所を自ら作って46年間過ごされた牧師です。これから話す出来事は、昔からI先生を知っておられる方は、誰でも知っているお話で、私も学生時代に聞いたのですが、今回の講演の中でも再度紹介されました。

 先生が赴任して6年目の時、教会の月報として出しておられた月刊・福吉の原稿が一冊の本にまとめられて、教団出版局から「筑豊に生きて」というタイトルで出されたのです。先生としては初めての著書でもあり、率直に嬉しかったのです。

 ところが本を読んだK牧師から「君はあんな本を出版して恥ずかしくないのか」と言われたのです。敬愛する先輩のK牧師の言葉ですから、ショックだったと思います。ですが、全然意味が分からない。それで結局K先生から理由を聞いたところ、「君が大阪出身だから、大阪弁を使うのはわかるが、なぜ君と話している筑豊の人が大阪弁を話しているのだ」と指摘されたのでした。

 神学校を出て勇躍筑豊へ出向いた。伝道所を立ち上げ、家庭教師やトラックの運転手などして働きながら生計を立て、懸命に小さな福吉の町で頑張って来た自負があったに違いありません。その自負が、一瞬にして粉々にされてしまいました。しかしK先生の指摘の通りでした。自分は自分の枠の中でしか考えて来なかった、何も分かっていなかった。深い自省に迫られ捕らわれ、初の著書を絶版にされたのでした。

 もし私だったら、立ち直れなかったかもしれません。本を絶版にすることもあり得ません。でもI先生はそういう失敗を忘れず、むしろその失敗から再出発して、問い続けながら、ひきずりながら逃げないでその後の道を歩んで来られたのでした。そして、誰でも自分の枠からでしか見ることができない。だが、その枠を何とかして壊して歩むことが、信仰生活なのだと語られるのです。

 今日与えられたテキストの出来事は、ルカだけの記述です。18年も病を負って来た女性がおりました。イエスがその女性を癒されたのです。その日は安息日でした。するとすぐさま、安息日に癒しの業を行ったことに対して、会堂長が腹を立てて文句を言ったというのです。「働くべき日は6日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」と言ったと14節にあります。17節に「反対者は皆」と書かれているように、会堂長一人が不満に思ったのではなく、彼以外にもその不満に同調した者がいたのでした。

 もちろん、私たち多くの者は、一体何を言っているのだと思うでしょう。安息日に癒しをして何が悪い?そう思います。急に歯が痛んで堪らない。けれど運悪く明日からお盆休みで一週間は休診だ。仕方ないから、歯医者が空くまで、でも詰めて我慢しよう、そんな話ではありません。
あくまでも「安息日の規則」を盾にして、18年もの長き日々を苦しんで来た女性への同情も思いやりもない会堂長の言動がおかしい話です。またすぐさま癒されたイエスの行動ならびに、会堂長への真っ向からの反論の正しさを思うべき箇所ではあります。

 その通りではあるのですが、これはただ人間イエスの言動の素早さやスタンスについてだけを伝える記述ではないのです。17節に、「群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ」とあります。実はこの「すばらしい行い」という訳は、原文にはないのです。もともとは「神の栄光に満たされたすべて」と書いてあります。
群衆は、「神の栄光に満たされたすべてを見て喜んだ」のです。

 つまり、イエスがなしたことは凄いことなんだけれども、ルカの記述は奇跡の業そこに力点がないということです。イエスの癒しの業は奇跡の業であるけれど、その奇跡の力を伝えるよりも、女性からしたら、自分の身に起こされた驚くべき回復の業は、イエスを通して神さまから与えられたことで、それが神の栄光に満たされたすべてのことだったのです。

 逆にただただ規則を守ることに生活の力点があった会堂長とその支持者たち。「癒しのわざは働きが許される6日間に行うべし」と主張しました。それはあくまでも人間の勝手な枠組みでした。神の働きは、では安息日にしかなされないのか?そうではないのです。人間が働く6日間はもちろんのこと、働く日ではない安息の時であろうといつであろうと、またそこがどこであろうと、神の力は自在に振るわれるのです。ルカは、それをこそ伝えようとしたのでした。

 ところでこの一段落の出来事は、13章の最初の記事からの一括りの記述の中の一つとしてルカが編集しています。そのテーマは「悔い改め」です。振起日の今日、改めて「悔い改め」という言葉について、振り返っておきたいと思います。
悔い改めと日本語で訳されているギリシャ語の原語ではメタノイアと言います。このメタノイアは、もともと「方向を変える」「心を入れ替える」という意味です。どう方向を変え、どのように心を入れ替えるかと言うと、自分中心、人間中心であった方向と心を、神さまの方向に変え、心を神さまに向って入れ替えるということです。

 ヘブライ語ではシューブという言葉ですが、メタノイアもそうですが、語源は双方「戻る」「立ち帰る」という意味です。どちらの言葉も聖書ではほとんどどこでも「悔い改め」として使われています。それがいかにも何か罪を犯した人が、倫理的・道徳的に心を改めるという意味合いで受け取られることとなってしまいました。

 でもそうではないのです。或る牧師は次のように書いています。
「キリストに導かれて、自分と全く異なった人生を歩むことが出来るでしょうか。人間は誰も、自分以外のものになることは出来ません。自分以外のものには、たとえ、それがどれほど素晴らしく見えても、なれないのです。その点、「立ち帰る」という意味に受け止めますと、自分のうちに本来神から与えられているいのちがあるのであって、それを発見する、あるいは、そこに立ち帰るという意味になります。少し大胆な言い方をしますと「悔い改め」という字が聖書に出てきたときには、悔い改めていただいて、神に「立ち帰る」と読み替えていただくといいのではないでしょうか。日本のキリスト教界が、余りにも「悔い改め」という言葉を使って、倫理的、道徳的な方向へだけ進んでいったので、聖書本来の意味である、あなたの中にある永遠から与えられているいのちに立ち帰るという事実を受け止めにくくしています。」

 その通りだと思います。今日のイエスの癒しの業は、女性が神のもとに立ち返った出来事だったのです。「安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったか」とイエスは反論しました。この女性に必要だったのは、第一には体がまっすぐになること、治ることだったでしょうが、同時にそこに別の意味も含まれていました。この世の束縛にあって、まっすぐになれなかったのです。本来与えられたいのちのもとに立ち帰ることができない状態に置かれて18年このかたを過ごさざるを得なかったのです。

 ヤコブの手紙にこう書かれています。1章23~24節、「御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。」

 私たち、鏡を見なければ、客観的に自分の姿を確認できません。でも、鏡を見ている自分の枠には限りがあるのです。人間的な思いでどれだけ自分を見つめても、思い込むか、立ち去ってすぐ忘れるか、どちらかです。自分は美しいと勘違いするか、美しくなければと思い込むか、美しくありたいと必要以上に願うか、どれかです。

 安息日だろうが、いつであろうが、神さまはいつでもどこでも力をふるわれる。そして私たちを新しくしてくださる。私たちの枠組みを超えるその力の源に、立ち帰って歩んで行きたいと思います。神さまの力により頼んで、枠組みを何とか壊しながら、壊していただきたいと願いながら歩む生活を、信仰生活と言います。

天の神さま、あなたの導きを感謝します。私たちの狭い枠を打ち壊して下さい。そしてそこにもっと広いあなたの視野を備えて下さい。あなたの真実こそが最も美しいと思える心を育てて下さい。